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日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(1:儀狄氏発信)

 以下のテキストは、儀狄氏より送られたメールの内容をそのまま転載しました(多少、読みやすく修正した箇所などはあります)。本件の経緯につきましては、まとめの記事をご参照ください。
 また、この前に事務的なやり取りがあり、その中で私が「北守氏の記事(まとめの記事参照)にコメントされるのですか」と尋ねたために、冒頭はそれに関する文言から始まっています(「モーゲンソーをドイツ語で…」は北守氏のことです)。文中、青文字で記されているのは私が加えた註記です。

==========<以下儀狄氏のメール>==========




2019-10-27 15:04 発信

 モーゲンソーをドイツ語で読んだ人へのツッコミはしません〔註:モーゲンソーはドイツ語の著作もあるとのこと。詳しくはこちらを参照。むしろ墨公委さんがツイートしていたことに対する反応です。
 というかtwitterがロックされているので、貴方のツイートにはメールくらいしか突っ込む手段が無いのですよね。
 (墨公委さんが論点にしていないがtwitterなどで見かけた論点も含めて)

【そもそも表現の自由であるか】
 極端な例ですが『このようなポスターを掲示して良いのは東京都青ヶ島村と奈良県十津川村だけ』と定められたら不当な検閲であり、そこまで行かずとも『“公共の場所”にどのような表現物を提示して良いか』というのはどこかで表現の自由と関わってくる問題ではあります。
 そう考えた時、あのポスターを掲示することに対する議論は当然あって良いものですが、『(キズナアイ問題でも騒いだ)太田啓子という』『弁護士である人が』『(環境型セクハラという)触法行為“のようなもの”と強いレッテルを貼った』ことで『難癖をつけて排除しようとしているor法規制を訴えている』と受け取られるのはやむを得ないことであると考えます。
 たとえばの話、『こういうポスターは嫌いです』だったらここまで騒がれなかったでしょう。(この騒動で『萌え絵嫌い』というツイートが発掘されていましたが、そのツイートも『太田弁護士ならそう思ってるだろうね』程度に思われて当初はスルーされていたわけですし)

【赤十字という極めて公的な機関が提示するポスターとしてターゲットを絞りすぎであるから不適切論】
 『宇崎ちゃんのようなポスターばかり使っていたら不適切』ではあるが、『一度や二度使うだけで不適切ではないだろう』というのが私の立場です。
 というのは、社会は決して添付ファイル図1のような円状にはなっておらず、図2のようなアメーバ状(絵が下手でスミマセン)になっているかもしれないし、もしかしたら社会の分断が進んだ結果、中心が複数ある図3のようになっているかもしれない。
 そして、そのような複雑な社会に対し『広告』というのは良くも悪くも円ないし楕円状にしか広まらない。それに対し、公共機関は『その中心付近にいる人』だけでなく社会のあらゆる層への広告が求められるわけであり、そうすると大きな円で中心付近をカバーする広告だけでなく、時には社会の端の方にいる人向けの広告も必要になる(オタクというのはそんな端ではなくもう少し大きな瘤状のものだろう、という主張はいったん置いておきます)。そのような端っこ向けの“Not for you”な広告があったからという理由で「俺のような人間は献血に来るなということか」と(瀬川氏〔註:瀬川深氏のこと。ここで儀狄氏が指摘するツイートは残念ながら発掘できず〕のようなことを)言い出すのは拡大解釈でしかないと考えます。
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【胸を強調して煽っているだけ】
 『作品の魅力が正しく伝わっているのではないか』というのが私の立場です。
 2巻までしか読んでいませんが、読んだ限りで言うならば「ウザくて(“うざき”という名字が“ウザい”から来ていることは自明と見なします)可愛くて巨乳な後輩が絡んで来て、時々面倒なこともあるけどこんな日々も悪くはないかな」というマンガであると理解しています。そして『こんな日々も悪くはないかな』の1割か2割程度(主観)は『おっぱいも揺れるし』があることは否定できない要素です。
 そう考えた場合、原作を知らない人があのポスターを見た時の印象は、「この煽ってくる巨乳な女が“先輩”に絡んでくるマンガとコラボなんだな」的なものになるでしょうし、それは作品の魅力が正しく伝わっているということであると考えます。『それで原作を知らない人が献血しようと考えるか』論については上述『ターゲット絞りすぎ論』と共通。

