佐高信『電力と国家』を巡って考える 業務編
「佐高信『電力と国家』を巡って考える 綜合編」
「佐高信『電力と国家』を巡って考える 技術編」
の続きです。今回で完結です。
左上から時計回りに、三宅晴輝『電力コンツェルン読本 日本コンツェルン全書13』春秋社(1937年)、駒村雄三郎『電力界の功罪史』交通経済社出版部(1934)、吉田啓『電力管理案の側面史』交通経済社出版部(1938)、大和田悌二『電力国家管理論集』交通経済社出版部(1940)
※佐高信『電力と国家』の「主要参考文献」になっているのは最後のだけ
最初に書いたように、本書には大きく、(1)松永安左エ門と木川田一隆を持ち上げるあまりに妥当性を欠く、(2)松永や木川田の「公(パブリック)の精神」とは何かが曖昧、(3)先行研究や文献を充分読んでいない、といった問題があると考えられます。その具体的な内容については、前回に書いた通りです。今回はそれらを踏まえ、本書から敢えて何を読み取るか、ということについて考えます。
まず参考までに、ネット上で目についた本書の感想をまとめておきましょう(敬称略)。
・Amazon のカスタマーレビュー
・読書メーターの感想・レビュー
・社会科学者の時評「■ 勲章-原発-東電経営者-知事など ■」
・夢幻と湧源「佐高信『電力と国家』」1・2・3・4・5・6・7・8
・日々是好日「誰が殺した」
・見もの・読みもの日記「松永安左エ門の遺産/電力と国家(佐高信)」
・zoota's weblog「佐高信著『電力と国家』を読んで」
・茨城県笠間市・行政書士くろだの日記帳「佐高信『電力と国家』のこと。」
・けんちゃんの吠えるウォッチング「「電力と国家」を読んで」
・一条真也のハートフルブログ「『電力と国家』」
・おやじのぼやき「電力と国家 佐高信 集英社新書 2011」
・田中尚輝のブログ「佐高信の電力会社と政府との関係理解」
・ガリバー通信「「電力の鬼」、松永翁。」
・日々のつれづれ(5代目)「佐高 信著 「電力と国家」(集英社新書)」
・一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ「佐高信さんの木川田一隆元東電社長礼賛について。」
・Entrepreneurshipを探る旅「『電力と国家』(佐高信)」
・ハマりもの日記「『電力と国家』(佐高信)」
・磯野鱧男Blog「電力と国家 集英社新書 0613」
・気まぐれ読書感想文「電力と国家/佐高信」
ざっとこんなところでしょうか。好意的な感想、勉強になったという評価が多いようですが、批判的なものもある程度見られます。本書の、悪玉・善玉をはっきり分け、悪玉を激しく非難することに辟易されるされる方はそれなりにおられるようです。
批判的な感想の中でも、「佐高信先生追っかけブログ」と銘打っておられる方が、木川田一隆を賞賛する佐高氏に疑問を呈しておられるのは興味深いところで、しかし原発への批判を徹底するならば、それの方が筋としては通りやすいというのは自然な感想であろうとも思われます(なお上掲リンク集では、この「佐高信先生追っかけブログ」より上が本書に好意的なもの、以下が批判的なもの、と一応分けています)。
で、何度も繰り返し述べてきたように、善玉と悪玉をはっきり分け、悪玉を痛罵し善玉を礼賛してしまう、その平板な理解こそが、本書の最大の問題と思われます。それが一体何をもたらすのか、特に本書が初めての電力業史への手引きとなった方(上掲リンクを見ても、そういった方はかなりおられるようです)への影響は、と考えると、小生は皮肉にも、佐高氏の行動が、戦前期に電力資本を批判し、電力国家管理を推進した勢力と重なって見えてしまうのです。
本書は、官僚も多くの経営者も厳しく批判し、松永と木川田といういわば「英雄」、偉大な指導者だけがそれに反対した「正道」を貫き通して「公の精神」を体現した、というのは分かりやすい構図ですが、それこそこれは、軍や革新官僚に「革新」を託した当時と同じことではないでしょうか?
軍部や革新官僚の電力会社批判が世論に受け入れられるだけの負の実績が電力会社にあったこと、それは国家管理を批判する側でも認めていたことは、前回もちょっと触れました。それが結果的に、より好ましくない結果を招いてしまったのですが、佐高氏の善悪二元論的な見方も、そのような事態を招く恐れはないでしょうか。
本書を読んでいてそんな懸念を覚えた小生でしたが、その懸念は最後の頁に至って裏付けられました。本書のあとがきの最後の頁で、佐高氏は
発送電の分離など、かなりの部分で問題意識を共有するのが、改革派官僚として、その著『日本中枢の崩壊』(講談社)がペストセラーになっている古賀茂明である。(171頁)と書いているのです。小生は震災直後、ネットで古賀氏の電力論を読み、すぐ分かるような事実誤認をいくつも見いだしてがっかりした記憶があります(今それが見つからないのですが)。小生も多少官僚について歴史的に調べてきましたが、率直にいって、古賀氏の言説はヒステリックな感があり、古巣への復讐という印象を拭い去れません。
最後の頁で古賀氏の名を目にしたとき、小生の脳裏を、黒部ダムで大晦日に歌われた、中島みゆきの歌の一節が通り過ぎていきました。
「名だたるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む」(中島みゆき「地上の星」より)
佐高氏も、革新派ならぬ「改革派」という氷を、掴んでしまったのではないでしょうか?
