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筆不精者の雑彙

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安倍内閣退陣に際し改めて考えなければならないこと


 なんとか8月中には一度更新しておきたいと思って、一つ記事の準備をしていたのですが、それが吹っ飛ぶようなニュースが入ってきました。
 「金曜日に首相が会見」というニュースがしつこく流れるのを週明けから聞いて、もしかして辞めるのか? いや期待してダメだったら凹むし……と私の心は揺れていたのですが、買い物に出かけてリアルタイムでテレビもネットも見られない状況だった28日の17時過ぎ、どうにも気になって落ち着かず、ガラケーで無理してネットを見たのですが……

 まず最初に断っておけば、私は安倍晋三という政治家を全く評価しません、というか最低の政治家だと思っています。それは、まず何より彼が歴史修正主義に極めて近く、また日本で歴史修正主義を振りかざす人びとが彼を担ぐに熱心であるからです。歴史的な世界の成り立ちを尊重する立場の者として、これは全く容認できません。
 これと通じることですが、安倍政権は公文書を隠匿し、改竄し、破棄してきました。過去の歴史に向き合わないどころか、自分の現状を記録することにも不誠実であり、未来への責任(一文字にあらず)を持つという観念がまるでありません。ただ今の自分さえよければいい、という極めて無責任で幼稚な政権であり、これもまた私が安倍政権を批判する大きな要因です。
 そして安倍晋三とその政権のおそらく最大の問題は、今の自分(たち)さえよければそれでよく、その自分たちの間でしか通じない、身内の言葉で何でも押し切ったということにあるのではないか、私はそのように感じます。記録に残し、あとの時代の(時には別の地域の)人になしたことを伝えようという、いわば普遍の精神をまったく欠いていたのです(歴史修正主義というのも、史料の言葉を自分勝手に、身内でしか通じない読み取りをして歪曲する、という点で同類といえます)。より広く、普遍性のある観念で説明するのではなく、自分たちにとって都合がいいからいいんだ、と押し切ったのです。いいかえれば、他者への想像力を欠き、しかもそれを開き直ったのです。




 ここからして、安倍晋三が平和や人権問題、多様性の尊重といった、現今の世界において普遍的に重要とされる課題(それは現在の日本国憲法の柱にも通じるのですが)におよそ関心が薄く、視野の狭い人物であることは明らかでしょう。ごく最近の問題をいくつか取り上げて考えてみても、やまゆり園の惨事であるとか、香港の民主化問題であるとかいったことに、かの政権はろくな政見をアピールすることをしませんでした。はっきりいって、歴史修正主義的な、あるいはエスノセントリズムな「日本スゴイ」の他に、安倍晋三に世界観のようなものがあるともうかがえません。
 要は彼には政治家としての経綸や抱負といったものが碌になく、といって能吏としてある分野の政策に通じているというわけでもなく、ただ権力の座に居座ること自体が自己目的化していたといえます。そのためにメディアに圧力をかけ、あるいは御用言論人に飯を奢り、広告代理店的手法を最大限活用して、まるで何かを「やっている」かのように見せかけ続けたのでした。しかし何かが「達成された」ことはほとんどなかったといっていいでしょう。「アベノミクス」は官製相場で見せかけの株価を上げただけですし、北方領土の返還は絶望となりました。それどころか、彼がたびたび言及した憲法改正ですら、目立った進展を見せませんでした。

 私は、日本国憲法の民主主義・平和主義・人権尊重の三本柱は普遍的な価値があり、この価値を一層強化するような方向の憲法改正であれば結構なことであると考えます。しかし、2012年の自民党の改憲案なるものは、この三本柱を骨抜きにしてしまうような碌でもないものです。本来は権力を縛るはずの憲法を、国民を統制する手段にすり替えるような、言語道断の案といっていいでしょう。そして2012年に安倍晋三が首相となり、衆議院の三分の二以上を与党で固めるに至って、きわめて危機感を抱きました。その後も安保法制や共謀罪など、三本柱を骨抜きにするような政策を進めていたのですが……
 しかしどうも、途中から私は妙な気がしてきました。安倍晋三、意外と憲法改正の具体化に踏み込まないのです。それどころか、どの条項をどう変えるのかの話もコロコロ変わって、要するに「憲法を変えた首相」になるということだけが目的で、肝心の何をしたいかというのは当人もテキトーなんじゃないかと疑うに至りました。つまり私は、安倍晋三を買いかぶっていたのです。保守政治家として憲法改正に邁進する、などというパワーは実はなく、審議会開いて国会で議論して国民投票して、などという面倒な政治過程を一つ一つ乗り越えていく粘り強さもなかったのでした。
 いよいよ安倍政権の本質が見えたのは、今年のコロナ禍でした。3月までは東京オリンピックの開催をにらんで、大ごとにしないで収めようと強い措置を取らなかったように見えた政権でしたが、3月下旬に延期が決まれば、すぐさま非常事態宣言などの措置が取られるものと私は思いました。ところが実際に宣言が出るまでは、確か二週間ほどもタイムラグがありました。これはどうしたことだろう。

