新型コロナウイルス禍で世界的に騒ぎになっていますが、そのどさくさに紛れて、というと聞こえが悪いですけれど、このように人びとの心が移ろいやすい時こそ、今起こっていることをじっくり考えなおすことの意味も小さくないと私は思います。
というわけで、先月のひところネット上で話題になったけど、すでに流されてしまいつつありそうな話題について、備忘を兼ねて。
先月、香川県で、子どものゲームやネット依存を防ぐことを眼目とした条例が制定され、本日4月1日より施行されることになりました。肝心の条例の成文が、香川県のサイトを検索しても見つからないのですが、
香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)(素案)というのが見つかったのでリンクしておきます。これが県議会で議論したのちの案らしいので、成文とほぼ同一とみてよいでしょう。
先に私の考えを書いておくと、この条例はろくでもないもので、まず何よりも家庭の中へ行政が介入することを認めるのは危ういといえます。とりわけ、現政権と近い「伝統的家族」という妄念に取りつかれた保守系の運動が、家父長制的な家族像を日本人に押し付けようとしており、しかも政権党がそれに乗っかっている昨今では(この点については、「憲法第24条 自民党改憲案」で各自検索してください)。
これは家族をむやみと称揚すると同時に、社会福祉を「家族の問題」として切り捨てるという面を持っています。この条例でも、第6条で「保護者の責務」を定めており、家族に社会問題の解決を押し付けようとする意図がうかがえます。この点は前掲の朝日新聞の記事で、本田由紀先生も述べられている通りです。
このような家族に関する論点の他にも、そもそもゲームやネットに依存するのは子供だけなのか、という疑問もあります。これは前掲記事で民間団体の方も指摘されているように、親がそもそもスマホにかじりついているので、子供も自然とそうなった、ということもあるのではないでしょうか。ソシャゲにはまって「廃課金」などという事態に陥るのは、金のある大人です。ゲームは子供のもの、というのは前世紀でも時代遅れな考えでしょう。
しばしば、問題家庭に育った子供が自分でも問題のある家庭を作ってしまうような連鎖があるといいますが、ゲームやネットへの依存がその例外であるとは思われません。ゲームやネットへの依存の対策をするのであれば、家庭全体を支える体制を考えるとか、孤立しがちな単身成年者につながりを作るようにするとか、そういったことも不可欠でしょう。
さらに、この条例は、制定の過程で当の子供の意見を全く聞かないで進められたようです。小学校低学年とかならともかく、高校生ならそれなりの意見も持ち、スマホとの付き合い方も心得ているでしょう。これは子供の権利条約でいう、「参加する権利」「子供の意見の尊重」を無視してこの条例が作られたということになります。
それどころか、大人の意見すらろくに聞いておらず、条例案へのパブリックコメントが組織票で埋められているという疑惑も指摘されています。
さらに、第18条の「ゲームは一日60分」なんて数値目標に意味があるのか、とは分かりやすいのでネットで大いに批判を浴びましたが、これが末節の問題といえるほど、この条例は、目的も手段も制定過程も問題だらけです。
そんなわけで、私はこの条例に反対する数多の方々と立場を同じくする……はずなのですが、どうもネットを見ていると、この条例に反対する人々の方にも、かなりの違和感を覚える事例が多々見受けられるのです。
もちろん、ゲームが好きな人からすれば、この条例は頭にくるものですから、ついつい言葉が荒くなってしまうのは分かります。時間制限という分かりやすいところに飛びついてしまうのもある程度致し方ないでしょう。ところが中には、ゲームやネットへの依存ということ自体を否定する、という人も少なくありません。
そういった人々は、この条例の検討時に参考人として呼ばれた医師の所属する、依存症研究の日本における第一人者ともいうべき、
久里浜医療センターを、「ゲーム依存症などというものを作り出して、自分たちが儲けようとし、ゲームを滅ぼそうとしている!」などと、名指しで攻撃するのです。何なら、ツイッターを「久里浜医療センター」で検索してみてください。
具体例を一つ上げておきましょう。
