日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(2:墨公委発信)
最初に思ったことなのですが、せっかくの長文なのですから、ブログかどこかで公表されてはいかがですか。
私一人に送り付けるだけでは、はなはだもったいないように思われますが、どうでしょう。そもそも儀狄さんの意見の受け手として、私が適切かどうかも自信のないところです。もしよろしければ、私のブログで、私の以下の文章も含め、掲載するということもできます。
ご検討いただければ幸いです。
北守氏の文にはコメントされないとのことですが、北守氏の文章はなかなか面白くて、表現そのものが性的かどうかといったこと「ではなく」、なぜこういう時に「オタク」が吹き上がってしまうのかという構造を論じたものです。論の中には粗笨なところもありますが、根本的な着眼点は私も面白いと思いますし、有用でもあろうかと考えます。
さて、いただいた長文についてですが、上記の事情で大雑把に、いくつかの論点についてのみ私見を述べさせていただくことでご寛恕ください。順番もかなり錯綜していますが、何卒ご理解のほどお願い申し上げます。
【そもそも表現の自由であるか】
そもそものポスターが問題になったきっかけは、訪日アメリカ人のツイートでした。この点がすっかり抜け落ちているのは(ほとんどみんな忘れているようですが)、問題です。
さらにいえば、「議論は当然あっていい」としながら、太田弁護士だというので「フェミが出たぞ~! 叩け~!」と、叩いていい事例だと思い込んでいるのは、そもそもの立脚点からして間違っているものと私には思えます。ポスターがどうか、という議論にそもそもなっておらず、みんなでフェミを叩いて盛り上がろう、というネットイベントに過ぎなくなってはいないでしょうか。
言葉が過ぎるとは重々承知しておりますが、以前にも申し上げた通り、ネットで徒党を組んで騒ぐしか能のない徒輩ならいざ知らず、人文学を学んだからには今時フェミニズムの重要性については(歴史学でも)喋々する必要のないところで、人文学徒の方が安易な「フェミ叩き」に便乗するようなことは自己矛盾であると考えます。
【過度に性的】
これについては、『宇崎ちゃんは遊びたい』という作品について読んで分析して、「あの図柄は性的かどうか」と議論すること自体が、私は無意味だと考えます。なぜならば、問題はポスターであって、ポスターは作品の読者でない人(そっちの方が圧倒的多数)へどう映ったかがこの場合は問題なのですから、ポスターの画像「のみ」で論ずるしかありません。そこで見えてくるのは、矢鱈あおってくる台詞(これについては献血の理念に反するのではないかとコロラド博士が指摘されています)と、俗に「乳袋」といわれるマンガ的誇張表現になります。
どうもしばしば、「乳袋」表象を場にふさわしくないと批判すると、「巨乳の女性を差別するのか」と頓珍漢極まりない反論(になっていない)をする人がいますが、あの表象は現実に存在しない、巨乳をモチーフにしつつも畸形的に独自の存在意義を持つ表現形式です。それを現実の女性がどうこう、という話にするのは、それこそ二次元ならではの表現の面白さを解しないものであり、二次元の「オタク」としては情けないことのように思われます。
特異な表現だけに、使い方や出す場所は、それ相応の配慮はいるべきだと考えます。もちろん配慮することは決して、その表象を否定することではありません。
どうも、批判をするとすぐに「否定された」「排除しろというのか」と過剰反応をされることが多く、なるほど「批判なき政治」という国会議員も現れる世の中と嘆息しております。
以上を踏まえれば、作品の文脈としてはそれなりに必然性のある「乳袋」も、一コマだけ文脈から切り離されてポスターにされては分かるはずもなく、むしろ場違いで畸形的な印象のみを与えることになってしまいます。
さらにいえば、高遠るい先生が指摘する「現代美少女イラストが容易に放射しがちな「性的以上に征服的、恥じらいじゃなくて辱しめ」オーラ」という問題を、より強調してしまうことになります。
この「征服的」というのはなかなか幅広い問題点につながります。
私は、これも以前にツイートしたことですが、あまり硬直的なルールを表現の場に設けることは慎重です。
もちろん、行政が何らかの措置をする場合は、権力の発動の根拠を明確にしなければなりません。しかし、市民どうしで表現をしたり享受したりする場合は、なにかしら外在的な基準を墨守するのではなく、その場その場で議論というさらなる表現を積み重ねて、常にあるべき表現の程度を作り続けていくべきものと考えています。自然状態で表現の自由があるわけではなく(そこを誤解している人が多そうですが)、常に作り続けること、自分も責任をもってその一端を引き受けることが大事だと考えます。
またこれは、「法律に反していないから構わないだろ」といった、外在的な基準に寄りかかることでかえって無責任に表現をすることへの戒めでもあります。
【胸を強調して煽っているだけ】
ポスターの表象だけで議論すべきといっておきながら矛盾する話ですが、私もこの作品はネットの無料公開分はそこそこ読んでましたので、あの絵柄について若干思うところはあります。
【公共の場所で内輪ネタをやるな】
昔ほど「誰もが知っている」作品が少なくなっているのはご指摘の通りです。
私も必ずしもマイナーネタを否定するものではありませんが、ただその場合は、ネタを知らない人が見るということも同時に考えておくべきことではあると思います。もちろん、それを理由に公共の場から排除しなければならない問題とは全く考えませんが、批判が出ることは十分承知されるべきことです。
儀狄さんの表現で私がどうも気になるのは、「オタクが勝ち取ってきた権利」というものです。これはそんな権利なのでしょうか? 「勝ち取った」ものなのでしょうか? 違和感があります。
公的機関ないし企業との「コラボ」で「オタクっぽい」ものが使われ許容されるようになったのは、そういった文化に子供の頃浸っていた層が20年経って大人になり、社会の中枢になったというだけのことであって、何かしら「勝ち取った」とはいえないと考えます。
そもそもそれは「勝ち取る」ような「権利」なのでしょうか。別に何か抑圧されて、コラボできなかったというわけではなく、社会の中枢の年齢層が考えなかった、というだけのことではないでしょうか。それを何かしら「権利」のように考えることは、いささか危険なように私には感じられます。「オタク」的表象を社会にばらまく権利がある、逆らうものは「敵」だ――となりかねません。
これまたさっきの、高遠先生のいう「征服的」な欲望の表れのように考えることもできます。そんな不毛な陣取り合戦よりも、まず何より作品自体に耽溺することが、オタクだったのではないでしょうか。
どうも長々と書いた割に、ご提示の論点の一部にしか触れられず申し訳ありません。
現状の状況では、私の力ではこの程度しか論じられないことをお詫び申し上げます。
ただそれなりのボリュームになりましたので、せっかくなら「往復書簡」という形で私のブログででも公開できれば、意義も大きいと思いますので、ご検討いただければ幸いです。
『表現の自由を含む人権は天賦のものだから、自然状態でも“ある”』『実際に“守られる”かどうかは別問題であり、ホッブス的自然状態だったら弱者の権利は蔑ろにされる。ロック的・ルソー的その他の自然状態でも、少なくとも平等なものとはならない』『だから全ての人の権利を守るためには政府が必要である』ものと私は理解していますが…