「人間力」という魔物~神保町「ふじ好」天ぷら革命いまだ成らず(終篇)

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本記事は
・天ぷら革命いまだ成らず~神保町「天ぷら革命 ふじ好」の終焉(前篇)
・天ぷら革命いまだ成らず~神保町「天ぷら革命 ふじ好」の終焉(後篇)
の続篇です。
正直、時機を逸してしまっている感もありますし、年明け以来いろいろとドタバタして新生活の姿勢も整わず、続きはお蔵入りかと自分でも思っていたのですが、しばらく前に日本マクドナルド社長の原田泳三氏が業績低迷により会長に退くというニュースに接しまして、やはり完結させておこうと思い直した次第です。マクドナルドは消費税増税に際して敢えて値下げしたそうですが、ダンピング路線の問題は以前の繰り返しのようで、いまだ迷走は続いているようです。そういえばしばらく前にやっていた「アメリカンダイナー」だったかいう企画も、1950年代のアメリカ文化に憧れなどの感情を持つ層は団塊の世代あたりじゃないかと、その意図を怪訝に思ったものです。
それはともかく、書き始めた頃はこんな長い記事になるとは、そして完結が何ヶ月も先になってしまうとは、まったく思いもよりませんでした・・・。小生自身の「人間力」の低さを痛感せざるを得ませんが、ところで「人間力」って何なんでしょうか、というのが今回のまとめです。
前回の記事では、2ちゃんねるに登場した「天ぷら革命 ふじ好」藤本孝博氏らしき?(巧妙な成りすまし?)書き込みが「人間力」という言葉を使ったのが、ねらー諸氏の琴線に触れてしまったこと、そしてこの言葉が、「天ぷら革命 ふじ好」をめぐる状況を理解する上で手がかりになるのではないか、と指摘したところで字数切れとなりました。
「人間力」とはきわめて曖昧模糊とした言葉で、厳密に定義しようとすればするほど実体の空虚さが露わになって頭にくる言葉と小生は思いますが、藤本氏の「人間力」を氏の実績に即して考えれば、マクドナルド社のような大きな組織でしばしば起こりがちな、内部関係者間の意思の懸隔を防ぎ、執行部と現場の店舗であるとか、店舗内のアルバイトと社員であるとか、それらの関係をとりまとめて円滑化することで組織の健全な運営に貢献する、そういうことであろうと思われます。
ここまで具体的に定義してみれば、マクドナルド時代の部下で藤本氏を慕う人が少なくないこと、組織運営に苦慮する経営者にその力量を認められたこと、その一方で「ふじ好」が2ちゃんねるB級グルメ板神保町スレで総スカンを食ったことは、整合的に理解できます。既に同じ方向を向いている(ことになっている)組織内の人々に働きかけることはできても、違う方向を向いている人には取り込むよりもドン引きされてしまった、そういうことでしょう。
では藤本氏はどうするべきだったのか? それは、氏と比べれば「成功」していると見られる、同じくマクドナルド出身者で現在「炎の講演家」と称してコンサル的活動をしている鴨頭嘉人氏(魚拓)がやっていること、これが「人間力」を売りつける商売です。すなわち自己啓発セミナー的なことをやれば良かったのではないか、というわけで。
実際、藤本氏は「Lifetime」というイベントをやっていたようですが、さすがに店の方を業務の中心においてはいたようです。ただ、閉店9ヶ月前の前掲『東洋経済』記事の末尾で「天ぷらだけでなく、さまざまな方向性を模索しています。最近はラーメンチェーンに、組織作りや人材育成をコンサルティングしたりしている。今後はTFJを片輪にして、ソフトバンクアカデミアから何か面白いことを発信できればと思っています」と語っているところからすると、遅ればせながらその方向に転進しつつある(せざるを得なかった)のでしょうか。
で、「人間力」というこのケシカラン言葉が、然るべき立場であれば大いに力量を発揮できたであろう藤本氏を、2ちゃんねらーのネタにしてしまったキーワードでもあろうと思うのです。巨大組織の内部統制という場面に有効な「人間力」を、まるでオールマイティーにいつでもどこでも通用するパワーであるかのように誤解させてしまったのではないか、そんなふうに小生は思い巡らします。
