秩父鉄道三峰口延伸に関する一仮説~奥秩父・中津峡の開発構想と水力発電
小生は先月、とある史料を見ることができたことに関連して、秩父のセメント事業の創業経緯につい泥縄的に調べていたのですが、それに関連して秩父鉄道についてもちょっと資料を読んでいて、ふと疑問に思ったことがありましたので、以下備忘までに書いておきます。
発電所も鉄道もまだない、1915年測量の陸地測量部5万分の1地形図「三峰」の一部
「白川村」の役場の辺りに現在の秩父鉄道三峰口駅がある
(この画像はクリックすると拡大表示します)
秩父鉄道は現在、羽生~熊谷~秩父~三峰口間を結んでいる鉄道で、セメント原料の石灰石輸送が盛んな鉄道として知られています(製品のセメントの輸送はなくなっちゃいましたが・・・)。
その創業は古く、1901年に上武鉄道という名前で熊谷から開業し、資金調達に苦しみつつ線路を秩父盆地に延ばしていきます。そして1914年秩父まで開業、1917年には影森まで延伸し、さらに三峰口には1930年に到達しました。秩父鉄道はもちろん、秩父盆地の旅客や産物を運ぶことが目的でしたが、影森に延長した頃には石灰石とそれを加工したセメントが有力な輸送品目となっていました。
1923年には、秩父盆地の石灰石資源を生かして秩父セメントが創業されますが、同社の経営陣は秩父鉄道と重なっており、石灰石を山元から近くの工場に運び、セメントに加工してまた鉄道で出荷するという、原料立地型の当時最新鋭の工場を建設しました。そして、深川と川崎に消費地立地型の工場を持っていた、当時業界最大手で関東の市場では圧倒的だった浅野セメントに挑戦し、その頃セメント業界は慢性的な生産過剰傾向にあった中で優れた業績をあげ、またたく間に浅野・小野田に次ぐ業界第3位の地位を確立します。
石灰石もセメントも値段の割にかさばるものなので、鉄道会社と良い関係を結んで輸送コストを引き下げることは、会社の業績に大きく影響しました。秩父セメントの猛攻を受けた浅野は、実は秩父でも石灰石採掘をやっていたのですが、その製品輸送条件が秩セメより不利だった(浅野の石灰石を運ぶ運賃と、秩セメのセメントを運ぶ運賃が同額だったので、当然加工品であるセメントの運賃の方が運賃負担力でみれば割安になる)ので、浅野は秩鉄に値下げを申し入れます。普通なら大荷主の要請に譲歩せざるを得ないところですが、秩セメというもっと密接に結びついた大荷主のある秩鉄はこれを蹴ることができました。
そこで浅野は、石灰石の主力仕入れ先が青梅だったので、青梅鉄道(現・JR青梅線)をしばいて値引きさせ対抗するのですが、その辺の話は渡邉恵一先生の『浅野セメントの物流史 近代日本の産業発展と輸送』(2005年、立教大学出版会)をご参照下さい。ここまでの話もだいたい同書に拠っています。
このような日本のセメント産業と鉄道の関係については、青木栄一先生編著の『日本の地方民鉄と地域社会』(2006年、古今書院)所収「日本の石灰石・砂利・セメント輸送と鉄道」がもっとも手短にまとまっていると思いますので、ご関心のある方は是非どうぞ。
以下は小生が、二三の資料を読んでいて思いついた仮説です。
秩父鉄道が三峰口への延伸の免許を取得したのは1920年5月のことです。ちょうどこの頃、三峰口駅予定地から荒川を更に遡った地点に、武蔵水電という電力会社が強石発電所というのを建設していました。この発電所は1921年に運転開始し、今は東京電力の子会社・東京発電の大滝発電所となっているようです。
で、現在は大滝発電所以外にも、荒川上流部にはいくつも水力発電所があります。その多くは戦後建設されたようですが、構想自体は戦前からあったようです。この地域の水利権は当然、武蔵水電が持っていたはずで、それではなぜ同社が戦前にそういった発電所を建設しなかったかと考えると、まず有力な仮説としては、武蔵水電が1922年に他の電力会社に合併されてしまい、さらにその会社も関東最大手の東京電灯に合併されたため、東京電灯全体ではこの地域の開発は二義的な意味しか持たず後回しにされてしまった、ということが考えられます。関東全域に豊富な電力を供給する、となれば、他に有力な開発地点はありましたし、卸売電力の日本電力や大同電力などの売り込みもありましたから、まあこの辺が後回しになるのはありそうに思われます。
