日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(まとめ)
さる10月、日本赤十字の献血事業の宣伝ポスターに、『宇崎ちゃんは遊びたい!』というマンガのキャラクターを使ったものが一部で張り出されましたが、公共性の高い機関が行う宣伝としてはあまりに性的な表現が強すぎないかと批判を受け、日赤が指摘を踏まえて今後のキャンペーンでは対応を検討するとした一件がありました。概要はこちらの新聞記事にまとまっています(有料記事ですが、無料登録でも読めます)。私もこの件に関しては、公共の場に公的機関が出すポスターとしては不適切だろうと考え、そういった意見をいくつかツイッターでRTし、またこんな感想を述べました。
献血ポスターの件は、すでに多くの指摘があるように、ポスターは作品の文脈から切り離されているので、余程有名な作品でない限り、その一コマで判断されざるを得ない。それでは煽りと胸しか印象に残らず、献血の宣伝にふさわしくないと思われても仕方ないだろう。内輪ネタを公共でやるなという話。また以下のツイートからも、かなり長く論じています(詳細はツイートの日付をクリックしてください)。墨東公安委員会 (@bokukoui) 2019年10月22日
ことのついでなので、若干日赤ポスターの件について感じたことを書いておく。何か考えをまとめる前に、問題がどんどん余計なところへ飛び火して、ますます呆れかえるしかない件だったが、私が件のポスターを見て真っ先に感じたのは「松戸臭」だった。墨東公安委員会 (@bokukoui) 2019年11月9日
さて、こういった私のネット上の発言について、旧知の儀狄氏よりメールが寄せられました。私もそれに返信し、往復は数次に及びました。儀狄氏のメールは長文の力のこもったものであり、私もまたそれなりの長さのものを書きましたので、せっかくならば広く一般に公開して世の参考に供したいと考えました。幸い儀狄氏の同意もいただけましたので、以下にそのメールを基本的に一通一記事として掲げたいと思います。
なお、儀狄氏は私の大学時代のサークルの後輩を通じて知り合った方で、大学では東洋史を(中国の貨幣制度を中心に)学ばれたとのことです。その教養の一端は、私が以前まとめた以下の記事をご参照ください。
儀狄 @giteki 先生の中国貨幣史講義~『中国嫁日記』の「小銭問題」の原因は歴史にあり
「エロゲ―の描写が発祥」ならば「性的なものと不可分」という論理が理解できません
例えば、あなたは水兵服に由来するセーラー服がすべての状況下で軍事的な表現であると考えますか?
あるセーラー服が持つ意味合いは背景や文脈などの複合的な要因の中で決まり、単に「発祥」に依存するものではと私は考えます
件のコラボ絵が【過度に性的】であると主張したいのであれば「乳袋」の「発祥」だけではなく、表現そのものを評価、議論する必要があるのではないでしょうか?
また、【過度に性的】であるという主張には"客観的"なクライテリアが必要だと私は考えます。あなたが件のコラボ絵を【過度に性的】であると感じたということは理解できましたが、それはあなたの主観に過ぎませんよね?
例えば、男性の医師と女性の看護師という表現がフィードバックループ的に女性の医師進出と男性の看護師進出を抑制するということは十分にあり得ることだと考えます
言い換えれば、ある種の表現が性的な役割を抑圧する効果を持っていると私は考えます
しかしながら、件のコラボ絵がこのような効果を果たして持ちうるのでしょうか?
確かにこのキャラクターが給仕をしているという点では女性を抑圧する効果を持っていると言わざるを得ないでしょう
一方で、フィクション特有の現実では実現しえない表現について、実現しえないにもかかわらず、その実現を強要されることはあるのでしょうか?
例えば「乳袋」についてはあなたが「あの表象は現実に存在しない、巨乳をモチーフにしつつも畸形的に独自の存在意義を持つ表現形式」とおっしゃるように、一般社会では存在しない衣装です。果たしてこの2次元特有の表現が氾濫したからと言って女性が「乳袋」の着用を要請されるようになるでしょうか?少なくとも私は否定的です
この点についてはあまり言及されていなかったので是非ともお聞きしたいのですが、ここでの「消費」とはどのように定義されるものですか?
また、逆にキャラクターを「消費しない」とはどのように定義されるものですか?
この主張には全く同意できません
仮にこの主張を真とするならば、もし「宇崎ちゃんは遊びたい!」が大衆的作品であれば、あなたはこのコラボ絵が同じ表現であったとしても問題視しなかったのですか?
>だからこそ私は、「オタク」は、とりわけマイノリティであった時代を知っている中年以上のオタクは、コンテンツへ耽溺してみせることで、若年層の手本になるべきだと考えています
あなた自身のオタク像は尊重しますが、それはあくまでも"あなた自身のオタク像"であり、他人は関係ないですよね?
また、単なる消費者としての大衆化した「オタク」が薄弱なアイデンティティを形にするためにフェミニズムに対して攻撃的になるという主張をされていますが、いくつか疑問があります
1.なぜ消費者はアイデンティティとして無理があるのか?
2.「オタク」としてのアイデンティティが薄弱でも「オタク」以外でアイデンティティは形成できるのでは?
3.なぜフェミニズムに対して攻撃するとアイデンティティは形成できるのか?