 つまり、憲法改正だの安保法制だのJアラートだのイージス・アショアだの、非常時っぽいことを掲げるのは大好きな安倍政権は、いざ非常時が本当に来たら、不決断で事態を先送りしたのです。和牛券などという案のあまりの阿呆らしさにさすがに世論も沸騰し、一律給付金がともかくも実現しましたが、あとはマスク二枚を配るばかりでした。いろいろの支援策はぼつぼつ出ていますが、十分とは言えない一方で、Gotoトラベルなどとちぐはぐなことをやっています。私はもしかして、このような非常事態に対応できないから憲法に非常事態条項を、というどさくさ紛れ改憲を懸念しましたが、どうもそんなことにもならずに済みそうです。
 そう、共謀罪だの安保法制だの、一見強権的な道具立てをつくった安倍政権は、しかし実際に強権を振るうほどの決断力も行動力もなかったのです。「非常時ゴッコ」は大好きでも、本当の非常時にはうろたえる程度でしかありませんでした。まことに無能といわざるを得ず、しかも同時に無智であり、しかし無智な政策は無能ゆえに貫徹されなかったという、どこまでもろくでもない政権でした。

 しかし、しかしです。私も物心ついた頃の中曽根政権から、十数人の我が国の首相を見てきましたが、安倍晋三ほど不気味なまでに賞賛の声が盛り上がった人物を他に知りません。歴代最長政権に彼がなりおおせたのも、この不気味なまでの礼賛の声があってこそです。しかも退陣が決まった今でもその声は衰えず、やれ「お疲れ様」を言わないのは人でなし、といった声がネットにあふれ、マスメディアでも御用コメンテーターが垂れ流しています。それでいて、安倍晋三はただ政権を維持すること自体を自己目的化して、「やってるふり」をしていただけで、ろくな成果を上げたわけでもないのです。彼に憲法改正などの期待を寄せていた「保守」な人ほど、このざまに怒るべきではないのでしょうか? 国会の三分の二を握っても、憲法改正はほとんど進まなかったのです。
 安倍晋三に「人間的魅力」「カリスマ」のようなものがあるとも、率直に言って思われません。物事を処理する事務的能力も高いとは見えません。彼の答弁をちょっと見るだけで、それは明らかです。関係ない話で誤魔化し、突っ込まれると逆ギレし、相手のせいにする。子供みたいです。例えばこちらの記事など参照。
 しかし。知性がなくても、実務ができなくても、言ってることが無茶苦茶でも、カリスマもなくても、ただ家柄しかなくても、彼は日本国民の少なからぬ層の支持を受け、しかもその支持はきわめて熱烈です。安倍批判をちょっとするだけで、ネットでは「普通の日本人」が湧いてきて、やれ反日だの中国のスパイだのと罵倒してくるのです。
 これはどうしてなのでしょう。私はこれがまったく理解できず、恐怖と絶望を感じながら、この8年近くを生きてきました。
 例えば小池百合子でも橋下徹でも、私は碌でもない人間だと考えており、その支持者を軽蔑しますが、一方で彼らには支持される「何か」が、たとえ見せかけだけでもあるとは理解できます。安倍晋三は本当に何もない。彼を政治家たらしめたのは家柄だけであって、ある意味彼も人生を周囲にお膳立てされた中で送るしかなかった「不幸」な人かもしれませんが、とはいえそれに付き合わされる方はもっと不幸です(安倍晋三の人生で唯一みずから主体的に獲得したのがおそらく夫人で、だからどんなやらかしを彼女がしても庇うのでしょうが、それが結果的に自殺者を生んでしまったといえます)。
 このような感情を抱くのは、多数派ではないにしても、私だけではないのでして、例えばネットで賛否両論盛り上がっているこんな記事があります。
 白井聡氏の怒りや悲しみの感情は、私もだいたい共有しているつもりです。しかし、白井氏の論には粗笨なところがあり、「私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ない」というのですが、そもそも理念などというもの自体を放擲してしまったのが安倍政権であり、それを諸手を挙げて歓迎した人が少なくなかったというのが日本の現状ではないでしょうか。「汚点」として安倍晋三個人に責任を帰して切り離すには、安倍政権の支持層はあまりに広く厚いのです。むしろ安倍政権こそ「日本らしさ」をもっとも強く持っていたから、何も成し遂げなくても、ろくでもないことをさんざんやらかしても、ここまで長続きしてしまったのではないでしょうか。
 この点は、朝守飛阿弥さんの以下のツイートに示唆を受けています。  安倍政権は決して「イレギュラー」な存在ではないのです。

