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筆不精者の雑彙

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自粛はいつから要請されるようになったのか

 新型コロナウイルスで世の中騒がしく、小中高校の休校だの各種イベントの中止だの、いろいろと影響が広がっています。果たして小中高の全国的な休校までする必要があるのか、かなり疑問ではありますが、そういった「対策」の一環として、例えば大規模イベントのほか、ビュッフェ形式の食事であるとか、スポーツジムの影響であるとか、さまざまなものが「自粛要請」されています。
 これは考えてみれば不思議な言葉で、「自粛」という言葉を辞書で引いてみると、

「自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」

 という定義が示されます。「自分から進んで」というのがポイントで、だから「自」粛なのですね。
 ところが、「要請」というのをこれまた辞書で引くと、


 となります。
 「自分でから進んでやる」ように、他者が「強く願い求める」というと、自主的なんだか命令なんだか、はなはだあいまいになってきます。別に「なるべく控えるように要請」とか、「遠慮してほしいと要請」とか、もっと論理的な筋が通って、かつ同じ意味の言葉はありそうなのに。この言葉は、「自粛」という言葉で相手を立てているようにも見えて、実際のところは相手の自主性を勝手に「当然そうするよね」と決めつけているような、危うさもはらんでいるように感じられるのです。

 というところでふと思ったのですが、この「自粛要請」という言葉、いつから使われるようになったのでしょう?
 こういう時に便利なのが、神戸大学の新聞記事文庫で、戦前の新聞記事の膨大なスクラップを全文デジタル化した上、誰でもネットで利用可能という太っ腹なものです。私も研究で常々お世話になっており、ある時親戚の神戸大学卒業生に会ったので「神戸には足を向けて寝られない」とこのことを言ったら、「え、そんなのあるんですか」といわれました(苦笑)。
 てなわけで早速、「自粛要請」で検索……あれ、一件もない! 「自粛を要請」ではどうか……やはりありません。これはどうも、戦前には使われていなかった言葉のようです。戦前は「自粛要請」などと回りくどいことをいわず、強権的に命令して済ませていた……というわけでもないでしょうが。

 そこで私は大学へ赴き、図書館の契約している新聞記事データベースを調べてみました。まず朝日新聞を見てみると、1953年10月11日付朝刊の「小麦粉価格抑制へ 農林省、業界に自粛要請」という記事の見出しが一番古いもののようです。
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 敗戦からようやく独立を回復した頃の記事ですが、食糧難はまだ解決されたとは言えない時代を反映した記事ですね。これは業界の自主規制をうながす、という文脈で、こういった「行政指導」自体は昔からあったものですが、戦後になって「自粛要請」という四字熟語になったもののようです。
 もう一つ、読売新聞の例を見てみましょう。こちらでも、見つけられた中で最古の「自粛要請」は、やはり独立回復してそれほど経っていない、1954年4月4日付朝刊の「預金特利に自粛要請 大蔵省」という記事でした。
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 これは、銀行が高い金利を特定の大企業などにつけていたのを自粛させるもので、護送船団方式の走りと位置付けられましょうか。
 朝日新聞のデータベースで「自粛要請」を検索した、年代順の古い結果はこんな感じです。
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 用例を見ると、経済的な問題で業界に「自粛を要請する」とか、国際問題で間接的に要望するとか、そういった場合が主なようです。これがいつ、現在のように国民一般へも使われるようになったか、それも一つの論点になりそうです。