【表層消費論】
 『その通りだが、それで何が問題なのか』というのが私の立場です。
 表層消費でないポスターとしては『はたらく細胞』や『アカギ』とコラボしたポスターが上げられるでしょう(※なお、『アカギ』コラボは実在します)。どちらの作品も、『血液』が作品内で重要な位置づけにあるから、そのような作品とのコラボならば表層消費ではない。それに対し、宇崎ちゃんは特に献血や血液に関係のあるキャラではないから結局はキャラクターや女性の表層を消費しているだけ。それはその通りです。
 ですが、それを厳密に言い出すならば実在の男性・女性芸能人やスポーツ選手を使ったポスターはほぼ全てアウトになります。『元赤十字職員で献血センターで働いていたアイドル』『元看護師のアイドル』のような人物ならばともかく(1人くらいは居そうではある)、そうでない芸能人を起用するのは結局は美男美女の表層消費でしかない。それはあまりに広告表現の不自由ではないか、というのが私の意見です。

【公共機関として相応しくない価値観を宣伝している】
 『宣伝しているかもしれないが、ごくわずかでしかないから問題ない』というのが私の立場です。
 ちょうど本日、『男/女はこうあるべきと娘に教えていなかったのに、サザエさんを見て昭和の家族観を言い出した』というtwitterまとめがありました。 
 およそどんな作品でも何らかの価値観(作者が意図したかどうかは別)と無縁ではありません。長谷川町子に『男は仕事、女は家庭という価値観を宣伝しよう』という目的があったかといえばノーですが、一方で『そのような価値観を結果的に含んでいる』はイエスです。同様に、『顔が良くて巨乳』というのは宇崎ちゃんというキャラを構成する要素の一部であって全部ではない。宇崎花は宇崎花であるがゆえに良いのであって、『可愛くて巨乳なら誰でもいい』とは作者は意図していない。ただし、『顔とおっぱいが重要』と受け取られる可能性はゼロではない。それはどのような創作物にも当てはまることであり、公的機関に求められるのは『創作物とコラボするな』ではなく『多様な価値観の創作物とコラボすること』であると考えます。

【過度に性的】
 性的か、と言われたらそれはイエスです。ただし、過度に性的かと言われたらそれはノーだと思います。
 木之本桜ちゃんはある程度オタクにエロ同人を描かれることも想定して作ったキャラであるとは思いますがそれをもって『木之本桜は過度に性的』とは言えない。『ご注文はうさぎですか?』のキャラもエロ同人は多数出ていますが、作品はエロメインではないし、実際彼女らが働く喫茶店の制服・通う学校の制服を着ている絵であるならば『性的ではあるが、過度ではない』と言って問題はないと思います。
 で、宇崎ちゃんは過度に性的かというと『過度』ではないと思います。確かに性的な誤解をされたオチ(先輩のせいで腰が痛い@第1話-4)、ラッキースケベで胸を触ったが真一は触ったのが胸だと気づいていないオチ(@1巻第3話、2巻第19話)などありますが、それは本作の魅力の一部でしかない。エロゲーやToLoveるのようなエロを全面に押し出した作品ではないわけです。(※こう書いた場合、Fateのアルトリアさんは良いのか、という重大な問題は発生しますが)。
 『絵柄で判断』は極めて主観的な要素が伴いますし、『区別できないぐらい曖昧な表象についていえば、その都度考えれば事足りる話だ。厳密な基準にこだわる意味はない(某氏の論考より引用)』は本来の意味のダブルスタンダード(※経済的な規制は金銭の問題として客観的な指標が出るが、精神的な規制は『規制しようとする動き』それ自体が精神的萎縮を招くのでより慎重にしなければならないという二重の基準)を理解していないという点で論外です。結局は露出度などある程度明確な基準を設け、例外的かつ明確な理由(『Free!』という作品は男子水泳部を描いたものだから水着を描くのもある程度は仕方ない。『火ノ丸相撲』は相撲を描いたものだから以下同文など)がある場合以外はそれで判断するしかないと考えます。
 そう考えた時、巨乳だからといって普通にシャツを着ているのが過度に性的という判断は厳しいと私は考えますし、それこそ実在の女性を起用する場合でも『この女性が巨乳なのは知っているがなぜこの女性なのか。もっと他の女性ではダメなのか。元看護師のアイドルもいるのになぜその子にしないのか。結局は“女は顔が綺麗で胸が大きければ良い”という、起用する人の意思を感じる』という批判、『実在の巨乳女性を起用するのは構わないが、胸を強調した構図はダメ』『そうは言うが古瀬絵理(スイカップとして話題になったアナウンサー)や佐倉綾音(声優。実力は誰もが認める人気声優だが、巨乳なのも事実)なんだから何を着ても胸が強調されてしまうのだ(参考)という返答は有効なのか無効なのかという問いになってしまうわけです。
そもそも、「黒人を創作物に描くな。描いた創作物とコラボするな」「在日朝鮮人を描いた(以下略)」「障害者を(以下略)」が差別であるのと同様、「巨乳の女性を描いた創作物とコラボするのは不適切」というのは巨乳の女性に対する差別ではないでしょうか?
(例に挙げた古瀬絵理アナはまさに『あんな女を出すのは子供の教育に有害だ』などと抗議を受けたそうです)