 しかしでは、いったいなぜ安倍晋三は支持されたのでしょうか。何一つ褒めるところがない政権を、なぜ少なからぬ人が――率直に言って安倍晋三よりも頭が回りそうな人でも――無理くりにでも擁護し、批判者を罵倒したのでしょうか。もちろんこれは、複数のパターンが結果的に相乗り状態になったものであって、一つの理由で割り切れるものではないでしょう。直接的に利益を得た「お友達」が支持するのは分かりやすいですが、それは国民のごく一部に限られます。日本会議的な「保守」運動に浸かっている層はそれなりにいそうですが、支持者はそれだけにとどまりません。長期政権になったので「勝ち馬に乗る」という連中も一定いるでしょうが、退陣が決まっても忖度する人の多さの説明にはなりません。見かけの株価が上がったので株屋は支持するでしょうが、この手の連中は論ずるに値しません。

 そんなことをつらつら考えていた私にとって、大きなヒントになったのは、以下の記事でした。
 実際は交換可能な労働力であって、労働者としての階級意識を持つべきところ、通俗道徳化した新自由主義によってそれを奪われてしまっているのが日本の現状と藤崎氏は指摘します。そこで代わりに持つ意識が、「テクノクラート」なのです。何らかの仕事をしている「専門家」であると自らを規定――実際はあくまでも交換可能な労働力であっても――し、その専門家としての意識でしか社会に関わりません。こうなると社会は、タコツボ化した小さな「専門集団」の集まりとなり、公共という場は消滅してしまいます。社会の問題はそれぞれ、どこかの「専門集団」が担当し、他の市民は(たとえその問題が自分の生活に深いかかわりを持つものであっても)口をはさむことは嫌われます。
 藤崎氏は、上掲の記事では使っていませんが、このような「テクノクラート」の自己正当化の意識を、現場プロフェッショナルロマン主義」とも呼ばれています。
 場所の都合から一つだけ引用しましたが、ぜひクリックして前後のツイートもご覧ください。つまりこれは、現場の専門知というものを絶対視し、末端の職業人が世界を支えているのだ、というロマンティシズムなのです。

 もちろん、現場の人びとが自分の職業について経験を積み、誇りをもって仕事をすること自体が悪いわけではありません。しかし、実際のところほとんどの職業人は交換可能な労働力に過ぎず、本来の意味でのプロフェッショナルとはいい難い面があります。藤崎氏が先の記事で指摘するように、この「テクノクラート」意識は、新自由主義によって内面化された虚偽の意識、あくまでもロマンでしかないのです。それはかえって、労働条件の改善といった運動を無力化し、資本による搾取を一層強化する手助けになりかねません。
 ロマンでしかないのに、現場の専門知を絶対視する、ということからは、以下のような問題も考えられます。ある事業が公害のような社会への問題を引き起こして、外部の市民から意見や批判が寄せられた際に、それに耳を傾けるどころか、「専門外の奴が口を出すな!」と反発し、社会との対立を深めて社会的損失や人権への侵害を引き起こしかねません。虚偽のプロフェッショナリズムは、単なるタコツボの中の論理に過ぎず、公共性を失ってしまうのです。専門知で社会に貢献する、というのではなく、専門知というものがあくまで(虚偽の)階級意識の手段でしかないわけです。
 こうなってしまうと、専門知というものは社会から孤立して普遍性を失い、矮小化されて――もともとその「専門性」というもの自体が怪しいのですが――それこそ脱法行為を日常化しておきながら「これでいいんだ、建前で仕事ができるか」とうそぶくようになってしまいかねません。そうして起こった悲惨な例として、「バケツでウラン」事件を挙げておけば十分でしょう。虚偽のテクノクラート意識で「現場の専門知」を絶対視したあまり、普遍的な物理法則に抵触して惨事を引き起こしてしまったのです。

