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イタリアの国会議員定数削減国民投票に関して多少思ったこと

 先日のこちらのニュースに関連して思ったことを備忘としてまとめておきます。
 ニュースとは、イタリアで国会議員の定数を大幅に削減する国民投票が行われ、賛成多数で可決されたというものです。主要な箇所を抜粋してみましょう。
 イタリアで国会議員の定数削減の是非を問う国民投票が20~21日に行われ、開票の結果、賛成票が約7割となった。上下院あわせて945議席が、600議席に削減される。
 イタリア内務省によると賛成は70・0%、反対が30・0%。投票率は51・1%だった。今後、下院は630議席から400議席に、上院は315議席から200議席に削減される。
 議員定数の削減は、18年の総選挙で既得権益の打破を訴えて躍進し、同年に発足したコンテ政権で連立与党の一角となった市民政党「五つ星運動」が求めていた。主要紙レプブリカによると、今回の定数削減で、上下院合わせて年間約8200万ユーロ(約101億円)の経費削減になるという。一方、議員1人あたりの有権者数が増え、「地方の声が届きにくくなる」といった反対意見があり、少数政党も「議会の多様性が失われる」と反対していた。
 私はイタリアの政治情勢や財政状況については全く疎いので、イタリア特有の事情については措きます。しかし、「五つ星運動」とはポピュリズム政党と聞きますので、大衆に安易に受ける乱暴な政策を展開したという感は受けます。もっともポピュリズムといっても、日本の代表的なポピュリズム政党である維新の会が新自由主義一直線なのと比べると、「五つ星運動」は環境保護やスローライフも唱えているそうで、そこは興味深くはあります。



 で、本題の日本の事情について思ったことをざっと以下に述べます。
 このイタリアの国会議員削減のニュースへの反応をツイッターなどで見てみると、政治的傾向の左右を問わず、「日本でもやれ!」の声の大合唱です。しかし私はこれに対し、愚かの極みであると考えます。議員を減らしたら、多様な社会の声を議会に十分反映させることが困難になり、社会の公正さが損なわれます。もちろん現状でも多様な声、とりわけマイノリティの声が日本で政治に反映されているかというと疑問ですが、議員を減らしてそれが改善されることはあり得ず、一層悪化するだけです。

 議員削減論者の根拠は、経費の節減にあります。ではそんなに議員を減らして経費節減したければ、いっそ議員をなくしてしまったら安上がりということになりはしないでしょうか。でももちろん、それは民主主義の否定になり、国民の意見を政治に反映させることはかえって困難となり、現状より公正な社会になるとはとても考えられません。なるほど政策の決定や実行は迅速になりますが、それは異論を踏み潰すからです。
 いやいやそれは極論だ、と反論はあるでしょうが、議員を減らせばどういう人が残るかを考えれば、それは世襲の保守政治家(それこそ安倍のごとく)で地域に個人的地盤を持っているとか、あるいは創価学会のように巨大で団結力の強い(排他性も持ちがちな)組織をバックに持つ者とかが残りやすく、つまりそういう支持層にばかり目を向けることで生き残ることになり、多様性が損なわれることは確かでしょう。

 なお日本の事情を考えると、もともと国民当たりの国会議員が日本はかなり少ない方です。今の日本の国会議員定数は、衆議院465人・参議院248人の合計713人に過ぎません。イタリアは945人から600人に減らすそうですが、イタリアの人口は日本の半分弱なので、人口比で見れば削減後でもなお人口当たりでは日本の約1.7倍の議員がいることになります。欧州各国もだいたい同じような水準です。アメリカの国会議員と比較する徒輩が折々いますが、アメリカは州の力が極めて強く、連邦の力が限られているため、日本と単純な比較は誤解を招くものでしょう。
 さらに歴史的経緯に遡ると、1947年の新憲法制定直後の議員数は、衆院466・参院250の合計716で、今より「多い」のです。当時の日本の人口は8千万いませんから、人口が1.5倍に増えた(有権者数なら2倍)にもかかわらず、国会議員は減っているのです。国民の参政権は戦後ずっと蔑ろにされているといえるかもしれません。
 敗戦後の水準に照らせば、国会議員は現在、衆院700・参院400くらいでも国会議員一人当たりの国民の数は変わらず、しかもこれでもアメリカ以外のOECD諸国より少ないくらいです。

