長崎事件記念日 松永安左エ門「官吏は人間のクズ」発言と内務官僚・丸亀秀雄
・平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った』感想
まことに面白い本の書評を試みた記事ですが、同書の内容のみならず、平山昇さんが他の機会に報告された内容にも触れ、かついろいろと議論の発展を試みました。その分長文になってしまいましたが、まあそれなりの内容ではないかと自負しております。
という連絡だけで終わるのも寂しいので、今日の日付に関係した、ちょっとした話題を。
(この画像はクリックすると拡大表示します)
これは、日本の電気事業を代表する経営者・松永安左エ門が1937年1月23日、故郷の長崎県(松永は壱岐の出身)に行った際、地元の商工会議所で座談会中、中小商工業の振興について、お上に頼るような姿勢ではダメだ、と強調するあまり、「官吏は人間のクズである」と暴言を吐いてしまい、騒動を引き起こした事件にまつわるもので、時に「長崎事件」と呼ぶことがあります。
とはいえ、こういっちゃなんですが、暴言は暴言にしても、こういうことを公の場で言っちゃう人はままおります。普通なら、まあ新聞の記事でちょっと取り上げられたりしても、そう大きく問題は発展しなかったかもしれません。
ところが時代が悪かった。時は2.26事件の翌年で日中戦争直前、既に戦時体制に備えた「新体制」が築かれつつあり、既存の政党や財界は非難の対象となり、ことにかつて「電力戦」という激しい競争の結果、財界のみならず社会にも顰蹙を買うような事態をまま起こしていた電力業界に対しては、国営化すべきという動きが高まっておりました。このへんの話は当ブログでもタグ「電気事業史関係」で何度か説明しておりますので、ご参照下さい。
松永の発言を聞いていた中に、長崎県の水産課長を務めていた、丸亀秀雄という内務官僚がおりました。彼は松永の言葉に憤激し、官吏を侮辱したと息巻いて、松永の宿に直接乗り込んで真意をただし、答えによってはただではおかないとピストルの手入れを始めました。
これを知った知事が殴り込みを止めさせようとしますが、結局丸亀は松永のもとに乗り込みます。すると、松永は形勢不利を悟ったのか、手をついて丸亀に詫び、丸亀が提示した条件を飲みました。その条件には、大新聞への謝罪広告の掲載や、神社などへの多額の寄付という内容がありまして、上に掲げた広告はそれなのです。
広告は見て分かる通り、二段のそこそこの大きさで、確か9面に掲載されていました。『東京毎日』にも同様の広告がありましたが、元内務官僚の大物・正力松太郎が経営していた『読売新聞』では、何故か見当たりませんでした。長崎では当時売ってなかったのか、丸亀は読んでいなかったのかな?
さて、官僚が松永の暴言を批判するのは当然ですが、ピストルを用意して殴り込み、5万円もの寄付金(今なら1億円くらいにもなりましょう)を巻き上げるとは、ヤクザも総会屋も真っ青の仕業と言われても仕方ありません。神社への寄付金という形ですが、当時の神社は内務省管轄だし・・・。
ですので後年の電気事業史の本や松永の伝記なんかでは、「自由主義経済の旗手・松永が、官僚の圧政にねじ伏せられた、電力国家管理に至る象徴的ポイント」のように扱われています。昨年12月の当ブログの記事で取り上げた、佐高信『電力と国家』や、大谷健『興亡 電力をめぐる政治と経済』(復刊リクエストにご協力をお願いします)などもその例で、大谷著は特に、この長崎事件を冒頭に持ってきています。それだけ象徴的に捉えられているのですね。
大谷健が『興亡』を書いた1975(昭和50)年頃には、まだ丸亀は存命で、大谷は直接会って話を聞いています。その時の模様が後書きに記されているので、以下に引用します。
書き始める前、五十年の年末の御用おさめの日、あの傲慢な松永がタタミに頭をすりつけてあやまった長崎事件の主役、若き革新官僚丸亀秀雄氏にお目にかかった。銀座に事務所のある輸入海苔共同組合連合会の専務理事をしておられ、当時七十一歳だった。
この事件は氏の人生の中で、もっとも大きな事件の一つだったようで、三十九年前のことなのに、その記憶はなお生々しかった。内容は氏が『松永安左エ門翁の憶い出』に寄せられた一文とほぼ同じである。そこには書かれていないが、その時、丸亀氏のところへ、東邦電力の社員から「松永社長は社内で横暴をきわめている。もっとこらしめてくれ」という内部告発の投書がきた話をされた。
丸亀氏はあの松永を痛めつけた人だから、もちろん上司におべっかを使うような人柄ではなく、その後、貴族院書記官などを務めるが、局長、次官といった出世コースをたどるにはあまりに剛腹すぎた。氏が戦争末期、東条英機首相の追い落としの運動に秘かに動いた思い出を語ってくれた。(『興亡』241-242頁)
松永は電力業の偉大な経営者と今日評価されていますが、絶対視しすぎても問題ではないかと小生は『電力と国家』批評の中で指摘しましたが、それを裏付けるような投書の存在が興味深いですね。