その点、鴨頭氏の方がそのへんを分かっていたのではないか、だから鴨頭氏は具体的な事業に手を出さず、「炎の講演家」なる肩書きで「ハッピーマイレージ」なる企業活動(魚拓・どういう仕組みか良く分かりませんが。NPOじゃなくて企業みたいですが、どうやって儲けるのか?)をしているのでは、などと思うのです。

率直に言えば、「マクドナルドで大事なことを学んだ」と称する鴨頭氏の経験もまた、その環境によって意味をなしている面もあったはずです。その辺を巧みに捨象して、マクドナルドという誰もが知っている看板を利用して自分が普遍的な価値を持っているかのように売り込む、これは巧妙なすり替えです。実際、アマゾンのブックレビューでそれを鋭く指摘しているものがあります(魚拓)。
鴨頭氏のメルマガを引用し「ハッピーマイレージ」事業を讃えているブログの記事(魚拓)を見つけましたが、ここに掲げられている「ハッピーマイレージカード」の紙吹雪の中で笑顔を浮かべている鴨頭氏の写真(左に引用)は、有り体に言って「私はこれで金持ちになりました!」と札束風呂に浸っている怪しげな開運グッズの宣伝と同様の臭味を感じずにはおられません。
なお鴨頭氏は、練馬区の倫理法人会の会長もしている(魚拓)ようで、自己啓発系の古株にも浸透を図っているようですな。
結局、曖昧模糊なる「人間力」による自己啓発的な言説それ自体から利益を上げることは、最近話題になっている情報商材による商法と同じようなもので、内実がないからこそもっともらしく見えるのではないか、裸の王様の衣装のごときものではないか、小生はそう思います。ブランドを売り込んで付加価値をつけること、というのは商売をうまくやる上でもっともなことですが、それを究極まで推し進めたら、付加価値をごてごてつけるためには付加でない「本体」は空虚なほどよかった、ということなのかもしれません。
情報商材商法については、こちらのニュースで簡単な解説があり、さらにそれを敷衍したブログなども参考になりますが、これを読むと根本的なシステムはこれまた当ブログでも何度か取り上げた、アムウェイに代表されるマルチ(まがい)商法と同じといえそうです。で、実体のない「情報」を売る方が、マルチ商法の本質としてはより「スマート」なのかもしれません。部屋中に積み上げられた洗剤と鍋の不良在庫、という物理的存在は、アムウェイのやり方に問題があるんじゃないかと気づかせる契機になる可能性がありますが、形がない分そのリスクは軽減されるわけで。
なお、「人間力」と空虚なる付加価値については、しばらく前にネット上で見つけた以下のブログがまことに印象的でしたので、リンクを張っておきます。
・意識が高い人が集うパーティーに参加した。/ 参加した事業説明会の人間力がヤバすぎた。
話が例によって千々に乱れておりますが、結局のところ、「人間力」なるものを信じた結果の悲喜劇が今回の一件なのではないか、大組織を引き締めるという、実は開店起業より難しいかもしれないタスクで業績を上げていた人でも、この「人間力」という分かったような分からんような言葉に振り回されて、何か勘違いして少なくない額であろう退職金を溶かしてしまったのではないか、そんな風に思います。
そしてこれが、藤本氏の特異なキャラクターの問題であれば笑って済ませば良いのですが、この「人間力」的な価値観が現在の日本社会に瀰漫していることを考えれば、この事例としては特異である一件から、なにがしかより広い意義を見出すこともできるのではないかと、小生は思います。
この「人間力」のやっかいでけしからんところは、何かすべてを包含する上位の概念のように装いながら、その実何を指しているのか、如何にして評価するのかがまったく不明確なことです。だから「人間力がない」という批判に対して、反論するなり改善するなりということがはなはだやりにくく、「人間力」の錦の御旗をかざした方が一方的に優位な立場に立ち、他者を抑圧する危険性があります。
「人間力」が経営の場に入り込んだ顛末が「ふじ好」の一件といえますが、それが及ぼす問題は経営にとどまりません。たとえば、教育の分野なんかもこやつが跋扈しているところで、少々旧聞ですが、中京の全寮制中高一貫校・海陽学園についての記事を読んだ時にも、標榜される「人間力」に違和感を覚えました。「折り合いをつける力」などといってますが、極度に限られた世界に閉じ込めることでそれが達成されるのでしょうか。そもそもこの記事が同学園を取り上げたのだって、東大入学者13人という客観的な受験成績の指標あってのことではないでしょうか!?
