当てもなく教育について語ろうとする・ひとまず終了「主体的に行こう」
今までのグダグダ述べてきたことを再度振り返ると、Lenazo氏がコメントで寄せてくださった「「教育」という一種の暴力装置」という言葉がちょうど良い手がかりになろうと思いますが、「教育」にそのような危険な側面があることに無頓着であるが故の問題が多々あるのではないか、ということになろうかと思います。
生じた問題としては、『ニートって言うな!』に従えば、社会政策として解決すべきことが個人の自己責任にすり替えられ、「教育」で解決すべきものと規定されてしまうという問題があります。そして、自己責任にすり替えられ、「教育」が幅を利かせることにより、安易に人の人格に踏み込み他者を自己に都合の良いように変えてしまうことを頓着しないという問題が生じます。
このような問題を生んでしまう背景を考えれば、「熱血教師」に象徴されるように、教育の暴力装置という側面を考慮せず、「教育」という「善なること」をしているのだという確信が教育を施す立場の人々、そして教育の効果を信じる人々の間で共有されているため、他者を自己に都合よく操作することの問題を認識しないのではないか、そのように考えました。
そして、そのような「教育」による他者操作への無頓着さは、同時に「教育」が施した側の思い通りの効果を生むものと考えられてしまうという誤謬を招き、結果被教育者を置いてけぼりにした教育論議になってしまうのではないかと、歴史教科書を例に考えてみました。
・・・今までの文章から上記の内容は読み取りにくいとお考えの方もおられるでしょうが、一応話のつながりはこうなっているつもり、です。突き詰めれば、「教育」の暴力装置的側面を認識するということに尽きます。ここでフーコーなど引用すれば恰好いいのですが、碌に読んだことがないので、頭をよぎったある書物の一節を引用。
軍隊ほど教育を重んずるところはない。日本のように日常の治安維持のための軍隊使用をあまり考慮しないでよい場合は、戦争のないときは、軍隊の仕事は、もっぱら兵の訓練と部隊の演習のみであった。ひとたび戦争となると、命を的に戦うのであるから、教育訓練を怠ると命を失う。このようなことから、陸軍においては教育総監部を独立させ、多数の学校を設け、壮大な教育体系を備えていた。平時の軍隊はあたかも一大教育機関であった。この本は、手元においておくと戦前の話を書くときに恥をかかずに済むことが多い、とても便利で面白い一冊です。
伊藤隆監修・百瀬孝著
『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館
p.330 (強調は引用者による)
さて、今日の本題は(ああ、やっと本題だ!)は、一応この「教育」というお題に区切りをつけるにあたって、僭越ながら小生が教育のもうちょっとマシそうなやり方、あるいは教師像を一つ考えてみようというものです。まあ、実際バイトで塾講師やっているわけで、結構喫緊の問題でもあるのでして。
今までの話の流れからすれば、教育者が被教育者に対し人格面などへの、暴力装置的とも言うべき過剰な介入を避けること、になります。言い換えれば、教育される側の
ここで「主体的」という言葉を持ち出してきたのは、別に「地上の楽園」の思想に敬意を表したわけではなくて、その昔読んだ数学の参考書に書いてあった文言を思い出したから、です。それは確か渡辺次男という人が書いた数学Ⅰの参考書で、小生が高校時代に使ったものでした。
今現物が手許にないので記憶に頼って書かざるを得ないのですが、この参考書には随分と長めの前書きがついていて、その中でなかなか面白いことが書いてありました。
この参考書を書いた渡辺先生が予備校で生徒に問題をやらせます。できた生徒は答案を先生に見せ、先生はあっていればマルをし、間違っていればバツをつけてやり直させます。ここまでは普通。ところが、そのうち先生はわざとあっている答案にもバツをつけます。そうすると生徒は十中八九、それを改悪して(間違えた答えにして)持って来るそうです。そのうち生徒が慣れてくると、本当に間違ってバツをつけられても、自分は間違っていないと主張するようになるそうで、そうなるとその生徒の成績は向上する、勉強について主体性を身につけたのだ、という話でした。
この手法を単純に他の教育の場においても真似られるなんてことは全然ないですし、それはそもそも本稿の趣旨に反します。ここで示唆されることは、教育の目的は生徒が「主体的」に考えられるようになること、教師の言ってることをそのままありがたく押し頂くのではない、ということのように思われます。
もちろん実際のところ、主体性の確立などとのんきに言ってられない局面が間々あることは確かです。上記の渡辺次男先生もそれを認め、上述の前書きで主体性を節約した参考書も別に作った、短期間にとりあえず効果を挙げるためにそうしたと書いていました。でも主体性を巡る議論はやがて決着する、それは読者のあなたが大学に入って「あんな下らない勉強をさせやがって」と息巻く時につくのである、と書いていたように記憶しています。
まあこの渡辺先生という人もある意味「熱血教師」なのでしょうけど、ただ、一般的な「熱血教師」「カリスマ講師」(やな言葉ですね、カリスマって)との違いを挙げるとすれば、主体性ということを意識していることは評価していいのではないでしょうか。
ここで、今まで小生がグダグダ縷説した「熱血教師」であるとか、暴力装置的側面の問題点に行きつくことになろうかと思うのですが、これら被教育者の主体性を考慮しない教育者は、結局自分のコピーを生産しているだけなのだ、と考えられます。自分以外の人間の主体性を認識できていないから、自分が正しいと思う像(往々にして「熱血教師」は自己陶酔している)を他者に押し付け、なおかつそれを被教育者にとっても「良いこと」であると短絡的に考えてしまう、そのような現象が生じるのでしょう。
