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2020年 印象に残った本のコネクション

 あけましておめでとうございます。
 ……というには時間が経ってしまいましたが、本年もご愛顧のほどお願い申し上げます。
 どうにも年頭から調子が悪く、何も手につかないままで、ようやく今頃になって今年が始まったような感じです。

 で、今更ですが新春特別企画として、年越しに際してツイッターで書いた、2020年に読んで印象を受けた本の回顧をここに加筆修正して再録しておきます。まあ、再録するだけの価値もなくもなかろうかと。
 
 まず振り返ると、私が昨年、e-hon と日本の古本屋で買い込んだ本は、全部で165冊あり、金額の合計は329,020円だったようです。他にも店頭で見かけて買ったものや、ヤフオクで買った本などもあるので、冊数・金額とももう少し増えますが、200冊・40万円には届かなさそうです。なお、そのうちどれだけをちゃんと読んだかというと、えー……
 ……まあこういう本もあるそうだし(帯が引っ掛かりますが……)、積んでおくだけでも意味がないわけじゃない、ということにしておきましょう。

 では、昨年に読んだ本でとりわけ印象に残ったものを、関連する書籍にも触れつつご紹介していきましょう(「読んだ」なので、昨年出版の本とは限りませんし、また昨年読んだ本以外も名前を出しているものがあります)。




 去年読んだ本を紹介しろと言われて、一冊真っ先に挙げるとすれば、やはりデイヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)でしょうか。

 その昔、技術の進歩で人々の労働は楽になり、労働時間は短くなるものと楽観されていました。比較的近年の「IT革命」でも、仕事の生産性が上がって人々にはゆとりが生まれるような期待がありました――しかし、現実には全くそうなっていません。かくして日本では、やれブラック企業を何とかしろとか、「働き方改革」が必要だとか、言われ続けているわけで。
 さらにいえば、仕事の中身も何だか「余計な雑務」のようものが増えているように思われます。私の業界でいえば、大学教員の仕事はまず何より教育と研究のはずですが、悪名高き「大学改革」で得体のしれない仕事が増えて、肝心の教育と研究が疎かになっている、ということは近年耳にタコができるほど言われていることです。この辺は佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書)などをご参照ください。
 もっとも大学はそれでもマシな方で、小中高は「余計な雑務」対応がさらにひどいところに、新型コロナまでやってきてますます大変だったようです(皮肉にも、新型コロナで学校イベントの中止が相次いだため、雑務が減ったという悲喜劇もあったそうですが)。

 とまあ、『ブルシット・ジョブ』は、今の世の中の働き方や仕事の観念でどうにもおかしい、と思われることの原因を近代の歴史に遡って検討して、多くの人が心の中にボンヤリと抱いていた違和感や怒りを、見事に言語化しています。そう、どうして金持ちを一層金持ちにさせ、世の大半の人びとには益がないどころか格差拡大の被害者にするような、投資銀行経営陣のような連中が巨額の給料を得、清掃業や看護・介護など、直接世の多くの人びとを助けるような仕事は、給料が安いのでしょうか? それは、世の中にはやりがいもなければ意義も感じられない仕事に多くの人が従事している中で、看護や教育など「やりがい」が分かりやすくある仕事は、それ自体が報酬だからいいだろ、という捻くれた考えが、社会に蔓延しているからなのです。
 ――この箇所を読んで私は、給料なんてなければ愉快に育英の仕事に従事できるのに、そして生活費はせんぶ借金でまかなえればいいのに、と借金取りに追われながら随筆に記した内田百閒の先進性にあらためて敬服しました。

 それはともかく、読んだあと、自分の身の回りにひきつけて考えを巡らさずにはいられない本です。この本には多くの、自分の仕事に疑問を持っていた人々の声が載せられていますが、それのどれかと似たようなことは、きっと多くの人が感じたことがありそうです。人類学者のグレーバーは、その手法を現代社会に適用させて、私たちがアプリオリに当然だと思っていた仕事のあり方のおかしさを抉り出します。
 この本には、グレーバー独自といえる用語がいろいろと出てくるのですが、丁寧に訳し分けられていて、というか訳文自体もかなりノリノリで、翻訳陣の方がたもこの快著を日本の読者に届けようと奮闘されていて、一気に読めます。

