『「在日企業」の産業経済史』の著者・韓載香さんのことばにつらつら思う
それは措いておいて、上掲記事の後段で触れたような、現在の日本のネットを中心に吹き上がる排外主義的な言動に関して、ふっと最近聞いたある言葉を、備忘のために記しておきたいと思いましたので、なるべく簡潔に。
その言葉を発されたのは、『「在日企業」の産業経済史 その社会的基盤とダイナミズム』(名古屋大学出版会)の著者・韓載香さんです。
実は小生はこの本を未だ読んでいないのですが、この本の内容とも関係した韓さんの学会報告は聞いたことがあります。それはパチンコ産業の興亡に関するお話でした。大変面白い内容で、一つ明確に印象に残っていることを記しておきます。
パチンコの機械メーカーには、いろいろな工夫をして新製品を創り出すメーカーと、そうやって新たに登場し好評だった機械を真似っこする二番手メーカーの両方が存在するのですが、それでは前者によって後者が淘汰されているかというとそうでもなく、また真似される前者が後者を排除したいと考えているというわけでもなく、この業界構造が安定しているのだそうです。その理由が興味深くて、パチンコの機械のように、商品として当たり外れが大きく、好評だったからといって設備投資して生産拡大するほど長く売れ続けるわけでもない特殊な機械の場合、真似っこ企業の存在がちょうど生産の量的な調整役になっているのだそうです。なるほど。
という話が今日の記事のメインではもちろんありません。本題はこれからです。
ただ本題の前に、名古屋大学出版局のサイトから、『「在日企業」の産業経済史』の概要を引用しておきます。章立てなどについてはリンク先をご参照下さい。
・書籍の内容
エスニック・マイノリティの経済発展を可能にするものとは何か? 在日韓国・朝鮮人による製造業・土木業・パチンコ産業などへの集中と、迅速な産業転換によるダイナミックな発展過程を、差別など既存の説明を乗り越えて鮮やかに解明、世界的視野で移民の経済理論に新たな展望を拓く。
・担当者より
本書は、戦後の在日韓国・朝鮮人が、同胞の大量帰国による民族市場の縮小という試練を乗り越え、そのコミュニティ機能を再強化しながら新たな経済発展の動態を生み出した過程を、移民、エスニック・マイノリティの経済発展をめぐる世界的な研究動向も視野に、ダイナミックに描き出したものです。
従来通説的に言われてきた、パチンコ産業など一部産業に「在日企業」が集中した理由をはじめて実証的に捉えるとともに、「差別」による説明の限界をも示して、何が本当に在日経済の発展を可能にしたのかを、極めて精緻な経済分析によって浮彫りにしております。
気鋭の新世代の研究者による斬新な解釈は、在日韓国・朝鮮人社会をめぐるステレオタイプ化されたイメージを大きく覆すとともに、経済成長の源泉とはなにかを、あらためて考えさせる刺戟的な問題提起となっております。
さて、この本は先日、さる学会でその内容を評価され、学会賞が贈られました。その学会の大会に小生もたまたま参加していて、授賞式の際の韓さんの挨拶を聞きました。記録しておきたいのは、その時の言葉です。メモを取っていたわけではないので、百パーセント正確とは言いかねますが。
「在日企業」というタイトルからすると、この本を書いた韓さんとは在日朝鮮人のように早とちりされる方もおられるかも知れませんが、韓さんは韓国から日本に研究のため渡って来られた方で、最初は別に在日朝鮮人について研究するつもりもなかったそうです。
で、韓さんが最初に日本に来られたのは前世紀の終わりのことだったのですが、当時は日本の外国人入国管理は今と比べてもなお厳しく、ことにアジアの若い女性の場合は、留学でもホントは労働目的ではないか? と、殊の外うるさかったのだそうです。滞在期間を延ばす手続きにえらく時間がかかり、何度も役所に足を運ばねばなりません。
そんなことを繰り返されていた韓さんは、次第に「一体自分は日本に居ていいのか」と思うようになったのだといいます。その思いをずっと抱き続けながら、長年日本でご研究を続け、この『「在日企業」の産業経済史』を著されたわけですが、その本が授賞されたことに、韓さんはこう仰ったと、小生は記憶しております。
はいそこ、「今公開中の某アニメに合わせたネタかよ」なんて言わない。
この言葉を聞いた時、小生の頭の中をよぎった内容は、以前に当ブログで「『建国記念の日』に思う 『条件付き愛情』的な『愛国心』」という記事で纏めましたので、くだくだしくは繰り返しません。
