年頭のご挨拶 及び教養について思っていること

遅ればせながら、年も変わり干支も変わりましたが(既に1月も半ばですが・・・)、このブログを読んで下さる皆様はお変わりないでしょうか。昨年の大部分は、当ブログは休業状態でしたが、今年はそうならぬようにしたいと思います。とはいえ、博士論文の執筆がいよいよ大詰めに差し掛かっておりますので、まだしばらくは更新も思うに任せぬであろうと思われます。しかし論文完成後は、何年も延び延びの「旧MaIDERiA出版局アーカイブ」も復活させたいと考えておりますので、どうか本年もよろしくお願い申し上げます。
というご挨拶だけでは詰まりませんので、昨年の積み残しの課題、当ブログの記事「昼間たかし『コミックばかり読まないで』略感、及びイベント告知」の補足として書くと予告しておいた、教養について思うことを少し書いておこうと思います。
教養とは何か、それはもちろんそれ自体が大きな哲学的テーマです。小生は図らずも「教養」として日本近代史を教えるという仕事をしておりますので、その仕事の過程で考えたことを備忘として以下に記します。
小生が「教養」講座を担当する大学は、それまで「実学」志向で名を売っていたところでした。しかし何でそんな学校が、「教養」を必修でやらせるようにしたのか?と小生は、採用面接のとき学園で一番偉い方に質問をぶつけてみました。そのお答えは「最近は企業の方が、実学ばっかりじゃなくて教養もある人間じゃないとダメだ、とか言うんだよ」とのことでした。となると、いまさら実学志向とやらで国立大学の人文系学部を廃止だか縮小だかしようとしている文部科学省は、世のニーズから周回遅れということかもしれませんな。
それはともかく、そんな次第で小生は、「役に立つ」実学に対して「教養」の意義をどう打ち出すべきか?という課題を考えることになりました。ここで「教養というのも『役に立つ』んですよ!」と主張するのは、悪手です。これは教養が教養たる意義を捨て、実学の真似をしているだけですから(いや実際、けっこう教養も「役に立つ」ものではあるのですが)。
そこで小生は。以前から愛読していた竹内洋の本など読み返し、しばし考えました。竹内の『教養主義の没落』には教養の意味を考える手がかりとして、井上俊の説が引用されています(孫引きですみません)。それによると、文化には三つの役割=「適応」「超越」「自省」があるというのです。それは
「適応」:人間の環境への適合を助け、生活を充足させる
「超越」:日々の実用を超えた、理想をめざそうとする思い
「自省」:自分のやっていることは正しいのか、と自分を問い直し見つめなおす心
とまとめられるようです。この三つが互いに拮抗し補完しあうダイナミズムによって文化は発展するのに、現代社会は「適応」が肥大化していると井上は指摘しているそうです。
で、これを手がかりに、小生はこんな事を考えました。
●実学とは、現世の生活に直接役に立つ。とはすなわち、自分が学んだ分「強さ」を手に入れることである。
●これに対し教養とは、古典であるとか世界の成り立ちであるとか、偉大で巨大なものに触れることで、自分の「弱さ」を感じることである。
自分が世界の中で小さな存在に過ぎない、というその立場を十分認識することで、そこで初めて自分が世界に何かをなしえる可能性を認識できるのではないか、そんなことを考えています。
自分自身を超越した存在を知ることは、恐ろしいことでもありますが、同時にちっぽけな一個の生を越えた世界のあり方を知ることは、いかに(有利に)生きるべきかという「実学」の方法論では解決できない問題、つまりいつかは人間が直面する死という結末をどう飾るのか、ということへ取り組めるようになります。
以前当ブログでは、神保町の潰れた天ぷら屋を題材に、「人間力」というあやふやな言葉について批判を繰り広げ、「人間力」を標榜する人びとは矢鱈とポジティヴがって死生観がない、と批判しました。
で、これは前回の記事で書いたことにもつながるのですが、ここでいう「偉大で巨大なもの」とは何で偉大で巨大であるかといえば、それが体系をなしてこの世界の様相を説明しているからです。単にそれ自身がでかいだけではなく、そこからつながって世界を説明していくのです。前回の記事のコメント欄に書いた内容を再録しておきます。
小生が考えているのは、この「体系」というところが学問であり教養である上で重要なポイントではないか、ということです。そこでこの感想文でも、断片と体系を対比させて論じているわけです。これが大事なところと小生は思うのでして、単に「偉大で巨大なもの」に打ちのめされただけでは、そのまま打ちひしがれて終わってしまいかねません。下手をすれば長いものに巻かれる権威主義、事大主義になってしまうかもしれません。そうではないはずです。偉大で巨大な存在を前に謙虚になりつつも、世界を説明していく体系の一端に触れることで、目の前のことに左右されずに俯瞰的に世界を把握することが多少なりとも可能になり、そこから自分の進みたい方向も示唆されるでしょう。すると、「弱さ」と同時に自信も得られるはず、そんなふうに小生は思っています。「超越」と「自省」をともに実現できるのです。
