日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(6:墨公委発信)
への、私による返信です。この往復書簡の経緯については、まとめ記事をご参照ください。
【自由】
自由とは参政権や社会権などと並んで人権の根幹をなすものです。『ある人の自由権が他者の人権の制約となっている』時に公共の福祉に基づく調整がなされることこそあれ、自由をそこまで軽視して良いとは微塵も思いません。自由の大切さについては異存ありません。
もちろん、それが他の人権と衝突する場合に調整が必要なことも仰る通りです。ただ、調整が必要な時にはちゃんとやるべきであり、自由に拘泥して調整自体に消極的になるのは問題だろうと、
そういう趣旨で私も先のメールには書いたつもりです。
敢えて言えば、儀狄さんの仰る「自由」が、何をする自由なのか、何からの自由なのかがあまり具体的に読み取れなかったので、「自由」の概念にこだわるあまり具体的な調整がないがしろにされはしないかと、そこはちょっと気になりました。なので先のメールの書き方がああなった次第です。
【ヘイト】
私は議論を破壊するものはあくまでもヘイトスピーチなどによって扇動される有形力であり、ヘイトスピーチそのものではないと考えます。この点については、ヘイトスピーチは有形力を煽動するものであり、放置していいことではないと考えます。挙げられたドイツやユーゴ、ルワンダの状況になってしまっては、もはや手遅れであり、その一歩前で対策しなければなりません。
そして、有形力によって発言を制約するというのはあくまでも最後の手段であるべきで、『明白かつ現在の脅威がある場合』にのみ制約が認められるとする米国司法の判断を私は支持するものです。そして、現在の日本の状況は、1933年頃のドイツや1985年頃のユーゴスラビアや1992年頃のルワンダほど深刻なものではなく、まだ有形力による排除を必要とする段階ではないと考えます。その『明白かつ現在の脅威』がどの程度かというのは分かりませんが、少なくとも『共産主義は内ゲバによる殺人や粛清を生み出す危険がある。歴史的に実例は多数あるではないか』という以上には明確であることを必要とすると確信します。
そして私がはなはだ現状の日本のヘイトスピーチを深刻に考えているのは、それが歴史修正主義と一体であることです。
儀狄さんも史学徒であれば、このことの深刻さ、各人の世界観の基底たるべき歴史の不誠実な取り扱いが、各人の社会性をゆがめ、社会全体に悪影響を及ぼす重大さをお分かりであると思います。
とりわけ歴史を学ぶものとしては、現在の歴史修正主義の跋扈する状況には敏感たらざるを得ません。そして私自身、編纂に関わった(足を引っ張った)関東大震災の歴史的教訓の報告書が、内閣府のサイトからこっそり削除されるという事件も起こっています。事態はすでに切迫しています。
もちろん私も、法的に罰則を以て言説を取り締まるということが、ヘイトスピーチであっても、良いことだとは思いません。濫用を防ぐためには定義を厳密にしなければならず、定義を厳密にすれば零れ落ちる問題が多くなります。何より、法頼みになってしまって、ヘイトスピーチはいけないことだ、という観念が育たなくなると本末転倒です。
そうなると、常にヘイトスピーチに鋭敏なアンテナを張り、それへ強い批判を、くじけず諦めず続けることが肝要です。
そして民族差別的言辞は今や、マスメディアでも日常会話でもしばしばみられるほどの状況です。
マイノリティは日本ではすでに抑圧されている状況にあり、事態は悪化しています。この深刻さを放置していては、結局は表現の自由を守るための社会的基盤すら破壊されかねません。
法的対策以上に、ヘイトはいけないことだ、という「常識」を再建しなければならないと私は考えます。その点からすれば、率直に申し上げて、儀狄さんの姿勢は悠長に過ぎるところがありはしないでしょうか。
本筋ではないので深入りはしませんが、詭弁術の一つに相手の論を極端化するというのもありませんでしたか。私に「文化大革命」のレッテルを貼るような言葉で反論にするというのは、率直なところ不愉快です。
少なくとも一定の知的訓練を受けた以上は、都合の良いキャラクターを消費することの意味を、頭の片隅に入れておくことぐらいは必要な姿勢ではないかと考えます。それは文化の一層の発展にこそ必要なものであって、抑圧の手段ではない筈です。
【ポスター問題はフェミの攻撃が発端であるか】
問題はそこから先で、太田啓子はこのUnseenJapan氏のツイートを引用して『環境型セクハラしているようなもの』と発言しています。(https://togetter.com/li/1417986 )儀狄さんの太田弁護士のツイートの解釈は、私からすれば、無理やりなコジツケとしか思えません。
これは彼女が弁護士であることを含めると『環境型セクハラ』という法律上の問題があるかのように誤認させる可能性があるものであり、なおかつ“ようなもの”という表現で「法律上問題があると断定はしていない」と言い逃れを狙った卑劣な行為のように私には見えました。
太田氏のツイートも、「TPOをわきまえないのはいけない」を強調して言っただけのことではないですか。それを「法律上の問題があると誤認させる可能性」などというのは、あまりに強引な解釈としか思えません。それでは弁護士は日常会話もうっかりできなくなってしまいかねません(逆に、一部の法律家に、日常的な用法による会話において法律論をねじ込み、「法学的にその言葉遣いはおかしい」と難癖をつける輩もいますが…)
まして「ようなもの」という断り書きを「卑劣な行為」というのは、太田氏に対する先入観による偏見でしょう。
これは私が先に述べたように、「太田がツイートした!『フェミ』だ!叩け!」と、叩くための口実作りではないですか。ネットではこういう場合、もっともありそうな解釈よりも、誰がもっともうまく叩く口実となるコジツケ解釈を捻りだすか、という仲間内の大喜利大会になってしまうことがままないでしょうか。今回もその大喜利で、もっとも座布団を獲得したような解釈に儀狄さんが引きずられてはいないかと思います。
そしてそこで基準を厳しく取りすぎると、実在の女性の衣装・ポーズにも過度な制約が生じてしまうことを私は危惧しています。あまり良く分かっていないことは自覚しているのですが、つまり二次元が規制されたら三次元に及ぶということでしょうか?
