菊と鷲 日露の軍艦名の疑問
日本海海戦は5月27日だけで終わったのではなく、その夜に水雷艇などによる夜襲が行われ、翌日に追撃戦が行われて、そこで敗残のロシア艦が日本海軍に降伏したりして、海戦は終わります。
で、そんな次第で5月28日に降伏したロシアの戦艦に、オリョール Oryol Орёл という艦がありました。同艦は当時のロシアの主力戦艦・ボロジノ級の1隻で、同級は全部で5隻も建造されましたが、4隻が日本海海戦に参加して3隻沈没1隻降伏と、散々な目にあった級でもあります。

※このゲームの攻略法についてはこちらの記事を参照
この艦の名について、小生が昔読んだ本では「アリョール」としていたものもありましたが(当時の日本側はそんな感じで呼んでいたようです)、ロシア語としては「オリョール」の方がよりよいようです。このへん、小生が以前お世話になった先輩の「大名死亡」さんのサイトの記事、「日本海海戦に参加したロシヤ艦艦名一覧」の書き方に従います。
で、その「日本海海戦に参加したロシヤ艦艦名一覧」に、「オリョール」の艦名の意味と由来が書いてありますが、これは「鷲」という意味で、ロシア皇帝の紋章に由来するそうです。遡ればローマ帝国皇帝以来の由緒あるマークというわけで、そもそもピョートル大帝がロシア海軍を創設した際の最初の艦名も「オリョール」だったそうです。
確かに、鷲という猛禽類の名は強そうで軍事向きですし、皇帝の象徴というのは主力艦に相応しい名前ですね。
・・・と思ったのですが、小生はここでハタと疑問が浮かびました。
日本海海戦で「オリョール」を捕獲した日本海軍は、主力艦の艦首に、天皇家のシンボルである「菊のご紋章」を取り付けています(明治初期には艦尾にも付けた船もあったとか)。これは木で作って金箔を貼っていたそうですが、日本海軍の主力艦の象徴といったところです。
ところで日本海軍には、この天皇陛下のマークたる「菊」を名前にした艦もあります。しかしそれは、ロシアの「オリョール」が堂々たる戦艦だったのと比べると、ごくささやかな軍艦でした。二等駆逐艦・樅級の一隻、菊です。二等というくらいで、当時の駆逐艦の中でも小型(770トン)な存在でした・・・。

ちなみに、軍艦に付ける菊のご紋章は、日本海軍が「軍艦」と決めていた主力艦(戦艦や巡洋艦、のちには航空母艦も)にしか取り付けられませんでしたので、駆逐艦の菊には、菊のご紋章はなかったことになります。
まあ大正以降の日本海軍の命名基準では、植物は二等駆逐艦と決められていましたし、理屈としてはこうなるのは分かるのですが、駆逐艦に「菊」と命名するときに、なにがしかその辺問題にはならなかったのか(ならなかったから付けたのでしょうが)、「オリョール」と引き比べると多少不思議な感じもします。
皇室のトレードマークが日本では花なのは、我が皇室が平和を愛されるからだ――というのなら結構な話ですが、そういえば皇室が菊の紋章を使い出したのは後鳥羽天皇の時からだそうで、そうするとあんまり平和的でもないような・・・。菊を中国趣味として排斥したりする徒輩が出ても困りますが。
とりとめない話で申し訳なかったので、お詫びに興味深いトピックを、先にご紹介した「大名死亡」さんのサイト「討死館」からご紹介しておきます。
・1870年のフランス軍の軍制度について
・鎮台考~鎮台制はフランス式ではない~
よく、明治初期の日本陸軍はフランス式であったが、その後ドイツ式となり、軍の編成も地域防衛・反乱鎮圧を主眼とした鎮台制から、機動力を高め外征を志向した師団制になった、というような説明が日本史の本に載っています。ところが1870年までの第二帝政のフランス軍は、あっちこっちから集めた兵士を連隊に編成し、各地を順繰りに駐屯させるという、日本では存在したことのない方式でした。日本では基本的に、本籍のある土地の連隊にまとまって編成され、その地に駐屯し続けます。「郷土部隊」と呼ばれる方式ですね。ところがフランスは、皇帝の軍隊が市民と近くなりすぎることを嫌って、郷土部隊にはしなかったそうです。
おまけにフランスでは連隊以上の組織はなく、鎮台というシステム自体がなかったそうで、じゃあどこが鎮台のモデルかと言えば、どうもオランダだったのではないか、と「大名死亡」さんは指摘しておられます。なるほど、幕府がオランダから軍人を招いて教練を行っていたこともあるし、明治初頭ならありそうですね。いきなり大国のフランスをモデルにするよりも、当時の日本には真似やすかったかも知れないし。
明治初期のことに小生は詳しくはないですが、今後の研究には注目していきたいと思います。