末尾の「のうりん」騒動で昼間氏の評言に同意を示しているように、小生は必ずしもいわゆる「左」から「右」を批判する向きでこの文章を書いたつもりはありません(小生自身がどっち寄りかといえば左寄りでしょうが)。それこそ昼間氏の作品を評する上でもっとも忌まねばならぬことです。
この感想でも「艦これ」を通じて「オタク」的なあり方に批判を加えているのは、断片を恣意的に切り張りして偽史を捏造し、それがまるで「教養」であるかのように振舞っている、その点に関してです。断片を断片として愛でている方々については、小生は批判を加える意図は全くありません。
ここで昼間著は、昼間氏が足で稼いださまざまな「断片」を並べ立てているのですが、これはオタク的偽史にも、あるいは「子供の人権」を唱える「左」的にも、そして「右」であっても、そういったありきたりの体系を装った恣意的な断片の配列がしにくい、そんなえり抜きの断片ばかりなのです。昼間氏はここで読者に、ありきたりの体系に断片を配列して安心してしまう、そんな安易な心境に否を突きつけます。そして読者は改めて、偽史でない体系を本書を通じて現代文化の中に見出すことを迫られます。これぞ、ビルドゥングスロマンと小生が本書を評した所以です。
体系を知ることは、断片を都合よく切り張りして偽史をでっちあげることとは対極です。今の世の中はどうも、都合のいい断片を切り張りすることが目に付いてならぬように感じるのですが、目前のことに過剰に「適応」しようとするあまり、そういった行為に走ってしまうこともあるのかとは思います。世知辛いですね。
にしても、それだけ過剰な「適応」になってしまうのは、長期的な衰退傾向にわが国があるという社会的状況があるにしても、それのみならずやはり、複雑で高度になっている世の中というさらに長期的なトレンドも当然影響しているでしょう。教養を身につけるのが容易でなく、また教養自体のあり方も多様化せざるを得なくなっていると考えられます。
そこでポイントになるのではと小生が考えているのは、想像力です。ある体系を勉強することで、他の体系にも想像を広げることが出来る、そんな想像力を涵養することが、現在の教養にとって大事なことではないか、そんな府に思っています。
で、そんな想像力の涵養には、「物語」という表現はとても有効であろうと小生は思うのです。
ただその割に、お前は「萌え」的なものを目の敵にしているではないか? という指摘もあるかと思いますが、あれは表現の方ではなく、その受容のされ方を専ら問題にしているつもりです。「萌え」的入門書の類は、なるほど偉大で巨大でとっつきにくい体系を親しみやすくする効果は一定あるでしょう。親しんで、そこから奥に入ってくのならいいのです。しかし往々、親しみやすさそれ自体を本質と取り違えているように思われます。「萌え」的記号の順列組み合わせに堕して、それで理解したつもりになっているのです。
これはいわば、偉大なものを卑近に引きずりおろし、馴化させてしまうことではないか、小生はそう思います。呑み込みやすくし過ぎたあまり、肝心の体系を見失ってしまっているのです。断片を断片として愛でること自体は小生は構わないと思います。ただそれを以て、体系と取り違えてはならないというだけです。ここを取り違えると、下手をすると体系を馴化させて征服した気になってしまい、さきの教養の小生なりの定義で言えば、自分が「強く」なったと思い込んでしまうことになってしまいます。残念ながら小生は、そういった――「艦これ」好きと称する人々が歴史修正主義的な言説を垂れ流すような――事例を、少なからず見てきました。
年頭から長々書いてしまいましたが、時間がかかって年頭ではなくなってしまいそうなので、それに一生かかったって結論が出るような話でもなし、ひとまずここで終わりにしておきます。
3月初めまでは大して更新できなさそうですが、今年は昨年のような長期休業状態は避けるつもりですので、どうか本年もよろしくお願い申し上げます。

ある程度のリテラシーが無ければすぐドラマティックな内容に騙されてしまうと言うか……。
最近は艦これに便乗したような、断片を並べて美談に仕立てた愛国ビジネスも増えてきて、本当に恐ろしさすら感じています。
仰るとおり、リテラシーをしっかり持たないと、「萌え」に流されてしまうことは多いように思います。
「萌え」は何でも馴化、矮小化させているわけで、対象を矮小化させて取り込んだように見えて、実のところは自分の方が乗っ取られてているのではないか、そんな感じを抱いています。
しかもその問題点を指摘しても、逆切れされるような反応が多く・・・。
恐ろしい世の中ですが、腐らず諦めずやっていかねばと思います。

〔まだ考えている途中ですが・・・中間発表と言うことで〕
「教養」って物事や学問の「とっかかりを知る」事じゃないでしょうか?
