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筆不精者の雑彙

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日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(3:儀狄氏発信)

 本記事は、

への儀狄氏の返信です。この往復書簡の経緯については、まとめ記事をご参照ください。




==========<以下儀狄氏のメール>==========

2019-11-18 12:51 発信

【そもそも表現の自由であるか】
 そもそものポスターが問題になったきっかけは、訪日アメリカ人のツイートでした。この点がすっかり抜け落ちているのは(ほとんどみんな忘れているようですが)、問題です。
 訪日アメリカ人のツイートは以下にまとめられていますが、アメリカ人氏の感想は
『過度に性的な宇崎ちゃんを赤十字が使っていて失望した』『不適切な場所でも女性を性的なものとしている』
であり、少なくとも氏の意見という部分では『TPO(※余談ですがこれ和製英語らしいですね)に合っていない』という個人の感想に留まっています。そこへ法律上の問題をちらつかせたのは太田啓子本人であり、その点で太田啓子の免責はできないと考えます。

 さらにいえば、「議論は当然あっていい」としながら、太田弁護士だというので「フェミが出たぞ~! 叩け~!」と、叩いていい事例だと思い込んでいるのは、そもそもの立脚点からして間違っているものと私には思えます。
 『議論はあっていい』ですが『一方的な罵倒、排除の呼びかけ』は良くない。その上で太田啓子のツイートは最初から排除を呼びかけたと受け取られても仕方ないものだと考えます。

【過度に性的】
 どうもしばしば、「乳袋」表象を場にふさわしくないと批判すると、「巨乳の女性を差別するのか」と頓珍漢極まりない反論(になっていない)をする人がいますが、あの表象は現実に存在しない、巨乳をモチーフにしつつも畸形的に独自の存在意義を持つ表現形式です。それを現実の女性がどうこう、という話にするのは、それこそ二次元ならではの表現の面白さを解しないものであり、二次元の「オタク」としては情けないことのように思われます。
 この手の問題において、『二次元ならば許されるが三次元では許されない表現』はあり得ますが、『三次元では許されるが二次元では許されない』という表現は存在しないと考えます。(あると言うなら聞きたいです本当に)
 となると、どうしても『巨乳の描写はどこまで許されるか』という問題は少なからず『巨乳の女性を宣伝に使うことについて、また本人が宣伝することについて』含まれてくるのは致し方ないと考えます。

 特異な表現だけに、使い方や出す場所は、それ相応の配慮はいるべきだと考えます。もちろん配慮することは決して、その表象を否定することではありません。
 どうも、批判をするとすぐに「否定された」「排除しろというのか」と過剰反応をされることが多く、なるほど「批判なき政治」という国会議員も現れる世の中と嘆息しております。

 以上を踏まえれば、作品の文脈としてはそれなりに必然性のある「乳袋」も、一コマだけ文脈から切り離されてポスターにされては分かるはずもなく、むしろ場違いで畸形的な印象のみを与えることになってしまいます。

・宇崎ちゃんポスターはあの絵単体で見てもある程度は性的である。
・問題は“過度に性的”であるかどうかである。
・ただし、『巨乳である時点で“過度に性的”』というわけではない。それは上述したように現実の巨乳女性をも排除し始める意見でしかない。

 この点については私と墨公委さん両方の間で合意があり、その上で『乳袋などによって不自然なまでに巨乳を強調することが“過度に性的”に該当するか』が論点であると考えます。また、巨乳表現については次の絵をおおよその分類として考えます。(いずれの分類にも該当しない巨乳表現としては『ヘスティアの紐@ダンまち』など考えられますがいったん置いておきましょう)
https://www.pixiv.net/artworks/65945087

 上の絵でいう『乳カーテン』的な格好をすると太って見えるというのは現実でも二次元でも共通することであり、『乳袋』はそれを回避しようとしたデフォルメの結果で、『巨乳そのものを強調しようとする目的』であるかは難しい問題です。
 もちろん、『それはオタクの文脈上の問題であり、文脈が共有されていない人にはあくまであの絵一枚で判断される』というのはその通りですが、服で全部覆われていてもなお強調と言えるかは疑問が残ります。つまり、

・乳テントや乳カーテンは“過度に性的”ではないが、乳袋は“過度に性的”ということなのか。それはなぜなのか。不自然だからか。(さらに言うなら、上述したように『巨乳が服を着たら太って見える』というのは現実の巨乳女子も悩んでいることであり、『乳袋と呼ばないで』と表明したHeart Closetというブランドは発想自体は近いものがあります。もし現実に『乳袋ですが何か』と言い出すブランドが出てきたらどうするのか。実際、ファッション業界は我々の理解に苦しむ物を流行らせることがあるので、可能性は10%程度はありそうに思います)
・巨乳の女性がコルセット的なものをつけたら乳袋と乳テントの中間形態になるがどう判断するのか。『理由のないコルセットは不自然』と言えるのか。ヴィクトリアメイド(←フレンチではない、正統タイプのメイド服の意味で使っています)なら良いのか(メイド服自体は『奉仕する女性』イメージという別の問題がありますが)
 
 …etcなど考えると、『全身タイツやSF的ぴっちり宇宙服、プラグスーツ@エヴァ的衣装』(←これ自体はある程度文脈があると考えます)なら別ですが、『露出の少ない服を着ていて強調はおかしい』『それを越えて文句をつけるのはむしろ人の服装に過度に文句をつける生徒指導教師、父親的存在でしかない』という区切りになると個人的には考えます。
 そして、『排除されなければならないほどTPO違反』というのであれば、やはり追い出す側が相応の理由を出すことが必要であり、現時点でそのような理由は出ていないと考えます。