何かどこかに「正義」があって、それを奉じて逆らう連中を退治すればよい、という世界認識は、社会の大きな問題を解決するように見えて、より大きな不幸をもたらしはしないでしょうか。大きな問題で、多くの人の様々な立場が関わる問題であればこそ、さまざまなオプションを用意し、諸案をすり合わせていく、ひとつの案が潰れてもくじけない、そうやっていくことがよりましな方法ではないでしょうか。そして、松永や小林がやってきたことも、そういったことであったと小生は考えています。
戦後、九電力体制への改革や、九電力の体制固めのための電力値上げは、世論の評判が極めて悪く、それを断行した松永は「電力の鬼」と呼ばれ悪者視されましたが、今日ではその評価は逆転しています。これに準えた時、現在原発についてどの立場を取っているものが「鬼」なのでしょうか。
小生とて今回の事態に対し確たる案を有するわけではありません。ですが、長期的な脱原発依存という目標に向けて、一枚の切り札に全てをかけるような、或いは戦犯裁判的な方法ではなく、いくつものオプションを同時並行的にやりながら進んでいくこと、既存の電力会社の活用できるところは今後も使うこと、といったことは確かと思います。
「官」と「民」の関係でいえば、両者がズブズブに癒着することは問題で、その点の佐高氏の批判には同意です。ですが、「喧嘩」ではなくて「ほどよい緊張関係」なところが大事なのです。「官」がそんなに悪いなら、全く監督も何もなしがいい、とはなりませんし、それは「電力戦」のドタバタで明らかです。まさか、電気事業の許認可権という概念自体も不要で、好き勝手に土地を買って電線を引けばよい、なんて訳はないでしょう。
「官」もまた必要な存在であり、余計なお節介はもちろん慎むにしても、「民」のことに充分知識を持ち、押さえるところは押さえねばならないのです。それは、企業の社会的責任を、より確実かつ豊かなものともしうるでしょう。
充分長くなりましたので、また書ける話題はいくらでもありますが、そろそろ終わりにします。
最後に、小生がこれだけ延々と本書の批判をしたのは、佐高氏の思いを全く否定しているからではなく、小生は思想的にはむしろしからそう遠くない立ち位置のつもりです。それがここまで書かねばならないと感じた、という苦衷を、少しでも汲んで戴ければと思います。
ただ、本書については、ジャーナリストの仕事としてあまりに粗末に感じざるを得ませんでした。本書は、既に述べたように、大谷健『興亡 電力をめぐる政治と経済』(産業能率短期大学出版部、1978)によるところが極めて多く、しかも本書がこれらのネタ本よりも新たな価値を生んでいません。本書の佐高氏オリジナルな内容といえば平岩外四の勲章のエピソードぐらいでしょう(これも氏が震災直後、『週刊金曜日』に書いたことの使い回しです)。
小生は、佐高氏はそんなにせっせとネタ本から引用するくらいなら、いっそ自分で書くよりも、大谷健『興亡』を復刊して解題だけ書いてくれれば良かったのに、との感想を抱かざるを得ませんでした。本書はとうの昔に絶版となり、今や古書市場でもそうは見ない(見つけても高い)存在なのです。偉大な先人の業績を掘り起こすことも、ジャーナリズムの務めではないかと思われます。
というわけで、小生はここで「復刊ドットコム」の存在を思い出しまして、同サイトに本書の復刊を要望致しました。
・復刊ドットコム『興亡 電力をめぐる政治と経済(大谷健)』復刊リクエスト投票
どうか、電気事業の過去と未来にご関心のある方の、ご助力をお願い致します。すぐれたジャーナリズムの仕事は、何十年経っても、普遍的な価値を持つのですから。
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田原総一朗「ドキュメント東京電力」を読んだあと、ずっと引きずっていた胸のつかえに今回補助線を引くことができました。
「国家管理は再び戦争への道を開くことになる」とかいう記述を読んで、「営利企業のトップがそういうモチーフで動くものなのか? 反戦の意思から?」と首を傾げていたのです。
本記事を読んで、どうやら『興亡』という本の出来があまりに良く、その後塵を拝する類書が続出した、らしい状況が見えてきました。
結局のところ佐高にも田原にも木川田の動機をネタ本以上に忖度することはできていないし、そしてまた「なぜ国管に、原子力に反対したのか」「どうして急に翻意したのか」はいまだ誰にも謎のままなのであろうことが見えてきました。
わたしは電力事情にまったく詳しくありませんが、当時の東京電力幹部とかに聞いてもたぶん全員「わからん」とか言うんじゃないかと思いました。
コメントありがとうございます。
田原総一郎の本は未読ですが、木川田の「変心」を通産省との主導権争いから説明しようと試みているようですね。少なくともその着眼点があるだけ、本書よりはマシかもしれないと思います。
後から歴史を振り返って研究することで、渦中の人には見えづらかったことが見えてくるというメリットもありますが、それ以上に一貫したルートで結末に至ってしまったように見てしまうデメリットの方が大きいことは、よく念頭に置かねばならないと痛感します。