 話が随分と遠回りしましたが、これが安倍政権のメディア戦略、さらにはその背景にある安倍晋三の無知ゆえの「強さ」、それを好意的に受け止める「普通の日本人」の感覚につながっていると私は考えます。
 端的に言えば、普遍的な公正さや真理、正義といった価値観をバカにし、自分の身の回りのタコツボ的な仲間内の世界の理屈で、すべてを押し切ってしまう、精神的な怠慢なのです。

 先に挙げた、首相の答弁文字起こしの記事などが詳しく論じているように、安倍晋三は答弁にまともに答えることをせず(できず)、それでいて自分は野党の議員にヤジを飛ばし、野党側から突っ込まれれば被害者ぶります。これが、一つには安倍政権側のメディア戦略によって、そしてもう一つにはおそらく、安倍自身の、これまでの政治家にはなかった無知無能と幼稚さによって、いわば「クレーマーが文句をつけている」かのように見せかけることに成功したのではないかと、私は考えました。
 例えば森友・加計事件では、身内を不当に優遇したことが問題となり、批判する側は「不公正だ!」と批判します。安保法制ではほとんどの専門家が憲法違反だと指摘し、批判する側は「法的におかしい!」となります。何にせよ、少なくとも建前としては普遍的な意義であるとか論理であるとかを持ち出して批判するわけです(少数派ほど、自己の立場を擁護するには、普遍の論理を武器とすることになります)。それに同じ土俵で議論するには、本来は何らかの形でそういった普遍の精神と取り組む必要があるはずです。
 ところが安倍晋三は、普遍の精神による批判に対し、それをまったく理解せず(できず)、身内の言葉でしか返事をしないので、話がかみ合いません。これは本来は、安倍の無能さを露呈しているだけのことで、恥ずべきことのはずなのですが、巧妙なメディア戦略と、安倍自身の従来の政治家と比べての桁違いの無知(抽象的論理の理解が困難であるということ)によって、安倍はそれに居直り、むしろ自分は「きれいごと」を言う連中にいじめられているのだ、と権力者でありながら弱者の立場に立っているように見せかけたのです。なるほど知的能力では安倍は弱者ですが、それを巧妙にすり替えたともいえます。
 この点については、長谷川晴生氏の創唱された「こどおじ家父長制」を参照しています。
 家父長制的な権威を掲げていて(おそらくその価値観も内面化していて)、それでいて自分は家父長の責任を負わずに、子供のような身内の論理に逃げ込みます。自立した大人であるには、他者と社会で交わっていくことが必要なはずですが、そこが「こどおじ」の所以なのですね。

 で、こんな「こどおじ」に多くの日本人が感情移入してしまったのには、もちろんさまざまな理由があるのはもちろんですが、江藤淳を踏まえた議論は長谷川さんにお願いして、ここでは「現場プロフェッショナルロマン主義」の方向で考えてみましょう。
 本来のプロフェッショナリズムであれば、プロフェッションとして「自分は(他の人にはできない)特技を持っている」ということが自己規定する手段のはずです。僭越ながら、私は歴史学者として「崩し字が読める」なんてのは分かりやすい特技ですね(実はあんまり得意じゃない……あと、近代史なので、江戸時代の御家流は勉強したことがないので不得手…)。
 ところが交換可能な労働力でしかない(まあ私も交換可能な教育労働者でしかないですが)「普通の日本人」には、そういう特技を持つ人はあまりいないでしょう。そういった人々が抱く、虚偽の階級意識としての「現場プロフェッショナルロマン主義」は、自分が何をできるというポジティブな形ではなく、自分の業界外の人を「素人」と見下すという、ネガティブな形でしか成り立たないのではないでしょうか。そうやって、身内の論理で外部を見下すことで、自分が「かけがえのない存在」であるかのように錯覚するのではないかと考えられるのです。
 
