日赤ポスター問題をめぐる往復書簡(8:墨公委発信)
【自由】
私がポスター論に限らずフェミニズムの反萌え絵論でいちばん分からないのはそこなのですよ。具体的に指摘されていない、などということはありません。
「宇崎ちゃんや、先行する形で批判されたキズナアイ、鉄道むすめその他も表現の自由はある」
「もちろん、以上に述べたような表現の自由も、“他の人権・利益と対立した場合には”公共の福祉に基づく調整がされることは当然ありえる」
「ただ、以上のような萌え絵が、具体的に何の権利・利益を侵害しているのかが全く分からない。フェミニストから(ツイッターの有象無象だけでなく、小宮友根先生や千田有紀先生や牟田和恵先生からも)具体的に指摘されたためしがない」
だから調整しようにもそもそも何と調整すれば良いのかが分からないのです。
最近の小宮先生の記事(https://websekai.iwanami.co.jp/posts/2828, https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864)であるとか、牟田先生の記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185)に明示されています。
これらの記事の内容を私なりにまとめれば、女性を性的な客体と見なす社会的な構造が、女性を抑圧しており、そういった構造を助長するような表現が氾濫しているのが、社会の現状です。そういった表現全てを根絶することは現実的でないにしても、公的機関が公衆に向かって行う広告などでは、より深い配慮が求められる、ということです。
端的にいえば、このような構造を直視しないことこそ、現に女性の地位を抑圧しているといえます(この構造を直視しない、というところは、北守氏が指摘している「否認」と通じそうです)。
前回も申し上げたように、私は『都合の良いキャラクターを消費する』は人間を描いたコンテンツを作る人および楽しむ人全てに当てはまることであると考えます。『萌え絵は都合の良いキャラクターを消費しているから良くない』『萌え絵は女体を表層消費しているから良くない』といった批難は、私の知る限りではありますが、今回の日赤ポスター問題で特に表面化した印象はありません。広いネットには「逸材」もおりますので、どこかにそういう人がいるのかもしれませんが、ネット上でもどれだけの影響力を発揮しているのでしょうか。
無論、「頭の片隅に入れておけ」というだけならばある程度同意します。(完全には同意できないのですが、その点は明らかに本題から外れるので置いておきます)
が、萌え絵を批判する人の中には明らかに『萌え絵は都合の良いキャラクターを消費しているから良くない』『萌え絵は女体を表層消費しているから良くない』と萌え絵だけをスナイパーライフルで攻撃しているつもりなのに実際には核砲弾や地球破壊爆弾を持ち出しているような人が数多くいて、そのような批判を言葉通りに受け取ったら、人間を描いたコンテンツがおおよそ破壊されることになり、それは誇張抜きに文化大革命に他ならないと考えます。
私はこれらの問題は、頭の片隅に留意しておくべきこととは考えますが、別にそれを万能の武器として振り回すつもりはないと、すでに述べてきたつもりです(本筋ではない、ということ)。それを、私のあずかり知らない極例を持ち出されて、私への論難の根拠にされるのは、率直なところ、困惑せざるを得ませんし、迷惑です。
墨公委さんの言い分は理解はしました。同意はしません。はっきり申し上げますが、私は儀狄さんによる太田弁護士の言説の解釈は、「国語のテストで×がつく」レベルで間違っていると考えます。それはすでに述べましたように、悪意によって捻じ曲げられた解釈です。
つまるところ、『太田啓子という』『弁護士が言った』という文脈をどう評価するかが相違ですのでこれ以上は平行線にしかなりませんね。
歴史学の例でいえば、史料の読解として到底受け入れられないとされるものである、と申し上げます。
【乳袋】
過去のことを持ち出すようですが。
かつてくま川鉄道と『まいてつ』がコラボした際に墨公委さんは『エロゲしか出ていないから問題。“全年齢も出ている”という、言い訳程度は必要だ』的なことを仰っていたと記憶しています。(以前書いたようにtwitterがロックされていて正確なログが追えませんが)
それでも全年齢が出ていればコラボして構わないと墨公委さんがおっしゃる(なお、鉄道会社は純粋に私企業ではなく、ある程度は公共性を帯びる存在でしょう)程度には、エロゲそのものや由来するシーンであっても、全てが『過剰に性的』ではないと考えます。この点については、ネットの「議論」でよくある、もともと別なものをごっちゃにして、それで「ダブルスタンダードだ!」と難癖をつけるという、悪しき詭弁術に儀狄さんも取りつかれているような感を受け、悲しくなりました。
宇崎ちゃん問題での墨公委さんの主張をくま川鉄道コラボ問題に適用するならば『エロゲ由来であったらその時点で過度に性的。たとえ全年齢版が出ていても不可』でなければ辻褄が合わないと考えます。(同時にFateのアルトリアさんであっても不可となると考えます)
まず、私の過去のツイートはすべてtwilog上に保存しており、ツイッターが使えなくても検索することができます。また、くま川鉄道と『まいてつ』の件についてはブログでまとめており、そちらから当時の論点を辿ることもできます。
それらを一瞥していただければ明らかなように、『まいてつ』騒動の際には、キャラクターの表象自体は何ら問題とされていません。釈迦に説法ではありますが、エロゲ―には情け無用の抜きゲーもあれば、全年齢版移植が簡単な萌えゲーや泣きゲーもあります。『まいてつ』は明らかに「萌え」路線のゲームで、キャラクターの表象はそれほど露骨に「性的」であることを打ち出してはいませんでした。エロゲーの表象といえど、常に過剰に性的なものばかりでないのは仰る通りです。