このツイートで画像引用されている人物は、今度アニメ化されるという『異世界居酒屋「のぶ」』なるラノベの作者だそうです。それだけ「オタク」的コンテンツに影響のある人が、こんなひどい放言をするのには、さすがに呆れるよりほかにありません(この後削除したそうですが)。しかし、これに代表されるような、久里浜医療センターへ頓珍漢な攻撃の矢を向けている人は、決して少なくないのが現状です。そこがかえって、私には、香川県の条例は問題あるにしても、ゲームやネットへの依存症対策が必要であることを思わせるのです。
ここで攻撃されている久里浜医療センターとは、もともとアルコール依存症の医療機関として有名です。で、私はゲーム依存症については門外漢ですが、アルコール依存症に関する本はそこそこ読んでいる上に、
一時は他人からアル中を疑われた人間なので、多少の知識を持っています。
そこで知ったことでは、アルコール依存症は「否認の病」と呼ばれ、まず当事者が、自分がアルコール依存症であるということをなかなか受け入れない、認めさせることが治療の第一歩だけれど、それがとても難しいといいます。素人考えですが、香川県の条例に反発するあまり、ゲーム依存症自体を否定し、医療機関を攻撃するような人は、まさにその「否認の病」に取りつかれているのではないか、と私には思われます。
ゲーム依存症対策を講じることは、ゲームを滅ぼすことではなく、むしろ持続可能な発展に資するもののはずです(香川県の条例発案者がそこまで考えてるとは私も思いませんが)。そこで医療関係者を敵視するというのは、方向がずれていませんでしょうか。久里浜医療センターの関係者が、自分たちの利益を図っているのだ、患者を増やして儲けようとしているのだ、という陰謀論者もまま見かけましたが、これも頓珍漢です。だいたいこういった有名医療機関は、患者が多すぎて何か月も診てもらうまで待たねばならない、という常識もないのでしょうか。
さらにいえば、頓珍漢な攻撃でなくても、皮肉で批判しているつもりなのか、香川県の条例を大喜利のネタのように使って盛り上がっている様子も見えました。中には香川県自体や県民をバカにして喜んでいるような徒輩も目に付く有様です。こういうのはネットの通弊で、いわば身内での盛り上がりばかりに心奪われて、何が問題の中核であるのかを見失ってしまうわけです。
これらはむしろ、ゲームやネットの「敵」の本丸というべき、保守系政治運動への批判という正面の道を妨げるものです。真っ正面からの批判から逃げて、仲間内の大喜利に興じ、筋違いの医療関係者を叩き、むしろ被害者というべき香川県民をバカにして、それで一時の快を貪るのは、卑怯にもほどがあります。本当にゲームやネットを社会の中でどう生かしていくか(そのためには依存症対策も当然入ってくる)という視点を欠き、ただ目の前の「お仲間」とウェイウェイ盛り上がればよい、という刹那的な人々ばかりでは、ゲーム文化の将来も危ういというものです。しかし現今の「オタク」と称する人々のネット世論は、そういった広い視野を欠いているように思われてなりません。
勘ぐれば、もはや大衆化し一般化しきった「オタク」の価値観は、保守系政治運動と近い立場にまで保守化・退嬰化しているのではないか、私はそのようにも考えています。
ところで、アニメ化ラノベ作家などから潰せといわれた久里浜医療センターの名前を私が知ったのは、
「久里浜式アルコール依存症スクリーニングテスト」を通じてであったと思います(今は改訂版のテストがあるそうです)。で、このテストを世に知らしめた一つは、中島らもの小説
『今夜、すべてのバーで』ではないかと思うのです(私がテストを知ったのはこの小説を読む前からでしたが、何で知ったかは思い出せません)。この小説は、自身がアルコール(その他睡眠薬とか咳止めシロップとか)の依存症だった中島らもが、連続飲酒で肝臓を痛めて入院した経験をもとに書かれたものです。
『今夜、すべてのバーで』は、30年前の1990年に発表されました。この中で、中島は、自身を投影した主人公の口を借りて、日本もこれからアルコールとドラッグの洗礼を受けるだろうと書いています。なぜかというと、日本も発展して社会保障が行き届き、コンピュータによる合理化で労働時間が短縮され、定年後も長生きするようになると、「膨大な『空白の時間』」を生むことになる、これを埋めるために人はアルコールやドラッグに走るというのです。
「空白の時間」を前に、中島らもの書いた言葉は、金言です。
