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日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(4:墨公委発信)

 本記事は、

への私の返信です。この往復書簡の経緯については、まとめ記事をご参照ください。




==========<以下墨公委のメール>==========

2019-11-25 18:42 発信

 墨東公安委員会です。このところ心身ともあまり調子がよくなく、そこへ休日出勤などもあって返信が遅くなりすみません。

 少なくとも氏の意見という部分では『TPO(※余談ですがこれ和製英語らしいですね)に合っていない』という個人の感想に留まっています。そこへ法律上の問題をちらつかせたのは太田啓子本人であり、その点で太田啓子の免責はできないと考えます。
 https://togetter.com/li/1417316
 引用されているまとめには太田弁護士のツイートがなく、儀狄さんの指摘については分かりかねます。
 私の認識する限りでは、そもそもポスターへの批判はポスターを作った日赤の、TPOをわきまえないところへの批判であって、オタク文化を取り締まれというようなものではありませんでした。
 それを勝手に、「自分たちが弾圧されている!」と「オタク」がしゃしゃり出てくるところが、そもそもズレているのです。日赤が公的機関としてふさわしい女性表象の扱いをしているか、という問題を、「フェミがオタクを攻撃した!」とすり替え、いったん「オタク」の側でそういう認識ができてしまえば、あとはみんなで楽しく投石大会です。

 繰り返しますが、根本の問題を作ったのは日赤であり(あとコラボを認めた編集部も多少の責任はなくはないでしょう)、それを「フェミの攻撃」が発端だったかのようにすり替えるのは、まったくもって詐術です。
 問題のあるポスターがあったので指摘した、そうしたら「フェミの攻撃だ!」と原因を他者に押し付ける、その無責任さと顛倒した認識は目に余ります。
 最初に起こったことはポスターが作られ、張り出されたことなのです。

 この手の問題において、『二次元ならば許されるが三次元では許されない表現』はあり得ますが、『三次元では許されるが二次元では許されない』という表現は存在しないと考えます。(あると言うなら聞きたいです本当に)
 となると、どうしても『巨乳の描写はどこまで許されるか』という問題は少なからず『巨乳の女性を宣伝に使うことについて、また本人が宣伝することについて』含まれてくるのは致し方ないと考えます。
 この部分は意味を解しかねます。三次元で許されるが二次元では許されない、という表現は私もとっさには思いつきませんが、それが「となると」以降につながる論理が分かりません。
 二次元特有の胸の強調表現をやったら、場にそぐわないやりすぎだったので問題だと指摘された、それだけのことで、どうしてそこで実際の女性を宣伝に使うことを引き合いに出す必要があるのですか。

・宇崎ちゃんポスターはあの絵単体で見てもある程度は性的である。
・問題は“過度に性的”であるかどうかである。
・ただし、『巨乳である時点で“過度に性的”』というわけではない。それは上述したように現実の巨乳女性をも排除し始める意見でしかない。
 この点については私と墨公委さん両方の間で合意があり、その上で『乳袋などによって不自然なまでに巨乳を強調することが“過度に性的”に該当するか』が論点であると考えます。
 ここは私も、巨乳だからといって直ちに「性的に強調した表現」とは思いません。しかし、この箇所以降の「乳袋」に関するお説は、まったく受け入れることはできない、無理に正当化を図って顛倒したものと考えざるを得ません。
 どう考えたって、「乳袋」は巨乳を強調した表現です。それを「乳カーテン」によって太って見えるのを回避するのが主目的、とするのは全く受け入れられません。ましてや、実際にはないのに「アパレル業界がそういう服を作るかもしれない」などと、考えにくい想定まで持ち出すのは、話の筋を捻じ曲げるものです。

 私も詳しいわけではありませんが、そもそも「乳袋」はエロゲ―の描写が発祥であり、性的なものと不可分でなはずです。性的なものと不可分なこと自体が悪いわけではもちろんありません。しかし、その使い方は注意すべきです。
 一例として、ニコニコ大百科の項目を挙げておきます。ここからも、エロゲ―で巨乳を強調するあまりやりすぎて不自然になった表現を、批判して生まれた表現と読み取れます。
 この項目ができたのは2010年だそうですが、ちょっと検索したら2011年の2ちゃんまとめが引っかかりました。これなど、「乳袋」の持っているニュアンスをよく伝えている用例といえましょう。

 要するに、もともとエロゲ―の性的に強調しまくってやり過ぎた巨乳表現が発祥なのですから、「過度に性的」なのは当然です。
 「乳袋と呼ばないで」と発言したブランドとは、成立要因が全く異なるものであり、そのようなブランドの服を「乳袋と発想が近い」などというのは、営業妨害ものです。乳房のラインを強調することが目的なのですから、露出の高低を論じても意味はありません。
 このように、「過度に性的」であることが根幹の表現なのですから、公的機関のポスターとして見識を問われるのはまったく当然のことです。これを異常視するのは、「オタク」表象の中にはまりすぎ周囲が見えなくなっているとしか評せません。

