「メイド・鉄道・ミリタリーの微妙な関係」について考えてみる・中括
一応一区切りつけますが、「完結」「総括」というほどのものでもないので、表題のような造語でお茶を濁す次第です。
やや話が戻りますが、「メイド」趣味と軍事の結び付けに強い関係を有し、かつ鉄道にはそれほどの影響のない要素として、服装(倒錯)趣味的な要素を挙げておくべきでした。ですが、これはまた異なる論点なので、とりあえずは指摘だけにとどめておきます。また、よく統制されたシステムの美学の一環と捉えれば、以下に述べるであろう話題とそう大きくかけ離れるものでもないでしょう。
さて、全能感といえば、下の記事に戴いたコメントにもありますように、神を連想するのが普通だと思います。そして神というと造物主たる全知全能の神、一神教的なそれがこれまたイメージされやすいでしょうが、ここで語る全能感の場合は、個人が主観的に全能感を得られる場合を指しているので、全知全能で全世界を統べる唯一神
ここで言う全能感というのは、自分が世界の中で孤立した詰らない存在ではないと感じられる状況、位の意味で使っています。
で、小生の考え自体思いつきの域をそう大きく出てはいないので以下大雑把に書きますが、近代化によって「神」であるとか地域の共同体であるとか、その中に身を委ねてしまえるような対象から引き離された個人が確立した(させられた)結果、そういったものの代替物として全能感を得られるような対象が求められるに至ったのではないかということです。
ここで、全能感の発露には二種類の回路があると思われます。一つには、個人を飲み込んでしまうような巨大な近代のシステム(国民国家、軍隊、鉄道etc.)に接近することで、この世界に対し客観的観察者である(ある種、神に似ていますね)ような地位に立ち、全能感を獲得するというものです。
もう一つは、この世界の中に自分だけの世界を構築し、その中に自分が君臨することで全能感を獲得するという方法です(近代家族etc.)。
カッコ内の例に挙げたように、これは趣味分野に限ったことではなく、近代に生きる人間は誰しも多かれ少なかれ持っていることで、それ自体は決して非難されるようなものではなく、むしろ適切にそのような全能感をある程度獲得することは「良き」生活を送る上で必須とも思われます。しかし何事も、過ぎたるは及ばざるが如し、なのは勿論です。
というわけで、軍事・鉄道・メイドの趣味は、このような形の関連性があるのだろう、と現時点で一応の提言。我が身も顧みつつ。
ところで、こういった全能感を得るためのツールは、身近に感じられるというより、抽象的なシステムや規範であった方が、より対象としてボロが出にくく、有効であるのではないかと思います。鉄道が軍事と違っているところがあるとすれば、殊に日本では、鉄道が生活と極めて密着しているのに対し、軍事は大きく隔たっているというところにあるのでしょう。それが全能感を得るツールとしてはやや不利に働いているのでしょう。その代わり、乗って楽しむような叙情的な、全能感とは別の機能を発揮しうるでしょうけど。
「メイド」も、日本ではあまり実在しなくて、さらにそれを百年前の異国情緒で飾り立てることで、妄想ツールとしての性能を向上させているのだと思います。
もう一つは、この世界の中に自分だけの世界を構築し、その中に自分が君臨することで全能感を獲得するという方法です(近代家族etc.)。
民族主義的発想でも、個人主義的な発想でも、
bokukouiさんのおっしゃる「全能感」を感じさせてくれる
と思うと、おもしろいですね。
場合によっては「恋愛」も「近代家族」につづく具体例になりえる
のでしょう。「永遠」を求めたり・・・純愛にあこがれたり
人は、どこかで、社会とつながる感覚、他者とつながる感覚、
そういうものを求めているのでしょうか・・・
昔の人は、ご先祖さまとつながることで、
自分は「有限」な命でも、祖先と子孫とつながることで、
「永遠」「無限」のようなものを感じていたのかなー、
などと思います。
「恋愛」というのは、まこと小生らしいといわざるを得ないのですが(苦笑)、すっかり失念しておりました。まったくご指摘の通りで、今の世の中での「全能感」的ツールとして恋愛の占める地位はかなり大きいですね。ある意味、大きすぎるのが問題な場合もあるように感じられなくもないかと思われます。
後段でご指摘のような、昔の人が信じていたとも考えられるつながりがいまや望めないし、その復活を待望するのも現実的ではない以上、それを埋めるものが必要になってくるのですが、恋愛はその要求にもっともよく応えたものなのかもしれません。
雑誌の恋愛特集見てると、モテれば「救われた」、モテないことが「罪悪」みたいに決め付けられていて、「人生そんなシンプルなものでもないでしょー」とつっこみたくなったりします。
愛されるより愛する側が幸せっていう考え方だって成立しますし。
昔の人が信じていたものを今の時代に信じぬくのは確かに
勇気が要りますね。でもそれも幸福感につながるならアリかと。
うつや依存症とかになるよりは、その人が、何か信じて幸せ感につながるなら、そういうのも悪くないと思う今日この頃です。
何かを信じて主観的に「幸福」ならそれでもいい、端でやいやい言うべきではない、というのは大変合理的な発想ですね。だた、あまりに主観的な世界観を貫いて、客観性というか普遍性というか、或いは他者への説明可能性といいますか、そういったものをあまりに軽視しすぎることは長期的には利益ではないのではないか、とも考えます。
まあ、小生の脳内に、啓蒙思想的な近代主義がどこか巣食っているだけなのかもしれませんが。