今もう一度、手短に述べるのならば、「自分の国を誇るのは当然」などという発想は論理的におかしい、自分がやったことを誇るのでなければ、それは所詮他人の褌で相撲を取っているのに過ぎない、だから「国を愛する」ということは、どんなささやかなことであっても、自分が自分の周囲を豊かにできたことであるべきではないか、ということです。ただよその国の悪口をネットで書き連ねているだけで、無自覚に「日本人なら日本を愛するはずだ」と、自分の嗜好と異なった人間を排撃したところで、それは「国を愛する」ための前向きな努力とはなり得ません。
だから、小生が思うには、前回の記事で取り上げたような、深夜アニメの描写一つでネットで吹き上がっているような自称「愛国者」より、韓国生まれの韓さんの方が、日本で起こっている事態の一端を解明し、その成果を日本語で説明してくれたのですから、よほど「日本を愛する愛国者」というべきではないでしょうか。「日本にいる」ことに、生まれてくる以上の意識的な行動をしたわけではない者たちよりも。
そしてここでもう一つ、「『建国記念の日』に思う 『条件付き愛情』的な『愛国心』」で書き落としたことを補足しておきます。上掲記事は「国を愛する」ということの、「愛する」ということの意味に焦点を当てたものですが、もう一つ、「国」とはなんぞやということについても検討する必要があります。
小生自身、日本史を研究していることになっていますが、多少なりとも勉強すれば、「日本」とは何なのだろうか、ということについて考えることになるのです。そして調べてみればみるほど、「日本」の中にややこしい重層的な諸関係が存在していることがぼんやり分かってきます。もうちょっと平たく言えば、星新一に「マイ国家」というショートショートがありますが、それこそシーランド公国だって、国とは複数の人間からなっているのだから内部に様々な意見はあるということです(シーランド公国でも内部紛争があったそうで・・・)。
それに無自覚に、「日本とは~」という主語で安直に語ってしまうことは、「日本」が含意しうる様々な可能性を押し潰してしまうという意味で、問題であると言えるでしょう。
・・・あ、書き落としたどころか、この論点はもっと前にブログで書いてました→「百一年目に思う血の日曜日事件」 あんまり書いている人間が進歩していないということでしょうかね・・・。
とまれかくあれ、勉強して、それを世にちょっとでも反映して、自分がここにいる意味を見つめることは、人間として普遍的に大事だという発想に至るところ、自分の「近代」性を再度自覚させられもしましたが、しかし今がなお巨視的には「近代」の一角であることはまず確かである以上、近代の産物である国民国家について語る際には、如上の事柄を考え続けるようにしようと、個人的には強く思わせられた一件でした。
ただもちろん、万人にそうあるように強いることも必ずしも妥当ではなく、不勉強のせいにしてそういった人々を切り捨てるような振舞も、結局は良い成果を生むとは期待できません。そのあたりを架橋するような道を考えたいのですが、今の小生の手には余ります。ただ、一つの仮説とも呼べぬ思いつきですが、近代家族の存在をこの文脈で考えてみればということをぼんやり思ってはいます。
以上、「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」と就任演説で述べた、ケネディ大統領暗殺の日に寄せて書いてみました(例によって、記事の完成は翌日にずれ込んでますが・・・)。
今はなかなか余裕がありませんが、遠からず『「在日企業」の産業経済史 その社会的基盤とダイナミズム』は読んでみたいと思います。
さくら荘のサムゲタン騒動とのあまりの温度差に違和感を覚えますが。
何かが起こっている、ということと同じくらい、何かが起こっても良さそうなのに起こらない、ということも検討すべきことです。両面見て分かることも多いと思います。
で、この場合は明らかに・・・吹き上がるような人々とクラシック音楽を聴く層との重なりが極めて少ない、という文化的クラスタの相違を示唆するものです。吹き上がるクラスタは、9時まではテレビ朝日を見ていても、9時からは見ていない・・・というのは偏見とは思いますが。
でも、黛敏郎が司会者だった伝統ある番組なんですからねえ・・・
別件ですが、mixiでメッセージを送りましたので、お読み戴けましたらありがたく存じます。