つまり、秩鉄の三峰口や大滝への免許の申請がいつかはよく分からないのですが、実はこれらの路線延長は、荒川上流部の水力発電開発計画と関係があったのではないか、との仮説が小生の脳裏に浮かんだのです。
強石発電所を手がけた武蔵水電は、私鉄史系鉄道趣味者の間では、西武鉄道の源流になった会社の一つとして知られています。川越と大宮を結ぶ川越電気鉄道(川越付近で電気供給事業もやっていた)が神流川水力電気と1913年合併してできたのが武蔵水電ですが、川越では電車ができる前から国分寺へつながる汽車の川越鉄道(現・西武新宿線の一部と国分寺線)が存在し、両者が競いつつ共存していました。
ところが川越鉄道には武蔵野鉄道という所沢で交差する新たなライバルが出現し、しかも武蔵野鉄道が電化を決めたので、対抗上川越鉄道も電化を目論みましたが、資金もいるし電気の調達も必要です。と、そこでかつてのライバルの利害が一致し、川越鉄道は武蔵水電と合併しました。武蔵水電にすれば、電気の有力な消費先ができるわけです。
ところが武蔵水電は、1922年に精力的な合併を繰り返して規模を拡張していた、帝国電灯という会社に合併されてしまいます。この会社のことは以前にも当ブログでネタにしたことがあったかと思いますが、合併を繰り返して日本第3位の規模まで拡張したものの、無理な合併で会社の内容は悪化し、手当たり次第の合併なので営業区域がバラバラで規模のメリットを生かせず、経営は悪化して結局東京電灯に吸収されることになります。
その帝国電灯は、鉄道事業に関心がなかったため、武蔵水電合併時に同社の鉄道事業を分離して別会社に移します。この会社が西武鉄道で、現在の西武新宿線などを建設した会社ですが、現在の西武鉄道(前出の武蔵野鉄道が書類上は母体)と区別するため(旧)西武鉄道という言い方もします。
ところで、武蔵水電という会社は、発電所の地元である秩父鉄道と、それなりに密接な関係にあったようです。1919年には、両者が共同出資して武蔵電化という会社を設立します。この会社は、秩父の豊富な石灰石資源を利用し、電気化学で炭酸カルシウムなどの生産を目論んだものでした。なるほど電力会社にしてみれば有力な売電先になりますし、鉄道会社にしてみれば荷主になってくれそうです。
しかし武蔵電化は結局、調査はいろいろしたものの、事業自体は断念して解散してしまいます。ですがその間、調査を進めたことがのちの秩父セメントの設立に際し助けになったと、秩セメの社史では評価しています。
なおこの辺、小生が先月見ることのできたある史料によると、武蔵電化の存在は秩セメの助けどころか、場合によっては同社自体が秩父セメントになっていた可能性すらあったようです。
秩父セメント設立の中心人物で、初代社長になる諸井恒平は、もともと渋沢栄一と縁があって、渋沢が設立に関わった深谷の日本煉瓦製造の経営を任されていました。同社は最初、かなり経営に苦労しますが、諸井はそれを乗り切り、秩父鉄道など地域の他の事業にも関わっていきます。
そして1907年、日本最初の林学博士であり、鉄道趣味者の間では防雪林の考案者として知られている本多静六が留学から帰国、埼玉出身だったこともあって渋沢栄一の屋敷で帰国記念パーティーが開かれ、諸井はじめ埼玉の実業家も出席しました。その席で本多は、埼玉の発展のために注目すべき事業として、水力発電とセメントを挙げました。また本多は、海外での見聞を元に建築も煉瓦からコンクリートへ移行するであろうことを指摘し、煉瓦会社経営者の諸井はこれ以降、セメント事業を興すことに関心を持つようになったそうです。
さらに1912年、鬼怒川水力が発電所の建設に取りかかるのですが、工事を見学に行った諸井が煉瓦がほとんど使われていないのに衝撃を受けたとか、或いは水力発電所工事で煉瓦の受注を期待していたら全然発注されなかったとか、この辺多少文献によって異同があってどっちが本当なのか両方ともなのかはよく分かりませんが、とにかく諸井が時代は煉瓦からコンクリートへと移っていることを強く認識したのは間違いないようです。
てなわけで諸井は秩父でのセメント事業にいよいよ取りかかり、一時は武蔵電化と日本煉瓦製造を合併させ、セメント会社にしてしまおうという案もあったようです。更にその際、林学者の本多静六も関係していて、本多が持っていたという荒川の更に山奥、中津川流域周辺の森林資源を活かした製材業を行う構想もかなり検討されていた節があります。
