吉村昭氏の逝去を悼んで我が読書歴を振り返る
それほど熱心な読者であったわけではないのですが、それでも日本の現存では最大の作家の一人だと常々思っていただけに残念でなりません。
謹んで哀悼の意を表します。
というわけで、この機会に吉村氏の作品に関する思い出話でもしてみようかと。
我が家には父親の趣味で吉村昭とか司馬遼太郎とか児島襄とかの本が結構いろいろあったもので、子供の頃から多少読んでいたような記憶があります。
ただ、小学生の頃はあまり吉村作品に触れておらず、どちらかといえば司馬作品を主に読んでいたような気がします。確か小学校の夏休みの読書記録(感想文ではなくて、どんな本を読んだのか、何冊か紹介する)で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』について書いた記憶があるなあ。その時一緒に紹介した本は、全部は覚えていないけれど、確か『シャーロック・ホームズの冒険』があった覚えがあるぞ(笑)
その後、リアル厨房時代初期まで、もっぱら司馬作品中心だったように思います。子供にはそっちの方が吉村作品よりとっつきやすいんですね。テーマとかもそうですが、文体にもやや子供には敷居が高いところがあるような感は否めますまい。
そのまま司馬遼ばっか読んでたら、もっと素直な(藁)人間になっていたかもしれませんが、ある時、吉村昭作品『海の史劇』を読んだのです。これは日本海海戦を描いた作品ですが、これを読んで些かショックを受けたのです。何がショックと言って、それまでの「『坂の上~』史観」の「偏向」っぷりに気がついたから、です。『坂の上~』ではロシアのバルチック艦隊の司令長官ロジェストウェンスキーのことをかなり阿呆、馬鹿殿的な描き方をしておりました。でも『海の史劇』はそんな単純な割り切り方をして描いてはいなかった、そういうことです。
そして両方の作品を読み比べてみて、どうも司馬作品というのはかなり偏っているんじゃないか、日本人である読者が快感に浸れるような巧みな演出がされているのではないか、という疑問を当時リアル厨房であった小生は抱くに至ったのです。
以後小生は、司馬作品を持ち上げて歴史を云々する輩(政界・財界に多い。詳しくはこの本でも読んでくれ)を、決して信用できなくなりました。
それから、家にあった吉村作品をいろいろ読んでみました。もっともそう網羅的に読んだわけではないのですが・・・。好きな作品としては、まず『高熱隧道』に『闇を裂く道』という鉄道トンネル建設譚が思い出されるのは小生の趣味故ではありますが、しかしどちらの作品もまた吉村作品の一つの極をなしているのではないかと思います。人間と自然と、その間を取り持つ技術と、その背後の社会と、これらの織り成す模様を描ききった名作であると思います。二次大戦ものと言えばいいのか、『零式戦闘機』や『深海の使者』などもこの系統の雄篇でありましょう。
あるいは、これは同じく好む人も多いかと思いますが、脱獄を繰り返す囚人を描いた『破獄』も素晴らしく面白い作品ですね。これは人間に焦点を当てている作品ですが、『漂流』もこれに近い系統の作品でしょうか(「自然」という要素はより大きいですが)。自然といえば羆やら鼠大発生やらの動物の話とか、その他にも江戸時代に題材を取った諸作に私小説、言い出したらきりがないですね。短編でもいろいろありますが、「少女架刑」とか「磔」とか、個人的には印象深い作品です。
さて、小生は大学で日本近代史など学び、そのまま院生になって今に至るのですが、小生の指導教官がある日吉村氏の作品について論じたことがあります。日清戦争関連の論文集を読んで議論するというゼミの折だったかと思いますが、軍の衛生関連から脚気対策に話が及び、そこで海軍で脚気の予防に成功した軍医・高木兼寛について、小生は吉村氏の作品『白い航跡』で知っていましたので、高木についてちょっと喋ったのでした。
その様子を見て教官はニヤニヤして、吉村氏の本を読んだな? と指摘し、そしてこのように言明しました。「日本近代史においては、吉村昭の小説がもっとも優れた先行研究である、という分野が存在する」と。
あとで教官とちょっと話をしたのですが、吉村氏は自分で調べた事実関係に基づいて小説を書いているのに対し、司馬遼は事実に反している俗説があっても、そっちが面白ければ採用してしまう傾向があるのだそうです。
よく財界人や政治家で、司馬作品を讃える人がいます。そして、往々にしてそういう説教好きなおっさん・じっちゃんは、「近頃の若者はゲームばっかやって現実と空想の区別がついておらん」などとのたまわれたりするのですが、そういってるご当人が事実と架空の区別に無頓着なわけです。あんたの「歴史観」は小説=フィクションに由来してるんだよ、と誰も指摘してやらんのでしょうか。
個人的には、司馬作品の全てとは言いませんが、少なくとも『坂の上』と『竜馬』については、もっとも適切な取り扱いは『銀河英雄伝説』と同じ系統のものである、と見做すことではないかと思います。この戯言が田中芳樹ファンの方々の怒りを買ったら申し訳ない。
話を戻します。
吉村氏の作品は歴史小説ばかりでは決してありませんが、そちらをメインに議論することをお許しいただけるならば、吉村氏は非常に重要な仕事をこの分野でされたと思うのです。歴史に基づいた小説は、必ずしも厳密な調査研究に基づいているわけではありません。それは手間の問題を抜きにしても、あまり「事実」にばかりこだわっていると小説として面白くなくなってしまう、そういう発想が書き手の側にあったのではないかと思うのです。確かに小説は研究論文ではありませんから、その見解にも一定の理はあります。
然るに、吉村氏の作品は、厳密な事実調査に基づきつつ、なおかつ文学作品として高度な完成度を有しているのです。これは、事実を真摯に追求することと、優れた文学作品を創作することが決して相反するものではなく、両立させることができるものなのである、ということを実証しているわけです。つまり、吉村氏の作品は歴史と文学の関係について、大きく高い可能性を示し続けてくれたと思うのです。
文学部歴史文化学科の卒業生だからというわけでもないですが、以上の吉村氏の業績に深く敬意を表し、その逝去を悼む次第です。
まだ読んでいない氏の作品が少なからずあることを僅かな慰めにしつつ、筆を置きます。
※本文は「メイド趣味」の皆様にあてつけたものではありません。多分。