 こうして、普遍的な観点からの批判を、身内の理屈で「現場を知らない! この素人が!」とバカにする、他者への想像力を欠いた姿勢が、今の日本に瀰漫しているのではないでしょうか。
 このような姿勢があればこそ、安倍晋三の批判への逆ギレに対し、「クレーマーに絡まれてかわいそう」と、安倍に感情移入することになるのです。身内以外が、身内でない普遍的な理屈を以て批判すると、それを「インテリぶった奴が偉そうに、現場も知らずに」とバカにすることで、自分が「一人前」であると規定できたつもりになっているのです。
 これは極めて恐るべきことで、こうして妄想の専門性というタコツボに多くの人びとが立てこもり、外部からの批判を素人のクレーム扱いして却下するということは、社会全体に通じる言葉や価値観が失われる、ということになります。安倍政権の8年間が社会の分断を激しくした一因がここにあります。

 なお、この立てこもる「タコツボ」は一つではなく、いくつものタコツボが入れ子構造になっていると考えられます。最大のタコツボが「日本人」というタコツボで、日本の現状を批判する人を「反日」「中韓のスパイ」とレッテルを張るのです。安倍批判をした人は、必ずといっていいほどこの罵詈雑言を投げつけられたはずです。本来は日本の状況を改善したいからこその批判なのに、批判をバカにすることでかえって日本の問題を先送りにし、より悪化させてしまうのです。
 しかも、そうやって「反日」とレッテルを張って、自分が「日本人」のタコツボにこもっていることで安心を得ている人の「日本」の観念は、きわめて曖昧で薄弱です。少なからぬ人びとがここで、「日本は偉い!金甌無欠!」と歴史修正主義に走ってしまいます。それはこの「日本人」というタコツボが、結局は韓国・朝鮮や中国を差別した、「あいつらでない我々」という観念でしかないからでしょう。
 これを歴史的に考えれば、日本のナショナリズム形成が、日清戦争という中国や朝鮮への差別意識をもとに形成されたから、という背景があるのではと私は思いますが、これは牧原憲夫先生の名著『客分と国民のあいだ』に譲って、話を戻します。


 で、縷々論じてきたような、虚偽の階級意識であるところの「現場プロフェッショナルロマン主義」による排他性と内輪意識の瀰漫、これは言い換えれば他者に対する想像をサボり、普遍的な正義の観念に基づいて自己の行動を律する手間を省く、精神的な怠惰と呼べるものです。なぜそうなってしまったのかを考えれば、やはり小泉改革以来の世相があるでしょう。一つには、新自由主義の跳梁跋扈によって、人びとは他者との絶えざる競争と蹴落とされる恐怖にさらされ続けています。それが他者への配慮をむしろ無駄なことと切り捨てることになります。さらに、これも新自由主義と通じることですが、絶えず改革せよ改革せよと迫られ、それに人びとが振り回されて疲労困憊していることもあると考えられます。
 競争に勝て、改革し続けろ、変われ変われと竹(中)の鞭を以て追われ続けた結果として、いわゆるゼロ年代で何かいいことがあったかといえば、そうとは言えないでしょう。その反動として、人びとが「ありのままの自分」で認められたいと思うようになること自体は、むべなるかなと思われます。

 しかしここで、私が思うには、ここですでに内面化されてしまった「現場プロフェッショナルロマン主義」的な発想が、「ありのままの自分」を認め合う上での障碍になってしまうのです。「現場プロフェッショナルロマン主義」は、新自由主義の影響により、何か専門家として「役に立つ」ことで人間を評価します。ただそこにいるだけの「ありのまま」の人間存在を認め合うのではなく、「役に立つ」という経済性を求めてしまう発想が、やまゆり園の植松に至ることは、自明でしょう。
 そこで虚偽の階級意識を持ってしまった人びとは、それでも自分をそのまま他者に認めさせるために、自分は「役に立つ」のだとアピールします(自分もまた、他人を「役に立つ」かどうかで評価してしまいます)。でもその意識は結局虚偽ですから、適当な部外者を見つけてバカにし、マウンティングすることでしかアピールできません。こうして精神的な怠惰さが連鎖していき、安倍政権を長期にわたって支える「空気」になったのではないか――ひとまず、私はそのように考えました。

 ではどうすればいいのかといえば、特効薬はありません。一つには、普遍的な正義の観念の大事さを認めること――俗っぽく言えば、社会のためには本音より建前の方がより重要であると再確認することがあります。もう一つには、とりわけ低いといわれる日本人の自己肯定感を高めることです――どうも現今の教育はそれに逆行しているようで、若いうちからキャリア教育と銘打って、自分を「役に立つ」存在として資本に売り込むことばかり考えさせれば、「現場プロフェッショナルロマン主義」の罠に陥ってしまうでしょう。そういえば安倍晋三も「教育改革」と称して余計なことをいろいろやりましたが、あれも「国の役に立つ人間が立派」という思想を刷り込む面がありますね。
 日本の自己肯定感の低さについては、こんなまとめを読んでふうんと思いました。
 素人の思い付きですが、神の観念があれば自分は神が作り出したのだと「特別」に思うことが容易であっても、現世利益万能の社会では「役に立つ」ことでしか人間を見ないのか、などと思ってしまいます。

