石川健治「学問の自由とは何か」書き起こし(日本学術会議の新規会員任命拒否問題についての資料)
石川 日本国憲法第23条「学問の自由は、これを保障する」と定めている。昔、憲法学者の宮沢俊義が五・七・五だといったが(笑)、憲法の中でも短い条文。これは立憲主義の憲法にとって標準装備かというとそうでもなく、ない憲法の方が多いかもしれない。では学問の自由はそういった国にはないのかといえば、そうではなく、表現の自由が保障されていれば、表現の自由・表現しない自由がそこに含まれていて、個人の勉強したり研究発表したりとかの自由は、日本国憲法でも21条の表現の自由で完璧に保証できる。また日本国憲法では、ダメ押しのように19条で思想良心の自由を保障していて、表現しない自由、沈黙の自由もそこでカバーされている。踏絵を踏まされることはない。
学問の自由は21条と19条でカバーされている。ただ単に何かを勉強したい、発表したいというだけなら23条はいらない。勉強する自由については23条のような条文はなくても成立するというのが大前提。しかし特別な事情のある国では23条のような学問の自由を保障する条文が現れる。なぜ日本にその条文があるのかを考えないといけない。
23条は、もちろん一般には、勉強する自由も23条に担当させているが、実は23条の本領はそこにはない。では何のために23条があるのかといえば、専門領域の固有法則。専門領域には専門領域の理屈や論理があって、一般人が計り知れないものがある、そのような自律性=固有法則で動いていき、それに基づいて学問が動いていく、その側面を保障するのが23条ということになる。これの入れ物として想定されているのが大学で、23条には書かれていないが、実は大学の自治を保障するという特定的な意味がある。
もっといえば、ドイツ型の大学を持っていて、そのドイツ型の大学が大学の自治をかちとったという国でのみ学問の自由が憲法に現れるという歴史的な経緯がある。勉強する自由とは違い、何かを保障するために23条が現れるという構図がある。だから過去にさかのぼって、何を念頭に23条が作られたのかを考える必要がある。
望月 学術界だけの話ではないと考える。
――本題に入るが、なぜ6人の任命を拒否したのか政府から説明はない。5日、総理のグループインタビューがあったが、その模様を。
スガ「個別の人事に関することについてコメントは控える。そのうえで日本学術会議は政府の機関であり、年間約10億円の予算を使って活動しており、また任命される会員は公務員の立場になる。推薦された人をそのまま任命してよいのか考えてきた。日本学術会議については省庁再編の際に相当の議論が行われその結果として総合的俯瞰的な活動を求めることになった その観点から今回の任命についても判断した」
記者「しかし独立の機関であって研究者の中では『学問の自由の侵害ではないか』という声もある。また6人の政府提出法案に対する姿勢は関係しているのか」
スガ「学問の自由とは全く関係ない。どう考えてもそうではないか。6人についていろいろ言われているがそれも一切関係ない まさに総合的俯瞰的活動を確保する観点から判断した」
望月 この問題にスガはまともに答えず、このグループインタビューも質問できたのは読売、日経、道新だけ。しかも読売と日経はこの問題に突っ込まない。前例踏襲の打破といっているが、学術会議の選び方も毎回(ここ3回)変えながらやってきており、透明性も高い。しかしこれが理由もなく拒否された。これをスガは把握しているのか。
スガはまともに会見をしていない一方で、パンケーキ懇談会をやっている。スガはまともに理由を説明するつもりがない。メディアも国民の知る権利にこたえていない。
――スガは「学問の自由とは関係ない、誰が考えてもそうだ」といったが、これも踏まえて、戦前の学問と国家との間に何があったかを話してほしい。
石川 標準装備でない条文がなぜあるのかは歴史的にしか説明できない。この歴史には西欧の精神史と、日本で起こったことと両方あるが、身近な日本の話をすると、大学にはもともと自治がなかった。帝大総長は文部官僚が直接任命されてくる。
澤柳事件というのがあって、京都帝大の総長に澤柳政太郎が任命される。澤柳は成城学園を作った、非常に良質な文部官僚といってよい。その人が京大総長にやってきて、無能教授を切るというリストラを敢行したが、これに対し京大の法学部が一致団結して抵抗、全員辞職。東大の法科大学もこれに連帯。澤柳が折れて辞めることで終わり、総長は学内の選挙で選ばれるようになって、大学の自治が確立された。