 この本はどこの先進国(おそらく中進国でも)の人の心にも刺さるでしょうが、とりわけ日本人として読んで考えざるを得ないのは、日本の近世に形成された通俗道徳との関連性です。グレーバーがヨーロッパ起源として描く、仕事をブルシットにする原因になった発想は、日本ではおそらく通俗道徳として現れているのではと私には思われます。そういった並行的な要因があったから、日本が他のアジア諸国と違って近代化に「成功」したと言えるのかもしれませんが……安丸良夫を読み直したくなります。
 通俗道徳とは江戸時代に表れた、勤勉に働き倹約に勤めることで家業を繫栄させ、立身出世できるという思想です。それは、身分制社会(生まれによって人生が大部分決まる)では革新のイデオロギーと言える面がありましたが、いざ江戸時代が革新されて明治時代になり、通俗道徳が社会全体に浸透すると、貧乏人は怠け者だから貧しいのだ、今風に言えば「自己責任」なのだ、と弱者切り捨ての思想として人びとをむしろ苦しめるものになっていきます。この通俗道徳は今なお日本人の多くの精神を縛っている桎梏といえ(日本での新自由主義の跳梁もこれで説明できそうです)、そして辛い仕事に長時間励まねばならない、という思想が、仕事をブルシットなものにし、自分より楽そうな仕事をしている(あるいは働いていない)人間を、道徳的に劣った者であるとして攻撃して、世の中を一層クソまみれにしているのです。
 この通俗道徳の命名者が、歴史学者の故・安丸良夫で、その著作は今でも広く読まれるに値……する割りには入手困難みたいですね。

 通俗道徳ということばを初めて聞いた、詳しく知りたいがまず何を読めばいいのか、という方には岩波ジュニア新書の松沢裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』がお勧めです。ジュニアと侮るなかれ、働いている大人こそ読むべき本です。

 また、『ブルシット・ジョブ』で指摘されるヨーロッパ起源の働き方の特徴として、人生の過程の一段階として他人の家に奉公にいくという慣習がありました(日本でも嫁入り修行に女中にいく、とかはありました)。こういった他人の下で働くことは、「ライフサイクルの一環としてのサーヴァント」として歴史研究ではすでに取り上げられていて、私も社会史研究の古典であるラスレット『われら失いし世界 近代イギリス社会史』(みすず書房)で読んで覚えていたのですが、ラスレットが産業革命以前の初期近代(近世)を今とは全く異なった「失われた世界」(原題は The world we have lost です)として描いていたのに対し、グレーバーは失われたはずの世界の遺産が、思わぬ形で現代の私たちを縛っていることを指摘しており、驚かされました。
 とまあ、一読してそれに関連しそうな本が次々に浮かび、他の本も読みたくなるような本こそ、もっともエキサイティングな読書経験を与えてくれる本と言えるでしょう。というわけで、私もさっそくグレーバーの他の本、『ブルシット・ジョブ』でも参照されていた『負債論 貨幣と暴力の5000年』(以文社)『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社)などをネット書店でポチったのですが、その過程でグレーバーが昨年9月、59歳の若さで亡くなっていたことを知り、粛然となりました。なるほど常人の及ばぬ業績をすでに残している方でしたが、それにしても惜しい。その著を読み継いで、世界を少しでもクソから救うのが、残された者の道と思います。



 さて、次に挙げたいのは、人類学つながりということで小川さやか先生の著作です。まず読んだのが、ネットで教えてもらった『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』(光文社新書)でした。その面白さに、元となった前著『都市を生きぬくための狡知 タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社)、さらに近刊の『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社)まで読んでしまいました。

 小川先生のメインフィールドはタンザニアで、タンザニアの零細商人とともに行商して彼らの仕事ぶりや生き方を描いたのが『都市を生きぬくための狡知』で、近年はアフリカと中国の関係が深まってアフリカ人も中国を訪れるようになっていることから、中国でのタンザニア人の活動事情も含めて描いたのが『「その日暮らし」』、その中国は香港におけるタンザニア人ネットワークのボスというべき人物に焦点を当てたのが『チョンキンマンション』です。

 これらの本で描かれるタンザニアの人びとは、インフォーマルセクターと呼ばれる零細な商業(中には/時には零細とは言えない規模になることもあります)に従事していて、一般的な経済を論じる際には「その他」みたいに扱われている産業です。でも実際には、インフォーマルと言いながら実に多くの人がこういった商業に従事し、全体とすれば経済規模もバカになりません。
 産業構造や経済状況が流動的なタンザニアでは、なかなか「安定」した生き方はできません、というか日本人が考える「安定」にしがみつかない、良さそうなことを見つけたらとりあえずやってみて、ダメそうだったらこだわらずに撤退して路線変更する、そういった生き方や働き方の方が、ある意味「その日はとりあえず生きていける」という形の「安定」を可能にしているのです。「将来のことを考えて今は我慢する」という生き方ではなく、その日その日をやれることをやって生きていく。働き方もその日その日で変わるのです。ダメなときは誰かに助けてもらうのも一つの生き方です。
 こんな具合で、何か儲け口があるとみんながそっちに突進するので、たちまち過当競争になって儲からなくなり、そこでまたみんな違う方向に突進する……というダイナミズム(これは中国の偽物業者などにも同じパターンがあります)の中で、その場その場での知恵というべき「ウジャンジャ」(小川先生は「狡知」と訳していますが、必ずしも自分だけ人を出し抜くという悪知恵ではなく、皆がやっていける相場観、のようなものでもあります)で生きていく人びとの世界を描いて、圧倒されながらもわが身を考えさせられます。