 このように、今の世論に逆行して「国会議員を増やせ」というと、削減論者が「金がかかる」とかみついてきます。当然です。社会の公正さという至高の人権を守るのですから、それ相当のコストはかけるべきでしょう。タダで「良い社会」が作れるわけないじゃないですか。
 昨今は停滞気味とはいえ、日本は昔より豊かな国になりました。ということは、人びとがより公正な社会で生きることができるために、より多くの投資をすることが可能になったということです。それこそが豊かになった証であり意義でしょう。人権抑圧してコスト削減して、何がしたいんですか? 何のための豊かさなんですか?

 例えば、人びとを災害から守るために、つまり生存権や財産権を守るために、堤防を作ったりダムを作ったりするわけです。こういうハコモノも人権を守るためにお金をかけているという点では同じことであり、それが政治なのです。もちろんその目的を達成するには、費用対効果を考慮すべきですが、人権自体がコスト削減の対象になってしまうのは本末転倒のみならず、きわめて危なっかしいことです。
 私が考えるには、これは新自由主義が猖獗をきわめた影響などから、ある目的を達成するための手段であったはずの「効率の良さ」「コスパ向上」が、自己目的化しているということではないでしょうか。しかしそれは、多様な人びとの思いを押しつぶし、人権を抑圧することにつながりかねません。極論すれば「効率化」の先にはそれこそ、やまゆり園だとか難病患者嘱託殺人とかいった事態が起こりかねません。もちろんこれらは極例にしても、至上の価値と取り違えられた「効率」が、人権を抑圧する危険性を示唆する例として有効と考えられます。豊かさをどう生かすべきかが見失われています。

 しかし、こういった効率の自己目的化は、随所に見いだされるのが現状です。例えばこのニュースについても、経営者で一時政治家をやっていた人が、こんなツイートをしています。
 
 これは高利潤を目的とする企業経営の理屈を、公正さが求められる政治の世界も持ち込んだ誤謬です。しかし、同じような考え方がまかり通っているのが現状です。この人物については、こんなツイートもあったと親切な方にご教示いただきました。
 「人間は基本弱いのです」という言葉の行間から、「でも俺は強い、弱い奴は俺に従え」という傲岸さを読み取るのは容易でしょう。

 で、これは19世紀的な名望家政治の考え方そのものです。暇も教養もない貧乏人が政治に口だすなんて身の程を知れ、というわけですね。しかしそれは政治を有力者だけのものにしてしまいます。これが批判され、とりわけ国家総動員を要請された第一次世界大戦を経て、20世紀には普通選挙が実現するようになっていくわけです。まあ百年以上は古い考え方といえます。
 古いといえば、金のない奴は生活に追われるから信念がない、という考え方は東洋ではきわめて古くからあり、紀元前の『孟子』に「恒産なくして恒心なし」という言葉があります。安定した財産がないと精神も安定しないというわけです。もっともらしくはありますが、といって財産があっても碌でもない人間も有史以来絶えませんし、21世紀にそれを繰り返すのが妥当とは限りません。社会政策をして人びとの生活を安定させ、その上で多くの人が政治に関係できるのが現代の理想でしょう。
 余談ですが、「恒産なくして恒心なし」をもじって「無恒債者無恒心」という随筆を書いた百鬼園(この言葉が「しゃっきん」のもじり)こと内田百閒のセンスは、やはりずば抜けているなあと思うのであります。ちなみにこの随筆は(確か)『百鬼園随筆』に収められています。