この事件が前史としてあって、この事件の時に若い教授だった人が、1933年の滝川事件の滝川幸辰。刑法学者だが学説が問題視されて文部省によってパージされる。澤柳事件の成功体験があったので、京大法学部はやはり全員一致して辞職するが、文部省の方は二度と負けないと切り崩しに出て、全員一致が崩れてしまった。いったんは皆立命館に移るが、文部省が正式に辞任を認めたのが数人だけで、多くの人は戻れるようにして、一部の人が戻ってしまった。これが滝川事件で、学問の自由、大学の自治に対する介入だった。
大事なのはこの時、東大は連帯しなかった。学生は連帯しない美濃部達吉ら教授に怒って、戦前最後といわれる学生運動を起こすが、連帯しなかった。当時の文部大臣は鳩山一郎。
その2年後に、対岸の火事として傍観していた美濃部達吉に火の粉が降りかかるのが、1935年の天皇機関説事件。美濃部はその前年に東大をやめて貴族院議員になっていたが、美濃部の当時通説となっていた憲法学説が菊池武夫によって面罵される。たまらず一身上の弁明という演説をするが、これが火に油を注いでしまい、大きな問題となってしまう。機関説を説いた美濃部の著書は発禁処分となり、最終的には不起訴になったが刑事事件になりかかった。
当時東大にいたのは美濃部の弟子の宮澤俊義だったが、当時の岡田内閣から強い圧力を受ける。当初、内閣や文部省は大学を守るつもりだったが、世論の圧力に負けて天皇機関説を何とかする流れになり、文部省にあった思想局が陰湿なプレッシャーを各大学の憲法の先生にかけて、講義の内容を変えないと馘にすると脅す。宮澤は学部長に、「何かあったら……分かってるな」といわれる。ここで抵抗したら取り返しのつかないことになるのではと、東大は頭を低くしてやり過ごすことにしてしまう。天皇機関説事件をきっかけに内閣は国体明徴声明を出し、文部省は「国体の本義」を国民や大学に強制する。この事件の論理的帰結として起こったのが、翌年の二・二六事件。
これによって、それまでは公共空間では臣民らしく道徳に従わねばいけないが、わたくしの空間では何を考えてもいい、という形で個人の思想の自由がかろうじて守られていたのが、すべて国体の本義で塗りつぶすことで、公私の境が決壊した。境を守っていたのは大学という防波堤だったが、これが決壊することで一気に私人の自由、思想の自由が失われる展開になった。
しかし同時代人はそれほど重大な事件だとは考えていなかった。滝川事件に大して東大の先生は偉そうなことを言えないが、天皇機関説事件についても世間はそれほど関心を持たない、在野の知識人は俺たちは大学の庇護を受けなくても研究しているのだ、ぬくぬくやってる特権階級ざまあみろという対応だった。しかしこの防波堤が突破されて公私の境界線が破れ、私人の思想の自由がなくなってしまう、在野の知識人も気がついたら思想の自由がなくなってしまう、それどころか一般国民もある特定の方向の考え方しか持つことを許されなくなってしまう。大学も天皇機関説事件以後は坂を転げ落ちるようで、矢内原忠雄の矢内原事件であるとか、あるいは河合栄治郎事件、どちらも経済学部の事件だが、辞職したり休職処分を受けたりと思想弾圧を受けていく。
ある段階から坂を転げ落ちるようになっていく。多少、憲法学者の手前味噌があるかもしれないが、やはり分水嶺は1935年だったろう。二・二六事件が起こってしまい、その数日前には美濃部が暴漢に拳銃を撃たれたりしている。
しかしこうなる前に止められたはずで、例えば滝川事件の時になぜ東大は連帯しなかったのか、どこかに分かれ道があったはず。この一連の流れの中で、皆が自分には関係がない、対岸の火事だと考えていた。滝川事件は滝川幸辰という一人の刑法学者の事件に過ぎない。機関説も美濃部や宮澤といった限られた憲法学者の事件でしかない。しかし防波堤が決壊して、あとが止められなくなってしまう。1935年から1945年の敗戦までたった十年。
だから対岸の火事だとか、限られた大学の奴だけの問題だと考えるのではなく、そこに防波堤があって、決壊すると取り返しがつかないことになるのではないか、という教訓をこの一連のプロセスは残した。これを受けて23条がある。
したがって、ただ単に勉強する自由を保障するというのはなく、むしろこの防波堤を回復する、正式に憲法上の防波堤を作るのだ、と23条ができたという構図。自分と関係ないことではなくて、もちろんその局面ではごく一部の恵まれた先生だけの話と見えたかもしれないが、防波堤が突破されてこうなった、そこで防波堤をもう一回再建するのだというのが23条で、ただ単に勉強する自由を保障するだけではない何かを保障しようとすることになる。
ここで二つ問題を整理しておく必要がある。一つは、大学といういわば防波堤を再建するという問題だが、もう一つは防波堤だけではなく中身の問題があり、それを強調したい。やはり、専門分野の自律性に対し政治は介入してはいけない、というのが中身で、そのための城壁がたまたま伝統的に大学だったという構図を理解してほしい。