「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間を潰せる技術」のことである。
さてそれから30年、らも先生も亡くなって十年以上経ちましたが、どうもアルコールやドラッグについて、マッキーやマーシーはともかく、その予言は外れてくれたようです。それは日本が貧しくなってみんな矢鱈働かされているという悲しい事情も大きそうですが、明らかに別の依存対象が生まれたのです。
空白の時間を前にして、いかなる「教養(=一人で暇をつぶせる技術)」のない者でも、暇を潰すのに造作ないもの――スマホとソシャゲとSNSの登場です。日本人は(他の国もある程度そうでしょうが)、アルコールやドラッグの依存にはならずに済んだようですが、デジタル端末に深く依存しているのです。
ここで、アメリカでみんなフェイスブックの更新に夢中になったあまり麻薬中毒が減った、というデータでもあると面白いのですが、残念ながらそんな話は聞いたことがありません。デジタル端末は既存のドラッグ・アルコールから市場を奪う程ではないにしても、新市場開拓はできたというところでしょうか。空白の時間を手軽に埋めてくれ、現実生活から意識を飛ばしてくれるもの――として、アルコールやドラッグと、デジタル端末は、等価な地位にあると考えられます。ならば久里浜医療センターが乗り出してくるのも理の当然といえましょう。
「歩きスマホ」が危ないと問題になっていますが、人はなぜそこまでしてスマホに没頭するのか、一つには生活の中に「空白」があることが無駄のように思われ、それを「有効活用」したいという思いがあるのでしょう。そのような「空白」が意識され、無駄と思われるようになったのは、すぐれて近代的な現象といえそうです。「時は金なり」とはフランクリンが18世紀半ばに広めた言葉といいますが、まさに近代とともに広まった概念といえるでしょう。
しかしその概念が浸透しきった結果、人びとは空白を恐れるようになってしまい、何でもいいから空白を埋めていれば安心、ということになっていったのではないでしょうか。家庭での沈黙を恐れて、20世紀にはラジオやテレビが爆発的に普及しました。それが個人携帯のデジタル端末によって、個人の生活のささいな空白にまで、押し入るようになったわけです。こうして「時間の有効活用」という本来の発想から、空白を恐れてとにかく何かで埋め尽くさなければならない、という強迫観念に駆られて埋めることが目的化し、かえってガラクタに埋まったゴミ屋敷状態になっているのが、スマホへの依存ということなのでしょう。
ここで話を強引に最初に戻すと、だからデジタル端末との付き合い方は難しく、規制を言う人が出るのも道理です。しかし、ドラッグへ罰を以て臨んでもマーシーがシャブをやめられなかったように、香川県条例方式がおそらくは何の成果も生まないことも間違いないでしょう。
そこでデジタル端末、例えばソシャゲについて歯止めになるものは何か、らも先生が酒について書いたことから考えると、「文化」というのが浮かんできます。酒を取り巻く、酒を飲む作法や風習といった文化的要素のことです。
本職の精神科医で、アルコール依存症を専門とし、前述の久里浜医療センターにも勤めていたという、なだいなだ先生がこんなことを書いていました。徳利でお燗してお猪口で酒を飲み、ご飯が出たら猪口を伏せる、という飲み方でアル中になることは少ない。依存症になる人はコップで冷酒を呷り、また日本では文化の薄い外国の酒を勝手にガブのみするのだ、というのです。
そこでソシャゲの話に戻ってくると、この新たなコンテンツをどう消費するかという「文化」が育ってくれば、ごく一部の人以外は、だいたい程よい付き合い方に落ち着くはずです。その際にこそ、先鋭的な消費者であったはずの「オタク」が、大いに貢献できるはず、なのですが……。
でもなあ、もはや文化的な先鋭さを失い、大衆の一類型と化した現今の「オタク」業界からは、そんな「文化」は生まれてこないかなあ。むしろ課金自慢とかする、粋とはどう考えても対極な連中もネットでゴマンと見かけるし。
とりあえず、「ゲームは一日60分」と子供に押し付ける前に、大人たちが「課金した額を自慢しない」「爆死しても見せびらかさない」というところから始めた方がいいんじゃないかなあ。無駄だからじゃなくて、無粋だからです。粋なところからしか、新しい文化は生まれません。
※本記事は、2020年3月15日および30日のツイートをもとに、加筆・編集したものです。