「電鉄業の多角経営の過去と未来」まとめました 附:「京王帝都電鉄」の名残

以下のリンク先をご参照下さい。
・電鉄業の多角経営の過去と未来(togetter)
当ブログの過去の内容とも関連がありますので、鉄道史にご関心のある方は是非どうぞ。またこのまとめ中で紹介しております、中村尚史先生の論文「電鉄経営と不動産業 : 箕面有馬電気軌道を中心として」は、阪急(箕面有馬電軌)の不動産事業がなぜうまくいったのか、また同電鉄開業直前に専務の小林一三が贈賄で捕まったのはどういう理由だったのか、という阪急の経営史上案外語られてこなかったことを究明した論文ですので、まとめは読まなくてもこちらは是非。
ツイッターはだいたいしょうもないと思われることの多いメディアですが、こういったブレーンストーミングや意見交換を行えるという点では、メリットもあるかもしれませんね。
という宣伝だけなのも何なので、最近見つけた鉄道関係の情景をご紹介したのが、上の写真です。

記事冒頭の写真の、線路沿いの柵に掛けられている看板を拡大したのが、上の写真です。社名の表示が面白いですね。元々「京王帝都電鉄」だったのが、社名を変更したのに伴い「京王電鉄(株)」と上からシールを貼ったものの、その後風化してシールが剥がれ、もとの社名が登場した・・・というところでしょうか。
京王電鉄は、戦前に現在の京王本線などを建設した京王電気軌道と、現在の井の頭線を建設した帝都電鉄という、二つの会社がもとになっています。帝都電鉄は小田急系で、一時小田急に合併されてもいましたが、戦後京王が所謂大東級から再独立する際、かつてのドル箱だった沿線での電気供給事業を、戦時中の電力統制で失っていたため、企業としての基盤を強化するために譲られたといいます。
帝都電鉄は、昭和初期としては最新鋭の電鉄で、路面電車に毛の生えた程度だった京王よりも高性能の電車を使っておりましたが、そんなわけで転籍することとなってしまい、そこで社名に「京王帝都」として昔の名残をとどめることになったわけでした。おそらくは、旧帝都電鉄出身者との融和を図るためでしょう。戦後の出版物では、「京帝」という略名も見られます。
でも「京帝:という言い方は広まらなかったようで(「京王帝国主義」みたい!?)、沿線の人もだいたい「京王」と読んでいたのではないかと思います(小生は京王帝都最末期に、沿線の学校に通っていましたが、やはり皆「京王」と呼んでいました)。というわけで、1990年代になって、遂に社名をシンプルに「京王」としたのでした。帝都電鉄時代を知る人が、社内にも沿線にも少なくなったのだろうと思われます。
そんな歴史をちょっと偲ばせてくれる、看板の老朽化でした。
もう一点、この近所にあった、これは完全にシールが剥がれてしまったらしい看板を掲げておきます。


※猫を撮るのって難しい・・・