佐高信『電力と国家』を巡って考える 綜合編
です。佐高氏の名は夙に有名ですから説明の必要はないでしょうが、その氏が震災と原発事故を受けて、日本電力業の歴史に学ぶべく昨年10月に上梓されたのが本書のようです。小生がしばらく前に手に入れたものの奥付には、昨年11月発行の二刷とあり、また著者名とタイトルで検索してみてもかなりの件数の感想がネット上に見出されるなど、それなりに読まれている本のようです。
小生は佐高氏の著作にはあまり馴染んでおりませんでしたが、時折目にする氏の企業社会批判には肯うところもありました。また、歴史に着目して電気事業を論じているということは、震災後の、発送電分離と自然エネルギーを無批判に礼賛するばかりで来し方に学ぼうとしない多くの言説に残念な思いを抱かされることの多かった中では、期待を抱かせるものでした。
本書の帯にはこうあります。
現在は官僚にも電力会社のトップにも、なるほど、なるほど。
公(パブリック)の精神は失われている。
凄まじい葛藤の歴史をたどり直すことによって、
是非とも、その精神を獲得してほしい。
それを願って、私は本書を発表する――。
また、カバー折り返しには本書の概要が以下のように記されています。
軍部と革新官僚が手を結び、電力の国家統制が進んだ戦前、「官吏は人間のクズである」と言い放って徹底抗戦した電力の鬼 松永安左エ門、「原爆の洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と原発に反対した木川田一隆など、かつて電力会社には独立自尊の精神を尊び、命を賭して企業の社会的責任を果たそうとする経営者がいた。フクシマの惨劇を目の当たりにした今こそ、我々は明治以来、「民 vs.官」の対立軸で繰り返されてきた電力をめぐる暗闘の歴史を徹底検証し、電力を「私益」から解き放たねばならない。この国に「パブリックの精神」を取り戻すところから、電力の明日を考える。
しかし、一読して小生は、唖然とせざるを得ませんでした。なるほど震災後の時勢に合わせ急ぎ取りまとめたことにこそ価値があるのであって、内容について歴史的に精密な実証などを求めるのはお門違いでしょう。膨大な文献をうまくまとめてエッセンスを伝える、というのはジャーナリストの大事な仕事です。でも、元になった著作のエッセンスを、本書は殺してしまっているとの感を、小生は受けました。本書はあまりに粗笨な内容と言わざるを得ません。小生は、佐高氏が本書の巻末で挙げておられる「主要参考文献」の主なものには目を通しておりますが、率直に申し上げて、ネタ本より意義のある視点や論点を打ち出しているとは評価できません。
そのような本書を有意義な議論の手がかりとするには、さまざまな角度から本書を批判の俎上に載せるしかないと小生は考えます。そこから引き出される問題点は、おそらく電力業についての現今の言説が、陥りやすい問題点をかなり網羅できるでしょう。
以下になるべく簡潔に書いていこうと思いましたが、どうも一読して作ったメモだけで結構長いので、全部で記事を三つに分割し、まず今回は、小生が考える本書の問題点を先に、箇条書きにまとめた形で記述します。そうすれば、例によって続きが途絶しても、とりあえず趣旨は伝わるでしょう(苦笑)。
というわけで、先に結論です。
●本書の問題点
(1)松永安左エ門と木川田一隆を、いわば「絶対善」とするため、「善玉」対「悪玉」というきわめて平板な理解に陥っている。
(2)佐高氏が本書で伝えたかったという、松永や木川田の「公(パブリック)の精神」とは何か、明確な定義がなく、何がどう「公」なのかよく分からない。
(3)先行研究や文献が十分に消化されておらず、関連して触れるべき事実が多く欠落しており、結局参考にした文献よりも何らかの有意義な議論に寄与していない。
本書の問題点は、この三点にまとめられましょう。そして、この三点は相互に関係しあっています。打ち出している「公の精神」なるものが曖昧なので、文献をちゃんと読んで消化できず、結局平板な善悪二元論に陥っている、その二元論を相対化できないので、先行研究を把握できず、打ち出すべき「公の精神」は曖昧なまま――そんなところではないでしょうか。
次回の記事では、本文に即して順次具体的な問題を述べていきます。
※続きはこちら
・佐高信『電力と国家』を巡って考える 技術編
・佐高信『電力と国家』を巡って考える 業務編