続々・情理の比率
これまでの記事で、趣味(に限らないことでもあるだろうと思います)には「情」「理」の二面があるのではないかと考え、前者は個人的感情に依拠し、後者は普遍的知に基づくのではないかとしました。そして「情」の面は「なんとなく」他人に伝わりやすく、「理」の面の説明はかえって受け手に要求する前提があるため広くは伝わりにくい、したがって業界を広げるには「情」が必要であり、深化させるには「理」が必要で、どちらも必要であるということでした。
この解釈は「情」=初心者、「理」=上級者のような階層構造に陥りやすく、その問題を克服するために、ここでは一個人の中での「情」「理」両面の存在を考えてみたいと思います。
「情」の面のよいところはとりあえず何となく伝わるということです。「理」のような厳密さを求めることが少ないので(「情」は厳密に定義するという作業をすることが非常に難しいというべきなのかもしれませんが)、かえって曖昧に通じてしまうのです。そのため「情」の道は仲間を得ることが比較的たやすく、それが新規参入者の勧誘に有効な理由でもあります。
ただ、そればかりでは弊害が出るのではないかということも考えられるのです。
「情」によるコミュニケーションを介して趣味の世界に接してばかりいると、しばしば趣味を媒介として仲間と馴れ合ってしまうことの方が、趣味対象そのものよりも重要なことになってしまうことがあります。それを一概に否定するのも愚かであろうとは思いますが、そうしていると結局は趣味対象そのものへの関心が薄れてしまい、その道そのものからは遠ざかってしまうこともあるでしょう。或いは内輪に籠ったコミュニティーになってしまい、これまた趣味対象へのアプローチが狭隘になってしまうこともありえます。
個人的な思いを理由にした「情」的アプローチは、実は感情を満たせるトリガーとなりうるものなら何でもいいとも言えます。その趣味である必然性はないのです。
必然性を説明しうるようにするには、やはり「理」によるアプローチで普遍性を獲得し、アカウンタビリティを果たせるようにする必要があるように思います。趣味にそんな堅苦しいこと、と思うかもしれませんが、ある趣味から得られる喜びをより大きいものへとするためには、考えてみて損になることではありません。いや、考えようとしなくても、ある趣味に充分深くコミットした状態になっているということは、無意識のうちにもそういった課題への答えを見出しているという何よりの証拠といえるでしょう。
といって、「理」によるアプローチが全面的な解決をもたらすわけでもないでしょう。こちらはこちらで、自己の正当性を主張することが目的化したり、自己の正当性を確信しているが故に絶対に受容されるはずだと信じて如何に伝えるかという配慮を欠いてしまったり、これはこれで他者との関係に問題を生じせしめ、往々にして関係を断絶させます(まあ、趣味をとことんやって孤独でも別に構わないと思わなくもないのですが・・・)。
結局は、一個人の内部においても、趣味業界全体同様、「情」「理」の適切な配分が必要だということですが、どのように配分するのかはケースバイケースとしか言いようがありません。これは個人の状況や趣味対象の性格などによって変ってくるものですから。
これだけグダグダ書いてきて何が言いたいかといえば、実は内田百閒の作品では『阿房列車』より『御馳走帖』が好きだ、ということだったりします。
小生にとっては、その壮大なシステムの見事さゆえに愛すべき対象である鉄道と、五感を総動員した楽しみである食とに接する場合では、「情」「理」の比率がある程度異なっており、百鬼園先生のスタンスとの距離を測った時に生じたずれが、このような感想を抱くに至ったものと考えます。
例えば同じ食を題材にしていても、自ら食事を作り、星岡茶寮を経営し、食器のために陶芸まで始めた魯山人の『魯山人味道』とでは、『御馳走帖』の味わいは大分異なるわけでして。
どうも最後がまとまらないのがこのブログの癖みたいになってますね。また何か思いついたら書くことにしましょう。
趣味とは違う話ですが、
「情」と「理」の比率がすごく大切な分野として
まっさきに私が思いつくのは、犯罪と刑罰についてです。
被害者の遺族感情を根拠に重罰化という流れがありますが、
情では理解できるのですが、
論理的には苦しいです・・・
被害者遺族側からだけ考えたら、
故意の殺人も過失致死も同じ悲しみかもしれませんしね。
小生は法に関する知識は全く疎いのですが、本来「情」の暴走による社会秩序の混乱を抑制する手段として法は作られたものであると考えられますので、「情」「理」どちらに軸足を置くのがこの場合適切かを考えると、小生は後者に傾いて考えてしまいます。
そして、悲しみが深ければ深いほど、個人にとって痛切な経験であればあるほど、法や国家がその中に入り込んでゆくことは難しいのではないか、そのようにも思うのです。勿論メディアも。
キリスト教思想の入ったものを輸入しているのに、
そのわりに日本でキリスト教がマイナーであるため、
市民感情との乖離がはなはだしいと思われます。
キリスト教だと、悔い改めれば、罪を犯した人でも、生まれ変わって新しくされるという発想があります。
これは加害者の更正に重きをおく考え方につながりますね。
個人の自由意志というものを重視しているのです。
他方、日本の明治以前の刑法は、
やってしまった結果に対しては責任をとれよ、
というものだったので。
連座のように団体責任も普通でしたし。
だから、日本人の法感情が、現行刑法に反映されていない
ということは、当然の帰結なのかもしれません。
ただ、全くの愚見ではありますが、キリスト教という文化的要因に帰してしまうのは些か引っかかるところを感じます。近代的な法制度というものの発祥にキリスト教が深く関与しているにせよ(プロテスタントとカトリックで何か相違があるかもしれませんが)、同時に相当程度普遍的な性格も有しているのではないかとも思います。
そして、日本が西欧から近代的法制度を受け入れてから既に一世紀以上の時を閲している以上、なるほど「民法出デテ忠孝滅ブ」などといわれて日本に移入された法制度がキリスト教的背景と切り離されて「日本的」に加工されたとしても、やはり近代的法制度の下で一世紀以上も経っていれば、日本の「市民感情」が明治以前の日本人の「感情」ともまた異なったものになっているのではないかと思うのです。
何より、現在の日本国民の大部分は、現行刑法の元でその生涯をすごしてきているわけなので。
素人の暴言、何卒ご寛恕ください。