本件については長谷川晴生氏の辛辣なツイートを引用して、これ以上の贅言を避けます。
財界人がエリート養成しようとすると収容所にしかならないのはもはやギャグの域に達している、などと言ったら設営者に義務が課される収容所に失礼か。うちの元校長がご迷惑をおかけしました、と世間に謝るほかない。 / “海陽学園、「日本一学費…” http://t.co/jAzKkxnnkd
— hhasegawa (@hhasegawa) November 19, 2013
東海地方財界がつくったどこぞの学園の話が割にリツイートされているが、真に #人間力 を高める教育なら、高校生に部活で馬上槍試合をさせたり、現行革担当相も提唱していた徴農制度により東京の小学生を小中併せて生徒数五人の山村の分校に下放したりするような政策が望まれることは論を俟たない。
— hhasegawa (@hhasegawa) November 20, 2013
・現代は「人間力」を問われる世の中なのか?
こうして「人間力」を巡る言説を集めて、なるべく最大公約数的なところをまとめてみると、結局は「対人コミュニケーション能力」ということになりそうです。なるほど、藤本氏もプレゼンテーション能力では300倍の倍率を勝ち抜いてソフトバンクアカデミアに選ばれたのですから、コミュニケーション能力のある分野ではきわめて優れていたことは間違いないですね。
しかしこの「コミュニケーション能力」がけっこう水物で、相手によって有効性が大きく変わってしまうものであり、普遍的・客観的な指標としては実は扱いにくく、ここに藤本氏と「ふじ好」のドタバタの一因があった、といえるでしょう。マクドナルド社内やプレゼンの場で有効だったコミュニケーションは、神保町を愛する人々に通じなかったのです。
そしてもう一つ、コミュニケーションとは何らかの情報などをやり取りする行為です(関係の維持を目的とした「毛づくろいコミュニケーション」というのもあって、コミュニケーションの少なからぬ部分を占めてはいますが)から、やり取りする財や知識そのものが乏しければ、結局コミュニケーション自体の価値も低くなります。そこらへんを抉って見せたのが、前掲Everything you've ever Dreamedの記事といえます。「ふじ好」でいえば、天ぷら屋は天ぷらを売るべきなのに、「人間力」を売りものと勘違いしていたところですかね。
で、「人間力」の蔓延るこのご時世、一見分かりやすいプレゼンに乗せられてしまい、肝心のコミュニケートされている内容の評価を誤るという悲喜劇は、そこら中に落とし穴を明けているように、小生には思われます。最近世間を騒がせているSTAP細胞云々の件も、あるいは「全聾」と称した作曲家の件も、見た目に分かりやすいプレゼンに載せられた極端な事例といえるのではないでしょうか。
分かりやすいプレゼンを「人間力」の高さの表れとして評価してしまうのは、同時に評価する側の手抜きでもありましょう。人間の総合的な評価というのは大変難しいことのはずなのに、それを安易に「人間力」というワードで分かったつもりになってしまっているのです。
こういった「人間力」がなぜ受けるのでしょう。それはおそらく、訳が分からないのに(分からないから)万能のように思われ、基準が曖昧なので、勉強やスポーツが出来ないとか、資格を持っていないとか、実績がないとか、そんな人でも「自分は人間力がある」と思い込めるから、なのでしょう。もう一つ、評価する側でも、恣意的な判断を「人間力」で正当化することが出来るので、安易に使ってしまっているのでしょう。かくして、実質よりもその場で「ウケ」るものばかり、安直な「感動」ばかりが流行るご時世なのではないかと思います。