 話を戻して、議員歳費の登場もこれと関係しています。名望家政治は資産があって働かなくてもいい上流階級が政治をやるので、諸費用は基本的に政治家当人の持ち出しになります。ヨーロッパの大土地所有貴族とかなら持ち出しに耐えられますが、日本の名望家程度では往々「井戸塀」になってしまったり……。というわけで、より広い階層に参政権が広がるにつれて、政治家やっていくのに金が出ていくばかりでは、結局金持ちしか政治家になれない参入障壁になってしまうことが問題視されます。そこで、必要経費をある程度補填するために、議員歳費が必要となってくるわけです。まあ、それでも選挙などでかかる費用を賄うには足りず、井戸塀的な問題は付きまといましたが。
 というわけで、議員数を減らすのが問題なら、一人当たりの歳費を減らしては? という考えも当然浮かぶと思うのですが、歳費がそれなりにあるのも歴史的な経緯から理由があるのです。これは20世紀の政治の民主化のひとつの帰結であり、もちろん多ければいいというわけではないにしても、また使途は明確にされてきちんと監査されるべきとしても、なくしてしまっていいとはいえないのです。使途についての効率性を論じるのは必要なことですが、歳費自体の存在を問題視するのは、角を矯めて牛を殺すごとき誤りを招く恐れがあります。
 まあ、私は政治史は専門ではないので、これはごくざっくりとした説明です。

 しかし、「効率」「コスパ」が自己目的化しているのは、現在の日本の宿痾として深刻なように私には思えます。これは何か大きな目標があって、それを実現する手段でしかないのです。肝心の目標を見失った人間が、ただ「これは効率が良いのだ」と自分の行為の正当化に励むのは、空虚さのごまかしに過ぎないのではないでしょうか。
 そしてこの目的と手段の混同は、企業経営のみならず、今の社会のさまざまな場所で見いだされます。私が本件に関するツイートでとりわけ懸念を感じたのは、これです。
 嘱託殺人事件からまだそれほど経っていないだけに、議論よりも「建設的」と称して効率を求める医師の存在には(おまけにフォロワーが万単位でいる)恐怖を禁じ得ません。おまけに異論や批判が仕事の野党を「ゴミ」と嘲る。この医師は「セカンドオピニオンにも対応します」とbioで称していますが、むしろ技術的合理性で「最適な」答えを見つけられると盲信しているからこそ、先のようなツイートをするのではないでしょうか。そしてごく狭い範囲での「合理性」を普遍と取り違えるから、先の嘱託殺人のようなことが起きるのでは。

 この医師のアカウントには見覚えがあったので、自分の過去ツイートを検索したら、数カ月前に取り上げて批判していたことが分かりました。  なるほど、人間の命もいわば、「効率」で測ってしまうような人でしたか。その効率化の行き着いた一つの帰結が、やまゆり園の植松にあったことは、繰り返し強調されるべきです。社会が昔より豊かになったために、より多くの命を守ることができるようになったというのに、そこを「合理化」して、いったい何がしたいのでしょうか?
 しかしこれもまた現代社会の問題で、それなりの豊かさと人権とが(個別には多々問題があるのはもちろんにしても)実現はしてみたけれど、それを生かして何をやりたいのかが分からん、という人が少なくないのかもしれません。それでいて、自分はそこそこやっていけてるので、大変な人に同情を寄せるかといえばそうではなかったり……。想像力の涵養こそが、いま必要なことなのではと私は思います。

 最後に、高校生ぐらいまでは、日本社会一般同様に「多すぎる議員は減らすもの」と思い込んいた私の蒙を啓いてくれたのが、カマヤン先生でした。1990年代の表現規制反対運動のロビイングを描いた漫画の中で、先生は議員を減らすと選挙に強いだけの議員が残り、国民の声が通りにくくなる、と指摘されていて、目から鱗でした。今手元にないのでうろ覚えですが、その同人誌の内容は確か、『新世紀鳥獣戯画 アニマル・ファーム』に再録されていたと思います。

 ……前回の記事と同じオチですみません。

※本記事は、2020年9月21日および2020年6月23日のツイートをもとに、加筆修正したものです。



by bokukoui | 2020-09-30 23:59 | 時事漫言 | Comments(0)

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