 さらにいえば、高遠るい先生が指摘する 「現代美少女イラストが容易に放射しがちな「性的以上に征服的、恥じらいじゃなくて辱しめ」オーラ」という問題を、より強調してしまうことになります。
 この「征服的」というのはなかなか幅広い問題点につながります。
 宇崎ちゃんは「人付き合いは面倒だけどさりとて孤独にもなりきれない」“現代の男性像”にとって「勝手にコミュニケーションを取りに来てくれる存在。しかも巨乳の美少女」という意味である意味で都合のいいキャラであることを否定はしません。
 ただ、『都合の良いキャラクター』『征服的』というのはオタク文化に限らず古今東西の多くの文化で見られるものであり、『オタク文化はその度が著しい』ことが示されない限りは単なる選択的非難でしかないと考えます。(たとえは悪いですが、『在日朝鮮人は環境に悪い。在日朝鮮人が呼吸した際に吐く息に含まれる二酸化炭素は温暖化ガスである!』と非難するようなものです)

 私は、これも以前にツイートしたことですが、あまり硬直的なルールを表現の場に設けることは慎重です。
 もちろん、行政が何らかの措置をする場合は、権力の発動の根拠を明確にしなければなりません。しかし、市民どうしで表現をしたり享受したりする場合は、なにかしら外在的な基準を墨守するのではなく、その場その場で議論というさらなる表現を積み重ねて、常にあるべき表現の程度を作り続けていくべきものと考えています。
 表現の自由がもっとも重要なのは権力からの規制に対してのものである、という点には異論がありません。
 ですが、私は『市民同士での議論』もあまり信頼してはいません。戦時中の『敵性語排除』や戦後の『部落解放同盟による糾弾』など、表現に市民が圧力をかける事例も多々あり、だからこそ典型的には図書館の自由に関する宣言には『図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく』と掲げているわけです。市民による、被害の無い排除の要求に対し『表現は自由である』と宣言することもまた、表現の自由の重要な役割であると考えます。

【公共の場所で内輪ネタをやるな】
公共機関などとのコラボは権利か
 権利でしょう、明らかに。現在の商業作品は何らかの広告を必要としており、『公共機関とのコラボ』もまた公共機関と作品の双方に利がある広告です。もちろん公共機関の広告という趣旨に反するコラボは良くないですが、コラボ自体を頭から否定することは出来ないと思います。
 また、いまだに残る「マンガしか読まないようなのは人間性に疑問」だの「オタクは性犯罪者予備軍」だのといった一部に残る偏見を覆すためには、『公共機関なども採用した』という権威がいまだ必要であることも確かです。(かつて手塚治虫が『大阪大学医学部卒の医師・後に医学博士』という権威をもってマンガ批判に立ち向かったようなものです。この経歴が一部嘘だったのはさておき)

 同時に、私が近年気になっているのは「公共」を振り回すことによる排除の問題です。
 「税金で建てられた公共施設なのだから、政治的に偏った団体に使わせるな」「公共の場所なのだから、ヘイト団体は排除せよ」のような『公共の場』を理由にして相手の活動を制限しようという動きが左右問わず出ていますが、本来は公共の場所であるからこそ、香山リカだろうが百田尚樹だろうが平等に講演会を“開催できる”べきであり、双方が抗議で中止に追い込もうとし合うのは違うと考えます。
 この手の『公共を理由にした排除』がしばしばオタクに対しても『コンビニというのは誰もが入る場所なのだから、エロ本を置くな。表紙が不快で排除されているように感じる』のように現れていると考えており、そのようなあからさまな排除に対しては自由主義者として抵抗の必要があると感じています。
 公共の場所に特定の人を排除するような存在があるべきではない、という論に一定の理解を示す部分はありますが、裸婦像やダビデ像を排除するべきかというと私は疑問に思いますし、リー将軍像やコロンブス像を攻撃するのも違うと私は考えます。(なお、先日のコミケのヘイト事件〔註:2018年冬のコミケで、「中韓お断り」という張り紙をしたサークルがあったと告発があった事件。これを受けてコミケ準備会は、こういった差別行為の排除を声明した〕はまさにそれで、『ヘイトを禁止しないコミケ準備会にビッグサイトを使わせるな』は“事実上の”コミケ禁止論であり、『会場問題はある意味で表現の自由のセキュリティホールである』からこその巨大な反発であったわけです)。

「オタク」的表象を社会にばらまく権利がある、逆らうものは「敵」だ――となりかねません。
これまたさっきの、高遠先生のいう「征服的」な欲望の表れのように考えることもできます。
 私は自由主義者なので、『正当な理由なく人の自由を制限しようとするのはおかしい』と批判します。

そんな不毛な陣取り合戦よりも、まず何より作品自体に耽溺することが、オタクだったのではないでしょうか。
 これもある程度同意するのですが、ただし『オタクはそれを越えた広告活動をしてはならない』というならばそれは『正当な理由のない、自由に対する制約』として批判します。

 返信遅れてもうしわけありません。
 私の意見は現時点では以上になります。

==========<儀狄氏のメールここまで>==========

 このメールへの私の返信は、
になります。

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by bokukoui | 2019-12-08 16:41 | 時事漫言 | Comments(0)