 ところで、朝日新聞のデータベースはきっち検索ワードだけを選りだすようですが、読売のデータベースは関連するものも含むようです(悪く言えばノイズも多い)。なので、「自粛要請」で検索しても、そのワードが入っていない記事が出てくることもあるのですが、そこで見ると要請ではなく「自粛を要望」という例が散見されます。はて、自粛要請は戦後の表現でも、「自粛要望」だったらもっと古いのがあるのか? と読売新聞のデータベースで検索したところ(朝日のデータベースはけしからんことに、私が使っている図書館では戦前分の契約をしていないのです)、いちばん古い例は1938年6月18日付朝刊であることが判明しました。
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 記事の見出しが「けふ早大新聞号外で学生の自粛要望 大隈会館開放を求む」です。これは右側の写真付き記事と一体で読まないと意味が分からないもので、日中戦争が泥沼化しつつあった1938年、当時の警視総監・安倍源基(写真の人物)が、「学生どもは『時局認識』が足らん」として、繁華街などでうろついている学生をしょっぴきまくった「不良狩り」をやっていたのが背景にあります。その標的にされた早稲田大学の学生が、警察はやりすぎだと反発して集会を開き、大学当局の対応を求めると同時に、学生自身も行動を慎むように、として「自粛を要望」したということのようです。なるほど、これならば「自粛を要望」も意味が通ります。学生たちが、自分たちの行動について慎もうと申し合わせたのですから。
 それにしても、安倍源基といえば昭和初期には「赤狩り」で名を馳せた人物です。赤を狩りつくしてしまったので、戦時下を口実に学生を取り締まってみたのでしょうか。それに対し、早稲田の学生が団結して対抗しているのは、今日の状況を思うと、その精神に頭の下がる思いです。もっともこれは、それだけ当時の大学生が少数のエリートであり、特権意識も強かったということの反面でもあります。大多数の民衆には、大学は縁遠いものでした。だからこそ安倍は、「学生狩り」をやることがむしろ多数の支持を得られる、と踏んだのかもしれません。

 とまあ、世間が騒ぎになっている時こそ、ふと当たり前のように使っている言葉を見つめなおしてみるのも、多少の意義があるのではないかと思います。焦ってトイレットペーパーを買いに走ったりしないで済む、くらいの効用はありそうです。

Commented by 森 洋介 at 2020-03-26 10:40 x
「これは業界の自主規制をうながす、という文脈で、こういった「行政指導」自体は昔からあったものですが、」について。 
 さういふ場合を表はす昔からあった言葉が何らかの理由で使はなくなった(使へなくなった)ので、そのニッチを埋めるやうにして、「自肅要請」といふ形容矛盾の撞着語法が捻り出されたのではないかと愚考します。 
 昭和戰前までよく使はれてゐたのは「懇談」でした。奥平康弘「戦前における検閲制度小史」(『表現の自由I――理論と歴史――』第2編第1章、有斐閣、一九八三年←初出「検閲制度」『講座日本近代法発達史11』勁草書房、一九六七年)の、「3 法体制崩壊期における出版警察」(一九三二年以降を扱ふ)中「三 内務大臣の記事差止命令制度」p.172以下に「懇談」が出てきます。要するに、行政指導は強制力の強い順に「示達」「警告」「懇談」の三段階に分れてゐた、と。更にこの三節最後の註(23)=p.179に曰く、「「懇談」というのは、出版警察のみならず、当時内務官僚が権限外行為を行う場合一般に使った半強制=脅迫的命令をオイフェミスティシュ[euphemistisch=婉曲語法的]に呼ぶ言葉であったのである。」との注意があります。「懇談」は官僚ジャーゴンだったので普通の語意で解釋すると誤るといふわけ。で、日中戰爭に入った一九三七年以降は擴大された「懇談會」乃至「懇話會」が、當局と各種業界團體との間で盛んに行はれます(出版懇話會については、ちゃうど最新『群像』四月號掲載の大澤聡「国家と批評 第三回 吠えない犬」が取り上げる)。體育會系で謂はゆる「説教」みたいな、實力行使をチラつかせながら「お話しませうか」と迫るみたいな……。
 命令したり指導したりする癖にそれに從ったら自主行爲だからと言ひ抜けて責任取らうとしないやり口は、變形にも拘らず保たれてゐる「構造」なのかもしれません。
Commented by bokukoui at 2020-04-02 13:38
コメントありがとうございます。返信が遅くなり大変失礼致しました。

懇切なご教示感謝申し上げます。
確かに言われてみれば、戦前の史料で「懇談」は時々目にします。
そういえば、委員会の議事録とかで、途中「これ以降懇談」と注記して、議事録が中断している場合があったように思います。これなどまさに、権限外のことをやらせるために、公的な議事録に載せなかったということなのでしょう。

ご指摘の通り、命令や指導はしても表に立って責任を取りたがらないのは過去と現在で通底していそうです。そうなると今度は、このやり方がいつどのように始まったかを、究めていかないといけません。それはまさに現在の問題に立ち向かうことに他なりません。
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by bokukoui | 2020-03-04 18:47 | 時事漫言 | Comments(2)