「学問という本の目次を知る」と言い換えても良いかも知りません
本当にその学問を学んでいる人やそれで食ってるひとにすれば「その程度ね」レベルだと思います・・・ただ「とっかかりを知る」と言うことは「何も知らない」よりは数段良いことですね
この考え方からすれば「教養のある人」というのは色々な事象や学問のとっかかりを知っている人と言えると思います
本当に専門的になってしまうと普通の人には「何のことか判らない」世界になってしまいます・・・教養レベルなら普通の人が少し感心するレベルだと思います〔「この人って物知りだな〜」レベルですかね〕
実学の場合はレベルが判りやすくて・・・極論で言うと「それでどれだけ稼げるか」〔ゲスな言い方ですが〕なんですけど・・・教養というと基準がわかりにくい、どこまで知っていればレベルが高いかどうか・・・時代によっても基準も範囲も変わりますからね
と言うことからもう一つの結論・・・「萌えはとっかかりに過ぎない」・・・別に良いじゃないですか、とっかかりだけでも知ってるだけましと私は思うのです、教養レベルなら・・・真剣に学びたければ進めば良いだけ、それは個人の自由、それで「食っていく」つもりがなければ個人の自由だと思います
「萌え本」について・・・色々出ているので一概には言えませんが私の知っている二つの「萌え本」はまともだと思いますよ
一つは「萌えミリタリー」の元祖「MCあくしず」・・・見た目は肌色成分多量の本ですが記事のレベルは高いです、というより他の軍事雑誌が取り上げない第一次世界大戦や日独伊以外の枢軸国やロシアの歴史を取り上げたりちゃんとしてます。
もう一つは「もえたん」・・・これは作った人を知っていて〔最近、連絡はないが〕作った時の話を聞いていますが、ちゃんと作った英単語の本に萌え成分を乗っけていますからね

「萌え」連中について・・・私も「萌え」の人なんですが〔「萌え」や「オタク」なんて言葉がない頃からやってますけど〕・・・集団の母数が増えると「変な奴」がそれなりに出てくるのは必然です、確率論の問題です。
こういう言い方をしていいのかしれませんが最近鉄道もブームらしくマニア人口が増えていますがそれに伴って通称「屑鉄」と言われる「やりたい放題迷惑かけ放題」の連中が増えている事はよくご存じかと思われますが
〔ご気分を害されたら申し訳ないですが〕
駄文の長文失礼いたしました
たびたび力の入ったコメントありがとうございます。
返信が遅くなりがちですみません。
さて、教養とは「とっかかりを知る」事とのご意見ですが、もちろん小生も教養にそういった側面はあるだろうと思います。
しかし、取っ掛かりを知ることだけが教養と捉えるのは、あまりにも教養の範囲を狭く解釈してしまっているのではないかと思われます。
教養とはやはり、それを通じて人格や世界観の形成に至るだけの大きな存在ではないでしょうか。
いいかえれば、ただ単に知識量が多くても、それだけでは教養足り得ない、ということです。
それを編み上げてひとつの世界を把握する体系になっていないと、ただのデータベースにしかなりえませんし、データベースは結論を出せないと福部里志君も言ってます。
「萌え」は取っ掛かりに過ぎないというのも、そういう場合もあるでしょうけれど、むしろ昨今の事例では「萌え」表現内の差異化を図るために、何かを引っ張り出してくっつけてみたものが少なくないように思われます。
小生としてはそれは、引っ張り出されてくっつけられたもの(「艦これ」における軍艦のような)に対して礼を失する場合があるのみならず、「萌え」表現自体に関しても、それを真摯に突き詰めることができず、安易なネタ拾いに堕しているのではないか、ということを考えています。
(続く)
前に「百合」関係で当ブログでも書きましたが、
http://bokukoui.exblog.jp/17582012/
「女の子同士」で描くなら相応の必然性がないと、単に普通の恋愛マンガを女の子で置き換えただけになってしまいます。