ちなみに当時、セメントは木製の樽に詰められて出荷されていました。葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」という、プロレタリア小説のはずが出来が峻烈すぎてほとんどホラー小説になってしまった名作がありますが、あの樽ですね。ですからセメント会社が製材業をやるのには結構合理性があったわけです。
もっとも、樽詰めセメントはひとたる170キロもあって扱いにくいので、昭和に入る頃からセメントは袋詰めになっていきます。皮肉にも、セメント業界で紙袋導入のパイオニアが秩父セメントで、同社の出荷を合理化すると共に、職員の妻子にセメント袋縫いという手頃な内職も供給できた、と秩父セメントの社史には自慢げに書いてありました。
「セメント樽の中の手紙」は1926年発表だそうですが、タイトルは「セメント樽」なのに、手紙を書いたのは「セメント袋を縫う女工」です。ちょうど、樽と袋の併存、移行期だったんですね・・・なんて読み方をするひねくれた読者はそういないでしょうか。
以上をまとめてみますと、荒川の最上流部まで線路を引くことで、この地域での水力発電工事を円滑にならしめ、その電気を使ってセメント産業(三峰口駅より上流にも石灰石採掘場はありました)や製材業(セメント出荷にも役立つ)を活性化させ、輸送の鉄道も電化して効率を上げ、またセメントで更に水力発電所を・・・と、なかなか合理的な地域資源を活かした開発と産業発展が望めそうです。
このような構想が実現しなかった理由は、まず単純には金融恐慌や世界恐慌でそれどころではなくなってしまったということだろうとは思いますが、もう一つはやはり、武蔵水電が電力業界の激しい競争に巻き込まれて合併されていき、最終的には東京電灯の手に渡って秩父や埼玉の財界と関係がなくなってしまったことがあるのではないかと思われます。その東京電灯は1920年代後半から30年代前半にかけて、それまでの放漫経営と世界恐慌の打撃で新規事業どころではなくなります。東京電灯が荒川の山奥まで目を配る余裕がなくなってしまえば、せっかく免許が下りたといっても、秩父鉄道が大滝まで延伸するインセンティヴは失われてしまうでしょう。
武蔵水電がより大きな電力会社に合併されていくことは、電力業界としては合理性があっても、地域で鉄道やセメントや製材などで一体となった開発を行う、という可能性は閉ざしてしまうことになるわけで、一国レベルと地域経済との関係はどうあるべきなのか、ということに一つの示唆を投げかけるように思われます。
昨年の震災に伴う原発事故以来の電力業をめぐる言論の中で、「電気の地産地消」ということも言われるようになってきました。しかし、家の屋根に太陽電池パネルを張って家庭用に使う程度ならともかく、水力資源を活かして地域全体を、ということになると、秩父の例で推測されたような、他の資源や産業とも併せた、しっかりした構想が求められます。
それでも、諸井のような優れた経営者が取り組み、バックに渋沢栄一ほどの大物が控えていても、複数の事業を連関させる場合は、個々の事業がそれぞれの事業界の事情で思うように地域内での連関が取れなくなる場合もある、という一つの事例のように、小生には思われるのです。そして電気抜きで成立した秩父セメント自体は成功を収めましたが、結局これも太平洋セメントに合併されていくわけで、グローバリズムだなんだと大上段に構えなくても、地域の中で連関してうまく廻っていた事業も、事業それ自体が一定以上発展したら、発展したがゆえに地域の枠に収まらなくなってしまうこともあるのではないか、そんなことも思います。
以上、長々と述べてきましたが、まあ要は、秩父鉄道の三峰口延伸・大滝免許というのは、観光開発以上の意味があるのではないか、その可能性と失敗から、地域単位の経済活性化ということの意味や難しさが学べるのではないか、ということです。
おお、枕からは書いた人間も想像できないほど立派な結論になった(笑)
文中でちょっと触れた史料については、実はこのブログの存在が発掘のきっかけでしたので、機が至ればこのブログでもご紹介できればと思っています。
<本文中に書名を挙げた以外の参考文献の一部>
・『秩父セメント五十年史』秩父セメント(1974年)
・土屋喬雄監修『諸井貫一記念文集第1巻』秩父セメント(1969年)
・『日本煉瓦100年史』日本煉瓦製造(1990年)
・恩田睦「戦前期秩父鉄道にみる資金調達と企業者活動」