これに関して補足したいのが、日本の大学は国立だけでなく公立や私立もあるが、どれであれお金を出した人があり、国立大学は税金だが、税金を使っているんだから、そして公務員だから話を聞け、というのではない、ということを確立したのが23条。モデルになったドイツは、国立大学中心なので先生は公務員で、国家が目的を与えて作った団体。しかし教授陣は、自分たちはあくまでも学問共同体である、自分たちは公務員である前に大学人であるといって国と戦った。そして公務員である前に大学人、国の営造物である前に学問共同体という自治をかちとって、その証として憲法に学問の自由が刻まれるという経緯が、ヨーロッパの特にドイツ型の大学を持つ国ではあった。よく言われるように、国が税金を出しているからどうだ、という話ではなく、その前に学問共同体であるのだということを、憲法上約束するのが学問の自由という条文。
だから23条がある限り、例えば15条で選定罷免権があるから、同じ公務員だから言うことを聞け、というのは、23条を改正しない限り通用しない。そういう条文として23条はおかれている。ただこれは歴史的にそこに防波堤があったということで、大事なのは中身。中身は専門領域の自律性を尊重して、これに対し外部が介入しないということを守ろうとした、という二重構造になっている。
実際の大学では、ある特定の専門領域を担当する人が一人しかいないということがよくあるが、そういう先生は同僚に理解者がいない中で仕事をしている。では彼がどこで仕事をしているかといえば、それは大学の外の、多くの場合外国にもつながっていくような、学問コミュニティ。それが一般には学会と呼ばれるものになっていくが、いろいろある学会を束ねる組織があった方が、学問コミュニティというのは守られていくだろうと、いろいろ議論はあったが、戦後の改革の文脈で日本学術会議が作られたという経緯がある。
なので日本学術会議の問題は23条とは無関係ではなくて、むしろ直接つながっている。そういう流れの中で議論がある。実際の学術会議となると、なぜあいつがいるのだとか、つまらない議論をしているとか問題はあるが、それは国会だって、なぜあんな奴が国会議員やっているのだという人は、人それぞれあるだろう。けれども国会が国民の自由の防波堤になってくれているということは、大前提として動かしてはいけない。だから個別に、今回学術会議に任命されなかった人がどうだとか、現にいる人がどうだという個別の議論をする局面ではなく、例えば国会全般をどう考えるかというのと同じような水準で、今回「学者の国会」という防波堤が突破されようとしていると問題を捉えることが大事。現実に学術会議についていろいろな意見があるのは当たり前だが、基本的な枠組みが壊されようとしているというのがポイントで、そういう水準で今回の問題は見るべき。
――日本学術会議がそもそもどのような意図で設立されたのか、また学術会議は科学者のためだけのものなのか、といった点についてはどうか。
石川 これは多くの人がかかわっているので、一面的には語りたくないが、いくつか重要と思われるエピソードを挙げる。学術会議の設立に尽力したアメリカ人のハリー・ケリー博士という人がいる。この人が物理学者の仁科義男と非常に親しく、かれらの思いが込もっている。仁科は原爆研究をしていた人でもあり、そういった反省を持っている。この仁科の思いとケリー博士の思いが実を結んだという面がある。ケリーの墓は仁科と一緒に、分骨して多磨霊園にある。非常に真面目に、日本の科学を立て直そうとした人たちがいた。
当時いろいろな意見があり、不要論もあったが、やはり「学者の国会」が必要という意見が一般を支配し、文系理系を問わず学者が投票で選ぶ学術会議が出来上がる。そのようないきさつが発足時の決意表明にある。戦前の学問の在り方を反省して、もう一度やり直すのだという決意が込められた、理想主義の文書。
ただ組織というのは理想的には運ばず、その後公選制がうまくいかなかった面があり、選挙管理がちゃんとしていなかったり、ありがちだが無関心になって投票しなくなったりして、公選制が機能しなくなってしまう。それで学術会議の改革が議論されるようになり、一時は民営化の蟻論もあった。しかし本格的な組織としてやっていくには、国の組織であることが必要ということになり、学術会議が推薦して、形式上の任命を内閣総理大臣が行うというシステムができたのは1983年のことで、非常に大きな改革だった。