その点については具体的な事例が思い浮かばず、正直いまのところ懸念する必要をあまり感じません。あくまでも可能性の段階にとどまっておりますので。ヘイトスピーチは実際の問題です。
【過度に性的】【乳袋】
結局のところ墨公委さんの主張は「乳袋は過度に性的である。なぜならばエロゲに由来する表現だからだ」となると考えますが、それは結局のところ『乳袋=エロゲ由来』という文脈を知っているから出てくる発想に見えます。その文脈を知らない人にはあくまであの一枚の絵だけで判断されるものであり、そして一般的な人は興味のない絵をそこまでじっくり見ません。
『乳袋がエロゲから出てきた表現である』という点は同意する私ですが、『エロゲのおかしな制服』スレで乳袋という名称を見る(2005年頃だったと思う)まで、『君が望む永遠』の制服に違和感を持ちませんでした(当時の私がシナリオ厨だったせいもありますが)。最後になってようやく、論点が明確になったことを喜ばしく思います。
『里山』の問題は名前がついたことで話題になったなどの例があるように、『指摘され、名称がついて初めて一般に理解される』ものは多いですが、『乳袋』もその類だと考えます。そして『乳袋』という名称がオタクでない人にも広まっているとは思いません。
そうです、一瞥して過度に性的な表象を、公益団体がポスターに使ったので不適切と私は考えます。
それが「『乳袋=エロゲ由来』という文脈を知っているから出てくる発想」というのは、まったく見当違いと私は考えます。
乳袋はエロゲ―という、性的な表象を過剰に盛り込んでナンボな媒体のために開発された技法です。ですから、文脈がなくてもそもそも過剰に性的に見えるように作られているのです。名称がどうであろうと、一目見てエロい、ようにエロゲ絵師たちが(エロ漫画家かもしれませんが)考えて作った表現なのです。
ですから、この「乳袋」と称される描き方を指して、性的でないというのは、エロゲ絵師たちに対して、ひいては「萌え」表象について敬意を欠き、その力量を不当に低く評価することになりはしませんでしょうか。
一般の人そんなにあのポスターが訴求しない、というもの同様に、「萌え」技法の力を貶めていませんでしょうか。書店の店頭で、同じような美少女表象の表紙が並んだ中に紛れていては、なるほど宇崎ちゃんもさほど目立たないかもしれません。しかし、大きなポスターサイズに引き伸ばし、あまりそういう表象がないところに置けば、かなり目立ちます。しかも、性的な表象を普通控えるであろう場所であれば、違和感から悪目立ちしてしまいます。
実際そうだったからこそ、アメリカ人氏もツイッターに挙げたわけですし。
そのような淵源を持つ「乳袋」が一般向けにも(あまり背景を考慮せずに)スピンオフされるようになったのが現状ですから、「乳袋といってもエロとは限らないじゃん」という見方こそ、性的表象が多い「萌え」文化にどっぷり浸かった見方です。
私は高3の夏休みに、9801で十数枚のフロッピーを出し入れしながら『同級生2』を攻略して以来、まともにエロゲ―をやったことがない門外漢ではありますが(『Railway ここにある夢』は鉄道趣味者としてやっておこうと挑戦しましたが、かったるくなってしまって一人も攻略せずに放置しているのが現状です)、制服についてはその歴史的背景などを多少かじっているので、エロゲ制服は実物と違った文法があることは見ればわかります(同様のことは、メイド服についてはかなり勉強して、実物と別個なフレンチメイド文法を知りました)。その文法自体は一向悪いものではありません、独自の文化として愛でればいいのです。フレンチメイドのように。
ただそれは、過剰に性的な含意がある場合が多いので、一般向けに使うには配慮がいるというだけのことです。
ですので改めてまとめますと、もともと過剰に性的な表現として作られた技法を援用した表現をポスターにしたので、当然過剰に性的で公的な機関にふさわしくないという苦情が来た、それは理の当然である、ということです。
なお「煽り文句」が献血の理念に反するという、これも重大な論点がありますが、これはhttps://hbol.jp/205097に譲ります。これも内輪ネタの煽り文句を公的な場に使い、一般の人を困惑させるというところは似ているかもしれません。
思いのほか長くなってしまいました。どうもお騒がせしてすみません。
しかし、最後のところでまずは論点が明確になって、一通り話も済みましたので、ここまで6通分をアップしたいと思います。明日にはできればいいのですが…。
どうもありがとうございました。
になります。