極私的オタク論その5・「オタク」とナショナリズム
昨日にあんなことを書いたので、『オタクエリート』を読み返しています。
この雑誌では、「オタク」について漫画・アニメ・ゲームに関連する分野を専らその対象として取り上げ(p.14など)、これらをコンテンツ産業として称揚しています。
一方、野村総研の調査などを挙げて、「オタク産業」の盛んさを説いています(p.20~21)。その場合は上掲三分野に加えて様々な分野が加算され、鉄道なんかもそこに入っています。
今までうだうだ書いてきたことと同じ問題意識なのですが、「オタク」の中に鉄道が含まれるか含まれないか、随分恣意的だなあとやはり思うわけです。この場合のように、「オタク」の数を多く見せたいような時は数に入れられ、一方でなにやら世界に売り出すCOOLな日本のOTAKU、では出てこないのでして。
「オタク」をこういった文脈で恣意的に使いわけ、鉄道趣味者が算入されたり排除されたりするのは、ナショナリズム的な発想と関係があるような気がします。
『オタクエリート』の表紙見返しには「海外では、【オタク】は最先端の日本文化・巨大産業の総体として、リスペクトされているのです」と書いてあります。しかし、そんなら自動車のマニアだっていいじゃないですか。日本車の海外での進出ぶりを見れば。鉄道趣味者だってもちろんいいでしょう。日本の新幹線や通勤電車に匹敵するようなものは世界中探してもそうそうありません。しかしここに、鉄道趣味者が「オタク」の定義づけで恣意的な扱いを受ける理由が存在します。鉄道趣味者は欧米にもゴマンといます。軍事趣味者も同断。他の趣味についてもいくらでも例が挙げられるでしょう。しかも彼らの活動を国際比較すれば、保存鉄道を運行するイギリスの鉄ちゃんや戦車を庭で乗り回すアメリカの軍事マニア比べ、土地の高い(それだけじゃないけど)日本は活動の面でちと見劣りするかもしれません。それでは「オタク」趣味でナショナリズムを満足させる効果は得られませんよね。でもそれでいいはずなんですけどね。趣味というのは民族を越える、それがいいんじゃないかと。
話が先走りましたが、「オタク」の意味を作為的に狭く取ってみることで、「海外でリスペクトされている」というような文脈で「オタク」を語ることが可能になり、それはそのようなイメージを利用して自己の趣味を権威付けしたい、或いは「オタク」で儲けたい人たちにとって都合がいいわけです。こういったものは確かに海外にあまり例がないとされていますので、それが日本独自の誇るべき文化であるかのように認識され、そうするとそれまでその趣味に理解のなかった一般人も、何となくそれが立派なように思い込んでくれる可能性が増えるでしょう。
しかし、海外での評判とされるものを鵜呑みにして自己評価にすりかえてしまうのは、問題があるのではないかと思います。ことに「オタク」という営為がそもそも、例えば音楽活動などと比して、社会一般へのアピールやパフォーマンスという性格が弱い類のものであったことを鑑みると。
筆者が思うに、正直なところ、海外で日本のオタク文化へ向けられているまなざしも、敬意というより単なるイロモノであるとか、勘違いのような場合が極めて多い気がしてならないのです。なんとなれば、日本における「英国」+「メイド」の受容のされ方を見ていると、嫌でもそう思わずにはいられなくなるのです。言ってみれば、ひねくれたオリエンタリズムみたいなもんじゃないかと(サイードの本、何年積んであるんだっけ…)。
まあ要するに、「最先端の日本文化・巨大産業の総体」まで、「オタク」がしょいこむ意味はあるのでしょうか、ということです。このように自己中心的というか、夜郎自大的になってしまうことは、「オタク」趣味の発展にも良いことではないでしょう。
こんなけしからんことをやってたからビブロスは潰れたんだ、などとこじつけるつもりはないですけれど、『オタクエリート』に喧嘩を売られたというべきササキバラ・ゴウ氏や大塚英志氏(『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』とか)の書いたものでも読んで、少し考え直して見るくらいは悪くないと思います(すみません読んでません。そのうち買って読みます)。とまれ、あまり「外国で評判なんだ!」と主張して自己の権威付けをするのは、かえってみっともない場合もあるように思われるのです。
あんまりまとまってないなあ。もうちょっと整理して続けるかもしれません。
そうでなきゃ私の愛する反日主義者たちも批判の的になってしまいそうで悲しいです。
あと、愛することと批判することは全く両立するので問題ありません。瑞穂タソほど日本を愛している人はそれほど多くないと思います。愛し方が古典的(昨今の風潮ではアブノーマル)なため頓珍漢に非難される例が少なくなく、それはまあそんなもんだとしても、「オタク」と自称する徒輩にもそのような手合いが多々見られるのは遺憾の限りで、それは自己否定になってしまいかねないんですけどね。