そしてこの「良いこと」が世間である程度支持を得たものであるとすると――ニート対策のように――それに従うのが当然であるという風潮を世間にはびこらせることになります。教育基本法を巡る問題もこの一つの表れなのでしょう。世間(の一部)が「良いこと」と認めれば、それを押し付けるのは「良いこと」なのだと。
ですから、小生が考える望ましい教師像とは、被教育者が主体性を持てるような教師、人格面まで踏み込むようなことをせず、互いに冷静に客観視できる部分を残した関係を築いた上での教育ということになります。しかしこれは、「私の言うことを信じるな」と教えるわけで、極めて困難です。 (なにより高・中等教育でしか通用しません。初等教育に適応するのは困難です。ただ、中等教育が初等教育によって刷り込まれた内容を相対化するきっかけを与え、以って主体性を形成することを助けられるかもしれません。)
コピーをつくりだすのは教育ではなく、刷り込みとでもいうべきもので、ことによったら洗脳であるとかMCであるとか、そういった厄介なことに近い場合すらあるのだと思います。しかし「熱血教師」的なものは、自己の正当性を確信しているためにコピーの生産を疑わず、コピー生産が失敗した場合(それは主体性の確立に成功したことかもしれないのに)、教育のやり方が悪かったのだとより暴力装置的傾向を強めることになるでしょう。
極論すれば、教師は生徒によって乗り越えられたことによって成功することになるわけで、ある意味なんと教師とは報われない職業であることかと歎ぜざるを得なくなりますが(そして少なからぬ人々――教師に限らず――がそのことを意識していないように思われることもまた歎ぜざるを得ないのですが)、しかしそれでも、自分のコピーをつくりだして自己の正しさを確認するというトートロジーに陥るということは厳に戒めねばなりません。結局、教育は被教育者が自らの受けた教育を相対化して認識できて初めて成功したと評価できるのだろう、そう考えます。
なんだか書いているうちに自己否定のようになってきたので、そろそろ潮時でしょう。
何かとっかかりとなる機会があれば、また書いてみたいと思います。主体性と関係の深そうな「個性」の問題とか。個人的意見では、「個性」とは無前提に素晴らしいものでもなんでもなく、背負わねばならず逃れられない重荷というか原罪というか、そのようなものに感じています。だからこそ、個性はそれを認めて合理的にマネジメントする以外の方法で対処すると、しばしば労力と成果が不釣合いになるのではないかと思っています。
まあ、人と違うことがよくあったという個人的経験のせいなのでしょうが。
ちなみに。
本連続企画の正式名称(?)は、
「墨東公安委員会家庭教師馘首記念企画~さよなら時給X000円」
です。とほほ。子どもとはまあまあそれなりにやってたんですけどね・・・。中学受験は親がするものだと業界最大手の某塾は言うそうですが、子どもの主体性だってちっとはあったっていいんじゃないか、そう思わずにはいられなかったんですね・・・そう思わないと、中学受験経験者は色々とぐるぐるしてしまうのです。しない人もいるでしょうけど。
現在若年層で『愛国教育』を喧伝する層は、自分達が受けた『自虐教育』とやらを批判して居る訳ですが、自分達が『教育』によって虐げられたのに何故また別の『教育』を持ち出して他人に押し付けようとするのか、理解しがたいところです。
虐げられる生徒が出ないよう自由を尊重する、というのが向かうべき方向だと思うのですが。『教育』とは暴力的だと思い込んでいるのか、『自分がされたことは相手にもやって良い』と思ってしまっているのか。「大人/教育者」は無条件に「子供/被教育者」より『偉い』、という思い上がりもある気もします。
それに教育を過信している面もあるかなあと。大体自分達が『自虐教育』を受けたにもかかわらず『自虐史観』に陥っていないのであれば、『愛国教育』を受ける層だって『愛国者』(!)になるとは限らないはずなんですがね。まあ彼らにとっては『愛国者』になることが『正しい』ので、叛乱分子は徹底的に制圧するつもりなのでしょうが。
普通に日本人として国を愛して生きるのに殊更『教育』が必要ですかねえ?
できれば「教育」というカテゴリを作って頂けると閲覧の助けになるかと存じます。
私は学校で歴史教育を受けた記憶がありません。世の学校では歴史教育が行われているようですね、大変結構なことです。私も歴史学に触れる機会のある立派な学校に行きたかったです。
短い塾講師の経験から見ると、最近の教育は、なるべく生徒が考えなくてもすむように、という方向に進んでいるように見えます。
生徒が考えてくれた方が講師は楽なんですがね。わざわざ苦労をして、しかも成果に乏しい方向を採っているような気がします。
小学校の時の担任は、「私学の先生はいいなあ。生徒は自分で勉強するし、やる気もあるし」とぼやいていました。
教える内容自体は高度でしょうけど、当たっている指摘かもしれません。
>>中学受験
受験生本人の意志がない限り、受かっても入学しても悲惨な未来が待っているだけです
つけていただいたコメントからさらに考えるべきことが広がりそうで、「ひとまず終了」と言っておきながら、やはりコメントへの返信も別記事を立てる必要があるかとも考えております。
連休中にはコメントなり記事なりする所存ですので、しばしお待ちください。更なるご意見もお待ち申し上げております。
これ、確かに便利な本ですね。ちょっとしたことを調べるときに結構重宝しました。今は本棚の肥やしになってますが…。
>教育は被教育者が自らの受けた教育を相対化して認識できて初めて成功したと評価できるのだろう
ここ、激しく同意です。しかしながら昨今の状況を考えるとこれを貫くのが難しくなってきていることも事実な気がするんですよ。僕の生業である大学受験も「大人の世界への入り口」から「子供を『大きな子供』に仕上げることでモラトリアムを延長するだけのシステム」になり下がりつつあるような気がするんですよ。
中学受験だけでなく、大学受験すらも「親がするもの」になりつつあるような気がします。