同様に、美少女表象を用いるのならばそれ相応の必然性があるという説明責任は、そういった表現の作者にはあるのではないでしょうか。
もちろん、「ただ面白そうだから遊んだだけ」「人目を惹きたい」でも別に構いませんが、その程度の必然性のものは相応の評価にとどまるということです。
とりあえず「萌え」美少女出して肌色多くしておけばオッケー、という安直な発想は、「萌え」表現の世界に対して失礼なことではないでしょうか。
そうしなければ描けないものがある、というのならば納得ですが、そうでないのなら普通に描けばいいのです。
取っ掛かりにするならば、取っ掛かりの先の世界がある、ということを読者に知らしめなければ(先の世界の全貌を知る必要はもちろんないですが。そこで想像力が大事なのです)、取っ掛かりの意味がありません。
「取っ掛かり」のフック、あくまでおまけ要素と位置づけているはずの「萌え」表象の方が、取っ掛かった世界の体系を示すことよりも、現状では重視されていないでしょうか。
(続く)
鉄道趣味者が迷惑なことをする、というのははなはだ遺憾なことですが、残念ながらこれは昔からあることで、対策も簡単ではありません。
その一因には、鉄道趣味者には少なからず、発達障碍など精神的な障害を抱えている人が多いとしか思われない
という事情があり、マナー以上の問題を孕んでいるように思います。
これは大問題なので怱々に語れませんが、とまれ、「屑鉄」という呼び方は新しいと思いますが、そういった連中は昔からいたことは確かです。
Ta283さんの年代で関西在住でしたら、1970年代に深夜の大阪駅に集まってブルートレインの写真を撮る子供が問題になったことなど、ご記憶ではないでしょうか。
なお、小生が「艦これ」を中心に批判している問題点は、思想上の、あるいは価値観や世界観の問題であって、「屑鉄」のような迷惑行為とはやや位置づけが異なっていることは、申し添えておきたく存じます。
以上、こちらも大変長文で、こちらこそお気を損ねることになりはしないかと恐れておりますが、力のこもったコメントになあなあで流すほうが失礼と思い、思いのたけを述べました。
こういった機会をくださいましたことを、ありがたく思います。

私も「教養」とは何かもう少し考える必要がありますね
私は「実学」でも「教養」でもない「雑学」という世界を中心に脳内を組み立てた生き方をしてきました
と言うわけで「教養」というものを軽視して生きてきたようなものです・・・おかげでご存じな通り世間的には駄目人間になっていますね・・・と言っても今更変えられないですから
「教養」というテーマについて脳内でぐるぐる考えるのも面白いと思いいろいろまとまらない文章を書いてしまいました
〔まとめられないのが「教養」という体系のある学問が無いのかもしれませんね〕
鉄道マニア・・・鉄道マニアに発達障碍など精神的に問題を抱えた人の率が高いのはなぜでしょう?本屋でもよく見かけますし〔ミリタリー本の横に鉄道本が置いてあることが多いのでよく遭遇します〕・・・萌えオタにも精神的問題を抱えた人が多いんですけどね・・・また一つ疑問が増えてしまいました

・「現在の教養不足」の最大の問題点
私は「自然科学教養〔知識〕の不足と感じます
3.11大地震の原発事故の後、放射線と放射能の区別の違いがわからない人間が山ほどいたこと・・・こんな事は些細なことなんですが〔核物理は難しいので〕
一番怖いのは平気で「科学万能」を声高らかに言う人が多いことですね
実際自然科学をちゃんと学ぶと自然科学は「謎」と「出来ないこと」だらけの世界です
私の恩師〔物理学教授〕はゼミでよく「科学は判らないこと出来ないことだらけです・・・だから一生懸命、研究するのです・・・みんな判ったら研究する必要なんかありません、教育だけすればいいのです」
恩師は足が不自由でいつも片足を引きずって歩いていました、たぶんですが「科学万能なら私の足を治してくれ」と言いたかったかもしれません〔恩師が直接言ったわけではなく私の予想ですが・・・〕
もうちょっと自然科学教養があまねく人々に伝わることを願っています