改めて山名沢湖『レモネードBOOKS』を読み直す
まあ、『エマ』7巻が出たので、来月は確実に「墨耽キ譚」の更新が出来ますが、今月の更新はどうしよう。「よりぬき『筆不精者の雑彙』」は新しいコンテンツを作ったわけじゃないしなあ。
というわけで、何とか今月中に、一年以上放置している書評企画を何とかしたいと思っているのですが・・・メイドさんを理解するには近代家族の理解がよい手がかりとなり、近代家族についてヴィクトリア朝から現代日本まで繋げて見る時に郊外住宅地という視点で見るといいだろうと思って数冊の本を読んできていたのですが、ふと気が付いたらこれは鉄道趣味者向けコンテンツであってメイドスキーの関心のありそうなことなんぞ出てこない、という始末。はてさてどうしたもんか。
まあとにかく、メイドとオタクと近代家族、というテーマでボチボチこのブログに草稿を挙げ、それをまとめて本家のコンテンツにする、という風に出来れば便利かなと思います。今後は出来るならばそういった方針でこのブログを運営していければと思います。
で、オタクと近代家族について論じるならば本田透氏の所論には触れずばならぬでしょうし、その場合『萌える男』を入手する必要が生じ、これにもう暫く時間がかかりそうで、そこで当面の代替措置としてネット上をうろうろして幾つかのサイトの書評など見ているうちに、全然違うことを急に思いついたのでこれを今日の話題として書いておくことにします。・・・初手から掲げた運営方針と違ってるようですが気にしない。
暫く前に山名沢湖『レモネードBOOKS』を買って読み、なかなか楽しかったのですが、ブログの記事ではやや本書から離れたところまで飛躍したような印象を書いておりました。
さて、上記のような事情で幾つかのオタクと恋愛関連の――つまり本田透氏の書物を評した幾つかのサイトなど読んでいるうち、『電波男』を読んだ時に感じた諸々の違和感というか不満点というか、そういったものが甦ってきて、それをぼんやり反芻しているうちに突然『レモネードBOOKS』のことが意識に上ったのです。
『電波男』の基調をなす要素として、「オタクである自分を認めてくれず毛嫌いする」世間へのルサンチマンが大きいものであるように思われ、自分のことを分かって欲しい、受け入れて欲しいでもそんな女性はこの恋愛資本主義のご時世に存在しない、だから二次元キャラに萌えよう、という展開になっていたように思います。
それに突っ込むことはいろいろあるのですが、ひとまず『レモネードBOOKS』の描いた世界にひきつけて考えれば、「分かってもらう」という必要は別にない――もうちょっと穏当な表現を使えば、「分かってもらう」「受け入れてもらう」のハードルを著しく引き下げることが可能であり、しかもそれは実現可能性にしてもかなり高い目の方法であろうと考えるのです。
というのも、どうも本田氏の書物では、受け入れる=同じ趣味嗜好になる、という趣旨のようで、批判するか改宗するかの二択にしてしまっているように思われてしまうのです(二分法という点は、氏の書物全般に見られる傾向ですね)。そこまでハードル上げるから自爆するんじゃないかと思うのです――実例を身近に知らぬでもありませんから。
『レモネードBOOKS』の世界に戻りましょう。
自分は特別本が好きというほどではないけれど、本の大好きな岩田君(作中でしょっちゅう「オタク」と形容されています)が気になって、結局付き合うことになった森沢さん。彼女は本の好きな岩田君に戸惑い呆れつつ、時には自分に趣味がないということに悩んでみたり、そうしつつ関係はほんわかと続いていきます。
一方本が大好きな朝霞さんは、本屋のバイトで出会った男と「趣味が同じでうちとけて 趣味が合わずに険悪になった」のでした。これって結構重要なことで、趣味とか嗜好が同じというのは無二の親友になる可能性もありますが、不倶戴天の仇敵になる可能性もあるのです。全然趣味嗜好と関係のない連中とはまた別個の憎しみが湧いてくるもので。ほれ、中核派の人が革命を起こす前に革マル派を襲っちゃったりするみたいな(ひどい例だ)。
とまれ、趣味(仕事とかでももちろんいいけど)が自分にとって大切でかけがえのないものであればあるほど、同じ趣味の人との差異が明確になってしまうこともありえます(しかし、それが必ずしも「険悪にな」るとも限りません)。
要するに、すべてを理解しあわなければ恋愛のような深い人間関係(友人関係でもいいでしょう)にならないと強迫観念を抱くことはないだろうと思うのです。別に世界が、不倶戴天の異教徒と信仰を同じうする同志とに截然と分かれるわけではないと考えれば、互いに差異が存在することを承知した上で、互いに未知の部分があるということを承知した上で共存することは出来るであろうと思われるのです。
ただ、この関係を維持するには、以前の話題にひきつければ「情」のみならず「理」の果たす役割が相当程度重要であろうと思われますが。未知なる部分が何かの拍子に表面化したときに適切な対応を取るには、今まで築いてきた関係の価値をも勘案した上で判断を下す必要があり、それに「理」の役割が重要であろうからです。
最後は、以前にご登場願った桜井教授にまた登場していただくことにしましょう。
「人は決して分かりあうことは出来ない、ただ許すことが出来るのみである」
分からなくてもそんなに気にすることないんですね、許すことが出来れば。

分かり合うより 信じあえる方がいい
志なら競ってゆけるこのまま
許しあえない戸惑い迷いこえて
結ばれてる隠し持った絆で
分かり合うより 信じあえる方がいい
その心栄え 激しいままでいてくれ
Destination destination still so far…
おお、見事に綺麗なオチが(笑
ただ、信じ「あえる」というというところでまたひと悩みあるようにも思ってしまいますが。
にしても、
http://www.youtube.com/watch?v=3OdK2IxVg7c
便利な世の中になりました。