 話が長くなってしまったのでそろそろまとめますが、安倍晋三が退陣しても、この安倍を支えた構造が変わらない限り、今の日本社会の閉塞感(さらに、閉塞感を認めることを拒否するという閉塞感も)は変わらないでしょう。いやむしろ、下手に後継者が「有能」であった場合、批判を無効化してしまうこの政治的手法を駆使することで、ろくでもないことが強行されてしまうかもしれません――もっとも、「有能」さがこの安倍的構造のサイクルを回す妨げになるという皮肉も考えられますが、どっちにしたって碌なことではありません。
 どうも、安倍晋三退陣という突然の出来事に一瞬は高揚した精神も、考えれば考えるほどまた鬱々としてきてしまいます(なので、本記事もだらだらと完成が延引しました)。なすべきは自分の中の世界精神のかけらを信じて、考えることをサボらず、普遍の正義を目指し続けるよう、日々歩むことばかりです。
 タコツボの中で安穏としていたいという気持ちは私も持ってしまいがちですし、一概に否定すべきではないかもしれません。時にはタコツボの中で一休みするのも悪くないかもしれません。でもなるべく、ツボの外に顔を出し、自分の思いを世界に向かって発信する心を持ち続けなければなりません。
 今手元にないのでうろ覚えですが、私が少なからず影響を受けたカマヤン先生のマンガに、彗星が日本に落ちて謎の粘菌が繁殖し、人びとが繭の中に閉じこもっていく――外部と触れたくない、繭の中にぬくぬくしていたいというのがこの国の願いではないか、と描く作品がありました。主人公はそれを拒んで繭を打ち破って「他人」を探すのですが、見つかりません――最後に主人公は、他者とのつながりを拒んだこの国は、死のうとしているのだ……と呟いて終わる、そんなお話が(こともあろうにエロマンガの単行本の中に!)あったのです。20年以上前の作品で、おそらくカマヤン先生は生まれ育った山梨県の田舎をもとに着想されたのだと思いますが、今の方がむしろ迫ってくるものがあります。


 私も安倍的な構造が続く日本は、少子化を進めることで自ら死のうとしているのではないかという妄想を時として抱くことがありますが、たとえ国が死のうとも、世界精神のかけらは滅びないと信じるばかりです。

※追記
 本記事完成が延々と遅れている間に、「プロフェッショナルロマン主義」の発想を借りた藤崎氏の、安倍内閣論が公開されました。私がいくつも読んだ中でも出色の論(ありていに言えば白井氏の論などよりはるかに奥行きがあります)と思いますので、自身の備忘も兼ねて、ここにリンクを貼っておきます。




Commented by 大名死亡 at 2020-10-02 23:20 x
読みました。PCR検査に対する国民の期待などに対しては私も「テクノクラートの自己正当化」を行っているので、自戒しようと思います。
自分のサイトでも、「軍事マニア」と言う踏み台を置いてしか社会に対して物を言ってないしなあ。
Commented by bokukoui at 2020-10-11 12:37
コメントありがとうございます。
世相に唖然としている間に荏苒時間ばかりが過ぎ、返信が遅くなってすみません。

まず何より、数えなおしたら1万字を越えていた本記事を最後までお読みいただいたことが、感謝に堪えません。
サイトの方でご指摘されていた(http://daimyoshibo.la.coocan.jp/hnrpn/52hahnenrippen.html)ように、ある程度の長さの文章を書いたり読んだりするのが、技術的には容易になったにもかかわらず、むしろ短文を投げつけたり、必然性の乏しい動画にしたり……

問題は他者への想像力の欠如、というか、頭を(金にならないことに)使うことを無駄とすることなのではと私は思っています。
ですので、「軍事マニア」とか、利害打算抜きで「好き」なことがあれば、偽の階級意識である「テクノクラート」の自己正当化の弊には陥りにくいのでは、と考える次第です。
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by bokukoui | 2020-08-31 23:59 | 時事漫言 | Comments(2)