【見ると不快に思う人がいるからダメ】
 論外。
 実在芸能人やスポーツ選手を起用したところでアンチ(知名度のある人でアンチのいない人は存在しないと思います)には不快なのは避けられない。
 そもそも、『見て不快』だけならば見なければいいのです。一つには、『不快になる物を見たくない権利』は最小限にしか行使できないと考えるからです。『黒人を見たくない権利』『チマチョゴリを見たくない権利』『モスクのミナレットを見たくない権利』は差別でしかないことは自明です。
 もう一つは、『不快なものを見ないことの困難さ』<<(越えられない壁)<<『不快な音声を聞かない困難』『不快な悪臭を嗅がない困難』であり、『公共の場所で不快になる物を見たくない権利』が認められる社会では必然的に『どうしても奇声を上げてしまう自閉症患者は公共の場所に出てくるな』『悪臭を放つワキガやホームレスの人は公共の場所から排除せよ』が認められてしまうことになってしまうと考えるからです。

【公共の場所で内輪ネタをやるな】
 30年前のように誰もがトレンディドラマを見ている時代ではないのだから、ある程度内輪ネタになるのは仕方ないのではと思います。
 その上で、鉄道の駅や店の中といった『誰もが立ち入れるけど私有地』な公共の場所ならばある程度は所有者の意思が優先されるでしょうが、道路などの純粋な公共の場所というのは異性愛者、同性愛者、日本人、外国人、オタク、フェミニストなどのあらゆる人に開かれた場所であるべきで、そのような場所での『不適切な行為』はまさに法律以上のものはないと思います。もちろん、法律より厳しい基準としての『マナー』はあるでしょうし、その『マナー』に基づく批判は構いませんが、『マナーを守れない物は公共の場所から排除せよ』は行き過ぎではないでしょうか。

 というか、『セーラームーンとエヴァンゲリオンはセーフ』論に対して私は「それ20年前に言ったら鼻で笑われるからな」という実感があり、結局のところ『ガンダム、エヴァ、マジンガー、ゴジラ、セーラームーン、プリキュアなど、ある程度オタクっぽさがあっても有名作品はセーフ』というのはまさにここ20年くらいのオタクが勝ち取ってきた権利だと思うのですよね。


 だいたいこんなところです。漏れの指摘&反論があるなら受け付けます。

==========<儀狄氏のメールここまで>==========
 このメールへの返信は、

になります。

by bokukoui | 2019-12-08 15:42 | 時事漫言 | Comments(0)

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