1983年当時の議論を見ると、学術会議の現状は褒められたものではないという側面はあったが、大事なのは学問の自律性を守るということ。特定のボスがどうこうという話ではなく、まずは自律性を守るということで、実質的には何も変えないという約束で制度を今の形に変えた。その後も2004年などの改革もあるが、一番大きな改革は1983年。それが今日響いている。今回マスコミが取り上げている国会答弁であるとか付帯決議とかは、1983年のもの。あくまで中身は変わらないという約束で改革したというのが、一番の大枠。
――1950年と1967年に日本学術会議は軍事研究を禁じる声明を出す。2017年には過去2回の声明を継承すると声明している。これはどういったきっかけで2017年は出されたのか。
石川 前の二回は、背景には原子力の問題があった。原爆を作らない、というが学術会議の最初の志。それが底流にあって、他方でいわゆる「逆コース」があって再軍備に動いていく中で、最初の志を動かさないという声明を二度行った。2017年はこれに加えて、安倍政権の登場が背景にあり、そして1990年代末からお金は自分で取って来い、競争的資金を取って来いという制度に変わってくる。文系はまだしも、理系は研究費が死活問題で、研究費が出るような研究をするというようになっていく。学問の自由を正面からコントロールしなくても、裏側から、マニピュレーション(操作的)というが、学問の自由が侵されるようになっている。よく操作的権力というが、一見ソフトだが、裏からお金や人事で操っていく操作的権力が目立つようになった。正面から侵害されなくても、裏から掘り崩されていくという流れがあった。そうした中で安倍政権が、防衛施設庁あたりが、軍事研究ならお金を出しますよということになったので、これに対しどう対応すべきかとということで、声明が出された。
――そういった動きと今回の件は関係あるのか。スガはインタビューで以前から任命について考えていたというが。
望月 2015年4月から、防衛省が、先端技術研究のできる期間に、表向きはデュアルユースを掲げて予算を出すと声をかけた。これに対し、日本学術会議が一定の方向性を定めるべきとして、一年ぐらい検討して、2017年に出された。このさなかの2016年に、政府が推薦候補に難色を示し、欠員のままになるということが起こった。当時の学術会議会長だった大西氏が、個人的意見としてある程度の軍事研究を認めるべきと発言して議論になった。大西氏が相手をしたのが杉田らしい。2016年をきっかけに、学術会議の人事に官邸が介入するようになっていった。2018年に内閣府が法制局に任命拒否について紹介し、拒否できなくもないという回答を得ていた。
――大学という防波堤が崩されたという話だったが、今回も学術会議という防波堤が崩されているということか。
石川 繰り返すが、学術会議の現状がいいわけではないにしても、人材のリクルートメントのルールを壊してしまっている、その点を考え直てほしい。ルールに基づかないで、恣意的に人を選ぶというのは、専制主義の兆候そのもの。恣意は自由の仇敵である。恣意的な権力を防ぐために一般的なルールを作ってそれに従う。一般的なルールを守っていれば恣意的な権力を防げる、したがって自由は守れる。その場その場で恣意的に判断して、これは選ぶこれは選ばないとすると、自由そのものが失われてしまうということだと考える必要がある。
今回、法制局とのやり取りがあったと明らかになったが、しかし正式の解釈変更があったのかなかったのか、どうやってルールを変更したのかがまったくうやむやのまま。聞いてもはっきり答えない。これ自体が極めて恣意的であって、自由にとって恐るべき事態であるという感覚を持ってほしい。
繰り返し述べているが、誰が適任なのかは専門家にしかわからない性質のもの。誰が適任かは専門が近い人でも実は分からない。性質上、推薦してきたらそれをのまざるを得ないというのが、学問の専門的な自律性、固有法則性である。個別の話にもっていかないでほしい。
――質問が来ている。任命拒否は法的にできるのか、できないならば今回の件は取消の訴訟の対象となるのではないか。
石川 学術会議法の立て付けからいって、「基づいて」という表現が使われているが、これは強い表現で、義務的な規定になっている。したがってそのレベルで違法である、という戦いの在り方は重要であり、その局地戦こそが重要かもしれないが、大局を見失わないのも大事であり、同時に憲法論を走らせておく必要がある。
――この問題を矮小化しようとしている人が多数いて、学術会議がどうなろうと個人の研究はできるという、それについてどう考えるか
望月 戦争の反省で、民間ではない公的な独立した助言機関が設けられた。同じようなアカデミーは各国にある。それは政府やメディアが危ない方向に向かっている時に、別の視点から発言できる機関が必要。(略)
――司会の感じるのが、批判について多くの人が価値を見出していない、批判を不満や中傷と捉えている人が多い印象。公的領域では無批判であることが悪しきことで、批判的であることが責務であるはず。しかしそれが文句をつけているように映ってしまう現状がある。批判ということについてどう考えるか。