 宇崎ちゃんは「人付き合いは面倒だけどさりとて孤独にもなりきれない」“現代の男性像”にとって「勝手にコミュニケーションを取りに来てくれる存在。しかも巨乳の美少女」という意味である意味で都合のいいキャラであることを否定はしません。
 ただ、『都合の良いキャラクター』『征服的』というのはオタク文化に限らず古今東西の多くの文化で見られるものであり、『オタク文化はその度が著しい』ことが示されない限りは単なる選択的非難でしかないと考えます。(たとえは悪いですが、『在日朝鮮人は環境に悪い。在日朝鮮人が呼吸した際に吐く息に含まれる二酸化炭素は温暖化ガスである!』と非難するようなものです)
 別に、都合のいいキャラクターであること自体が悪いわけではありません。ただ、そういうものだということを読者が十分認識しているかが問題です。もっともこの論点はあまり本筋ではないので、特に深入りしません。
 ただ、選択的批難といいますが、それこそ私から見ればそれは、whataboutism 的なあげつらいにしか見えません。他にも同様の問題を抱えている文化はあるでしょう、ですがそっちを先にしないで「オタク」を先にするのはけしからん、というのは、典型的な詭弁ではないでしょうか。これは本筋から外れますが、挙げておられる比喩も不適切です。私が考えるに、これにあう例は、日本でホームレス救済事業をしている人に、「アフリカの難民はもっと苦しんでいる!」と難癖をつけるようなものですね。たとえそうだとしても、目前のホームレスが苦しんでいないわけではないのです。

公共機関などとのコラボは権利か
 権利でしょう、明らかに。現在の商業作品は何らかの広告を必要としており、『公共機関とのコラボ』もまた公共機関と作品の双方に利がある広告です。もちろん公共機関の広告という趣旨に反するコラボは良くないですが、コラボ自体を頭から否定することは出来ないと思います。
 私はコラボを頭から否認などしておりません。公共機関にせよ企業にせよ、社会的責任にふさわしいかどうかは問われますが、そこで問題がなければ全然かまわないことです。(好きか嫌いかといえば、率直に言って、特段の文脈の無いむやみな「コラボ」は好きじゃないですが)
 そして前回のメールの内容を繰り返しますが、「明らかに権利」とは、私には全く考えられません。「コラボする権利」などというものがあるとは到底考えられず、せいぜいが「営業の自由」のすみっこというところでしょう。その自由は昔からあり、それこそドラえもんやドラゴンボールのキャラクターグッズなどいくらでもありました。「オタク」が大衆化して広がり、マジョリティになったことから、比較的マイナーな作品もコラボするようになっただけです。そして大衆化したのは、そういった文化に前世紀から馴染んでいた層が成長して、社会の中枢になったからです。
 それを「勝ち取った権利」と振り回すのは、自分の趣味を他人に押し付けてまわるような、品のないことではないでしょうか。そして大衆化している以上、いまさら「公的機関なども採用した」という「権威」がいるとは思われません。

 同時に、私が近年気になっているのは「公共」を振り回すことによる排除の問題です。
 「税金で建てられた公共施設なのだから、政治的に偏った団体に使わせるな」「公共の場所なのだから、ヘイト団体は排除せよ」のような『公共の場』を理由にして相手の活動を制限しようという動きが左右問わず出ていますが、本来は公共の場所であるからこそ、香山リカだろうが百田尚樹だろうが平等に講演会を“開催できる”べきであり、双方が抗議で中止に追い込もうとし合うのは違うと考えます。
 これにははっきり異論を唱えます。百田の側は明らかに、特定の民族への差別や偏見を煽動するヘイトスピーチであり、公共の空間に出して良いものではありません。糞味噌を一緒にして、それで「公平」であるかのように振舞うのは、卑怯です。
 自由とは人権の擁護のためにあるのであって、自由によって人権が抑圧されるのは本末転倒です。そこで議論による調整が必要になるわけです。裸婦像やコロンブス像は議論して置くなり片付けるなり、どっちもあるでしょう。でもヘイトスピーチは、その議論の前提自体を破壊するものです。

そんな不毛な陣取り合戦よりも、まず何より作品自体に耽溺することが、オタクだったのではないでしょうか。
 これもある程度同意するのですが、ただし『オタクはそれを越えた広告活動をしてはならない』というならばそれは『正当な理由のない、自由に対する制約』として批判します。
「それを越えた」の「それ」は何でしょうか。私は何も広告活動もコラボも否定していないのは先述の通りです。性的な表現などは、場所をわきまえましょうね、というだけのことです。コミケ会場でエロゲ―の紙袋を提げて歩き回るのはいいけど、電車の中では仕舞うべきだ、というのと同じことです。それが、電車の中でも紙袋をさげる自由があるべきだ、というのでしたら、それは自由の濫用でしょう。

 もはや大衆化した「オタク」は、かつて持っていた作品へ耽溺する力を失い、単なる消費者と化しています。
 その消費者でしかないという実態を、無理にアイデンティティにしようとするので、無理が生じます。薄弱なアイデンティティを形にするための安直な方法として、外部に「敵」を求め、その対象とされたのがフェミニズムだったわけです。
 しかし、実際のところフェミニズムは、女性差別全般に声を上げているのであって、特段「オタク」や「萌え」を敵にしているわけでもありません。それをむりやり、「ツイフェミ」などと称して、「敵」に仕立てているのではないでしょうか。
 だからこそ私は、「オタク」は、とりわけマイノリティであった時代を知っている中年以上のオタクは、コンテンツへ耽溺してみせることで、若年層の手本になるべきだと考えています。

 さて、一通り論点も出まして、相互の立場の違いも明らかになったと思いますので、近日中にこのやり取りをブログにアップしたいと思います。
 どうかよろしくお願い致します。

==========<墨公委のメールここまで>==========

 本記事への儀狄氏の返信は、

になります。

by bokukoui | 2019-12-08 17:39 | 時事漫言 | Comments(0)

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