それはともかく、斯様に電力国家管理への一里塚として取り上げられる長崎事件なのですが、一方で国管を進めた中心である、革新官僚の側から見ると、丸亀という人物は全く登場しません。当ブログの記事でしばしば取り上げている、逓信省の革新官僚・大和田悌二の残した日記のこの日付け前後を見ても、長崎事件には全く触れていません。1937年2月8日には、大和田の日記に松永が登場しますが、やはり事件の話はありません。
この事件の起こった日はちょうど広田弘毅内閣が「腹切問答」で崩壊した時で、長崎で事件が起こっている頃は、宇垣一成に大命降下するも流産し林銑十郎内閣が成立するという、中央政界がすったもんだしている最中でした。広田内閣が電力国家管理法案を提出していたのがこれで流れたのですが、そんなわけで革新官僚には長崎の騒動にまで目配りをする余裕はなかったのかも知れません。
とはいえ、更なる嫌みな見方をすることもできます。
丸亀秀雄の経歴は、先にリンクした憲政資料のページに載っています。丸亀は東京帝大を卒業して1929年内務省に入ったのですが、長崎事件後の1937年6月には貴族院書記官に転じ、1942年にはそれも退官して川南工業の取締役に転じていますが、ぐぐってみるとこれは長崎に1936年できたばかりの造船所で、戦時中には大量生産をしたものの、戦後すぐ潰れているようです。作った船も小型の軍艦や戦時標準船といったところで、砕氷船「宗谷」を造ったことで歴史に名を残しているのみのようです。その後も長崎県漁業組合連合会理事を務め、晩年は「輸入海苔共同組合連合会の専務理事」となっていたのですね。
つまり、有り体に言ってしまえば、丸亀はあんまり出世しなかったのです。直接会った大谷は「出世コースをたどるにはあまりに剛腹すぎた」と好意的に書いていますが、結局そういうことです。内務官僚となれば知事まで昇進すれば立派なものですが、地方の水産課長だけというのはどうも淋しい経歴です。
で、小生がたまたま見た史料などから考えるに、丸亀はどうやら大学の成績や高等文官試験の席次もパッとしなかったのではないかと思われる節があります。お役所では大学の成績が物を言うのは今もあるようですが、ことに戦前はその傾向が強かったと言えます。とりわけ成績にうるさかった大蔵省に比べれば、政治任用の多い内務省はけっこう逆転の目もあったようですが、やはり成績が良いに越したことはないでしょう。
ここから意地の悪い見方をすれば、丸亀自身も自分の立場が出世にあまり有利でないことを承知しており、当時の確信の時流を背景に、財界の大立者・松永を相手としての一大パフォーマンスで地位を築こうとした、という思いがどこかにあったのではないでしょうか?
あまりに意地の悪い見方だと我ながら思いますが、当時の社会情勢や戦前の官僚システムから考えれば、あり得ないことではないように思われます。官僚制については水谷三公『官僚の風貌』(中央公論新社)をご参照下さい。本記事も同書に多くを拠っていますし、小生が長崎事件を最初に知ったのも同書によってでした。
しかし、丸亀は結局あまり出世せず、その資料が憲政に残されているとはいえ、あまり歴史上重要な人物とは扱ってもらえていません。むしろ彼は、いみじくも大谷が長崎事件を「氏の人生の中で、もっとも大きな事件の一つだったよう」と書いているように、松永に手をついて謝らせた「横暴な官僚」を代表するイメージで日本近代に名を残してしまっています(実際には革新官僚と丸亀の間にはつながりがおそらくなかったようなのに)。そのイメージが全くの誤りというわけでもないですが、その背後には更なる当事者の思いがあったのではないか、そこから別な角度で、「革新」的な官僚が時代を代表したことの意味をも捉えられるのではないか、そんなことをつらつら考えています。
あれ、書きかけ記事完成の告知に添えた小ネタのつもりだったのに、えらくこれだけで濃いめの記事になってしまいました。まあ何も書けないでいたここ数日のことを思えば、前向きに捉えるべきと思うことにします。
以前の職場の上司(現役公務員)が言っていました。
「ヤクザとヤクニン、一文字違い」
長崎事件はその特異な例として、やはり歴史的に重要な意義があると思うのですが、その評価にはなお検討を要すると思うのです。
こちらの方で 益田の孫娘が 職業野球の選手と恋仲になって なにをいっても 別れない ということで 松永が東条に口を聞いて
軍隊送りにして 別れさせまして 野球選手は 見事 靖国の土地になりましたとさという話がでていました
よ! 本当の鬼ですか 一字ちがいでも ヤクニン ヤクザの方が
鬼よりはマシじゃないですか
白崎秀雄の鈍翁益田孝伝ですね。
最近書いた大和田悌二と太田静子(太宰治の愛人)の件でもそうですが、当時のエスタブリッシュメントの発想としては、むしろその方が自然だったのだろうと思います。
松永にしても、経営者として茶人としての逸話はいろいろありますが、「ふつうの」感覚からいろいろな意味でぶっ飛んだ人であり、人でなしといえば「鬼」の渾名も適切かもしれません。
その辺、松永とよく対比される小林一三の感覚は、けっこう現代の小市民的感覚に近いところが、宝塚に対する態度なんかからも垣間見えて、それが両者の経営姿勢の相違にもつながっているのではないかと感じています。