石川 まず、違う考え方の人がいることを大事にするというのは大前提。今回の学術会議の件についても、今回任命されなかった奴らは自分とは立場が違う奴だからザマアミロと思ってる人も、もしかしたらいるかもしれない。しかしそれは間違っている。むしろ、自分とは違う立場の人のために戦わないといけない、そのような問題である。
例えば滝川刑法学を気に食わないと思っていた人はいただろうし、美濃部の学説は広く支持されていたが、関心のない人にはあいつらのせいで迷惑していると思う人もいたかもしれない。そうやっていくと、どんどんパージされる人はリベラルから中道、右派にまで行ってしまう。河合栄次郎は確かにリベラルだったが、自由主義者の中では保守的な人だった。こうして自由までなくなってしまう。例えば治安維持法のもとで禁止されている、天皇批判をする人や私有財産制否定をする人が血祭りにあげられているのは、ザマアミロと思っている人はいたかもしれないし、大学人が血祭りにあげられているのにザマアミロと思った人もいるかもしれないが、いつのまにか、普通の自由主義、穏健な自由主義も説けなくなってしまった。これが大事で、現在の学術会議がどうであるとか、任命されなかった人たちがどうであるとかに矮小化するのではなく、むしろ考え方は違うけれどこの一線は守らなければならないという理解のものとで今回の現象を考えることが必要。
望月 批判が大事。他の選択肢があることが、国家の強さという内田樹氏の指摘。税金の無駄遣いと政府に同調する連中が大勢メディアに出てくるのは、日本にとってマイナス。それは政府に同調している人にもマイナスになる。
――質問が来ている。天皇の首相任命と、首相の学術会議会員任命とを同じものと捉えて政府を批判する意見があるが、これをどう考えるか。
石川 それはインパクトのある発言をしたいからそう言っているのだろうが、大事なのは「基づいて」という文言の構造が何であるのかということ。大事なのはそういった揚げ足取りのコメントではなく、「基づいて」という言い方は非常に重いのだということ。これは天皇だけではなく、例えば予算について「国会の議決に基づいて」予備費を通すといった文言があり、それが何であるのかを考える。その例として挙げられたと考えるべきではないか。
――質問引き続き。日本維新の会の足立議員が、憲法15条を根拠に人事介入を正当化しているが、これについて。
石川 法律の勉強をしていない人には伝わりにくい話なのだが、「特別法は一般法を破る」という言い方がある。同じ事柄について矛盾する条文があった場合、調整しないと法秩序の統一性が乱れてしまうので、同ランクの条文同士がぶつかった場合には、より専門に近い方、専門領域を尊重して、そちらの条文を優先するというのが「特別法は一般法を破る」。例えば、検察庁法と国家公務員法との関係でいえば、それは専門に近い検察庁法の方を優先すべきで、国家公務員法を持ってきて検察の人事を論じるのはナンセンス。
憲法と法律の関係であれば、これは形式的な効力において憲法が法律を上回っているので、一般法に見える憲法が法律を破る。同ランクの場合には特別法が一般法を破る、上位の法があればそれが破るという形で、法秩序の統一性や連続性を守っている。
最初は法律レベルで議論していたので、当然、日本学術会議法の解釈が公務員一般論を排除することにならざるを得ない。そこで憲法を持ち出して来たら、日本学術会議法を破れるのではと考えたわけだが、23条と15条の関係を考えて欲しい。この場合は23条が15条を破る関係にある。現在の国立大学は2003年に法人化されて公務員ではないが、昔の国立大学でいえば教授は公務員だった。だから15条の対象であるように思われるが、23条がそれを排除していた。公務員ではあるがその前に大学人であり、国の施設である前に学問共同体であるということ。そちらを優先するという約束をしたのだから、23条を改正しないと15条は使えない。憲法レベルで対比すると、23条が15条を押し返すという関係にある。
だから(学術会議の問題で)23条論をやる意味は一定あって、こうした乱暴な15条論が出てきたからには、23条論で押し返す必要がある。繰り返しているように勉強する自由なら23条はいらない、学問共同体の自律性を尊重するのがその中身で、15条を押し返すということが大切。
――最後にコメントを。
望月 学問の自由の重さが理解できた。スガは説明も撤回もせず、そのまま押し通せばいいと考えているだろう。しかし重大な事件なので、しつこく報道し提起し続けることが大事。それが豊かで実りある多様性を認める社会につながる。