『まいてつ』で問題になったのは、それが18禁ゲームのキャラクターであるということで、いわばキャラクターの「文脈」が問題になったのです。表象が問題になった日赤ポスターの件とは、問題点がまるで異なります。この両者を、同じ問題であるかのように取り扱うのは、詐術といっても過言ではありません。
そして私の問題意識は実はここです。率直に申し上げて、ここまで7通ものメールのやり取りを経て、いきなり「問題意識はここです」といわれますと、これまで積み重ねてきた議論は何だったのかと、いささか索漠たる思いに駆られます。
ご提示の論点は、最初の方のメールで少し触れられていたかと思いますが、その際にはそれほど重要な論点ではないように扱われておりました。それが急に「問題意識」とされますと、正直困惑します。
私も『抗議』そのものは否定しません。(もちろん、あいちトリエンナーレであったような『ガソリンを持って行く』のような暴力を示すようなものは別です。それは脅迫罪や威力業務妨害罪で取り締まれば良いと考えます)。
たとえ『私が不快に思ったから』であっても抗議すること自体は構わないと考えます。
ですが、今の日本はその『抗議が無いように』と過剰に配慮していると考えます。その最たる例が『従業員が勤務中に水を飲んでいるのは不快』という抗議に“配慮”して従業員を苦しめているケースです。
ですが、過剰に数字で評価してしまうことの影響で公立図書館は利用者数で評価されてしまい、『抗議が何件来たか』も評価の対象になってしまうから過度に抗議を避けようとして、クレーマーなどに弱くなっている。それが問題の本質であると考えています。今までの往復書簡は、ポスターについて「過剰に性的」かどうか、それを公的機関が扱うのは適切か、といった論点が中心だと思っておりましたので、ここで急にクレーマーへの弱腰が「問題の本質」となって、戸惑わざるを得ません。
それは一応措くとして、過剰なクレーマー対策が人を委縮させるというのはもちろん懸念されることですし、その弊害も感じられています。ただ一方で、だから「突っぱねるべき」と単純に括るのにも抵抗を感じます。比較的突っぱねられる抗議と、受け入れられる抗議との違いはやはりあるのは、あいちトリエンナーレの件からも明らかではないでしょうか。より「多数派」と見られる方が、概して受け入れられやすいのです。そこで「突っぱねる」という姿勢を強化すると、まず切り捨てられるのが少数派の異議申し立てとなり、そもそも少数派の抗議自体が抑圧される恐れがあります。
このあたりは、結局ケースバイケースで抗議が適当か、類例や論理を引き比べつつ個別に検討するしかありません。
役所などの組織の場合は、そこで大事になるのは、意思決定の過程がどのようなものであったかを明らかにすることで、その受け入れるなり突っぱねるなり、あるいはそもそも、ある表現をすること自体の、意義を闡明にすることが、検討のための重要な手掛かりになります。すなわち、公文書の保存と情報公開が大事といえますが(これは史学徒である儀狄さんにも容易にご理解いただけると思いますが)、まあ今の世の中は真逆ですね。
長文でおさわがせしました。それでは。
問題はその先です。表現は本当に『そういった構造を助長』しているのでしょうか。また、そういった構造を無くすことは、表現が配慮することでしか達成できず、女性の扱いについての教育の充実、フェミニズムそのものの宣伝・社会への浸透などによっては達成できないのでしょうか。そこは学者が頭の中で考えた『このような論理で助長すると考えられる』だけでなく、『実際に助長しているか、またどの程度助長しているか』をきちんと社会調査などによって明確に示す必要があると考えます。
それが出来ていないのであれば結局は「もちろん共産主義も言論の自由であるが、人命ほど優先されるわけではない。共産主義が内ゲバや粛清を生み出す構造があることが歴史上の実例をもって示されている以上、共産主義だけは規制することはやむを得ない」「イスラームは(中略)テロの温床だから規制せよ」と主張することと変わらないと考えます。
コメントありがとうございます。重複した分は削除しておきました。
ところで、「キモいオタクの血は要らない」というツイートは私は存じませんので何とも申し上げかねます。ただ、「新鮮な血液を毎度提供してくれる人達が今はオタクにしかいない」という、ねじくれた選民意識をさらけ出していた夜郎自大な「オタク」がいたことは確認しております。
https://twitter.com/kkdai_ver/status/1191338925438070784
また、巨乳整形については、件の岩渕氏のこのツイートを発掘できました。
https://twitter.com/tawarayasotatsu/status/1188416819947638786
これを読む限り、「巨乳による男性からの性的客体化に苦しんだ女性が乳房縮小の手術をした」というだけの話で、別に「巨乳は奇形だから縮小すべき」という話ではありません。
しかし、このツイートを探すために適当な言葉を入れて検索しているだけでも、「まとめサイト」などの煽り立てたまとめが大量に引っかかります。岩渕氏の片言隻句をわざと意味を捻じ曲げてつなぎ合わせ、ことを炎上させているのではないかと私は疑います。
本記事で私も書いていますが、太田弁護士のツイートに対する儀狄さんの、あるいは「表現の自由戦士」の解釈は難癖付けといわざるを得ません。国語の問題としてあり得ない解釈をして、「フェミ叩き」の材料にしています。そしていったん火をつけたら、あとは元の言葉を差し置いて炎上です。
コメント主の方が挙げられた例も、その類例ではないかと私は考えるものです。