安直な「感動」を煽るような言葉が猖獗を極めている状況については、しばらく前にNHKの「クローズアップ現代」が「あふれる“ポエム”?!~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~」と題して取り上げ、それなりに話題になりました。この番組では、当記事の前篇でも名前を出した「居酒屋甲子園」が槍玉に揚がっていたそうです。こういったものに対しそれなりに批判的な、あるいは分析的な見方が広まりつつあるのは、当然の反動とはいえますが、まずは望ましいことと思います。
安直な「感動」が押し付けがましく振り回されることには、小生は子供の頃から反発を覚えていました。思い返せば、小学校で道徳の副読本を読まされた時、既に北杜夫などに親しんでいた小生は、「こんなミエミエの感動を押し付けるような話を読ませるとは人をバカにしているのか」とフンガイしたものですが、このような人間は概して「ノリが悪い」「ひねくれている」と世間では評判が悪くなりそうです。幸い――なのかどうなのか、小生は「世間」とズレた価値観を持つ人が集まっているところへと歩むことができて、大学院に入ってしまったりして今日に至るわけですが。
この手の安直な「感動」を、「人間力」の名の元に押し付ける――鴨頭氏がやっている活動はまさにそれです――風潮の重大な問題点は、ほんらい多様な考え方が世界には存在し、それを議論と交渉と妥協とですり合わせて共存することで社会は成立するはずなのに、「自分が『感動』する正しいことは他の人も当然『感動』するはずだとしてしまいがちなことです。「感動」がありきたりな安直なものであればあるほど、他の人も受け入れてくれないと、その空虚さが浮き上がってしまうために、押し付けがましさや異論への不寛容がかえって強くなってしまうのではないか、そんな風に小生は懸念します。
話が飛躍していることを百も承知で述べれば、昨今の歴史認識問題などで「『自分の国』の歴史は『素晴らしい』ものであるはずで、そうでなければならない」と、押し付けがましく、他者の感情に配慮しない言説のみならず、政策までもが横行しているのも、これと同根の問題ではないのか――そのように小生は思います(歴史と「愛国」については当ブログで以前論じたので、そちらをご参照ください)。
なるほどこういった問題で、相手方にも問題がある事例も良くあることですが、それを修正して貰うにしても、「こっちが正しいんだからいう事を聞け」ではうまくいかないでしょう。相手の立場も配慮しつつ、よりよい方向へ粘り強く努力を続けるしかありません。その際には、より「正しい」説得力を持つ内容を練らなければなりませんし、時にどうしようもない場合は、事を荒立てないようにして頭が冷めるまで「先送り」という対処がもっともマシ、なんてこともあるでしょう。
でも、分かりやすいプレゼンや安直な感情に揺さぶられてばかりですと、こういった長い目の(時に後の世代に託さねばならないような)方針を見いだせず、かえって事態をこじらせてしまいことにもなるでしょう。
例によって話がどんどん拡散していますが、なにせブログ更新の頻度が落ちている分、言いたいことが溜まっています。かくてブログの文字数制限にまたも引っかかってしまいました。
ここから、「人間力」的風潮の問題がどういう影響を及ぼしているのか、それに立ち向かうにはどうすればいいのか、最近の事件を題材に論じ、そしてちゃんと神保町と天ぷらの話に最後は回帰するはずですので、どうかあと1回だけお付き合いください。

軍隊といえば「呑む・打つ・買う」とは切っても切れない縁がある、というのは、普遍的な世の通例のはずですよね。
歴史上のある段階において、軍の教育が社会の他よりも進んでいる、ということがあるかも知れませんが、現今の日本のような成熟した社会では、とうてい考えられないことです。