 日本人は得てして、「身内」と「他人」とで明確な線を引きたがるように思われますが、タンザニア人たちのつながりは、誰かを100%信頼するわけではなく、かといって根に持ち続けるでもない、もっと柔軟なものであり、それが全体として緩やかなセーフティーネットになっているのです。助けられるときに助けられる人が助けられる範囲で助けてやる、という。
 そしてまた、ここでさっきの『ブルシット・ジョブ』の一節を思い出さずにはいられないのです。グレーバーは、資本主義経済で当然とされる、労働者の時間を資本家が買い、買った間は均質にサボることなく働かせるのは、人間の元々の働き方ではないと指摘します。人間の本来の働き方とは、昔の農民や職人のように、季節や仕事の都合に応じて、ある時はのんびりと、ある時は猛烈に働き、休みたい時は休む、濃淡ある時間と労働に彩られていたのだというのです。日本人にはいい加減とみられるタンザニア人の働き方こそ、「本来の」働き方なのではないでしょうか?

 あるいは、日本では「一人前」の人間というのは、とかく自分の生活費を稼得する給与所得者、という意味で捉えられがち(「社会人」という言葉でイメージされるのは、学振を取っていても院生は含まれず、農業や自営業の人がイメージされることも少ない)なのですが、タンザニア人が考える「自立」というのは違っているようです。
 『チョンキンマンション』のボスは、中古車のブローカーやってるのですが、商談相手の香港人のところへ、いつも遅れて行くそうです。単に彼が故郷のタンザニア人とネットしていて昼夜逆転しているというのもありますが(笑)、ボスにはボスの言い分があって、いつも相手の言うとおりにしていたら、下請けみたいに思われてしまう、というのです。人に雇われて働くだけでは、「自立」したとは思われないのですね。それでいて面白いことに、当座のお金に困ったときは、誰かに助けてもらうことを当然と思い、それを特に「負い目」みたいにはしない。誰かをパトロンにして食っていても、それで軽蔑されるわけでもないのです。
 そこで私が思い出したのは、近代日本の国家と人間の「自立」について考え抜いていた福澤諭吉の言葉で、出典が思い出せないのですが、福澤は「官僚として出世するよりも、うどん屋の主人の方が『自立』していて偉い」という趣旨のことをどこかで述べていました。福澤に言わせれば、今の日本の「社会人」は自立の精神が足らず、タンザニア人の方にそれを見出すのでは、なんて思いがよぎります。雇われて働く、という以外の「生き方」が想定できなくなっている世界の狭さが、グレーバー的に言えば世界にブルシットなものを増やしているのではないでしょうか。

 さて、うどん屋の話が出たところで、実は日本の経済史を考える上でも、資本と労働者ばかり注目されていて、かなり多かった自営業者(高度経済成長期が終わるまで増え続けていた)が等閑視されていた、という指摘をした本があります。それがまた、出たのはもうちょっと前ですが、去年私が読んで面白かった本の一つ・新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』(光文社新書)です。

 この本を著した新先生は社会学が専門だそうですが、私にはむしろ、商業をめぐる政策と、政策を求めた運動の歴史が軸になっているように感じられました。で、この本では、従来の経済史では、自営業者(旧中間層)は近代において減少する存在であると、アプリオリに思われがちだったのに対し、日本では第一次大戦後から高度成長期まで、自営業という中間層が分厚く存在していたことの意義を強調しています。
 これは経済史を学んできた者としてもまことに耳の痛い指摘で、ついつい資本と労働者の関係に単純化してしまいがちなのですね。しかしそれでは、見落とされるものが大変多いのです。これは『ブルシット・ジョブ』でも類似の指摘があり、「働く=工場労働者」という偏ったモデルが働き方の前提にされてしまっている、と述べているのに通じます。

 私が本書を読んでなるほどと思ったのは、近代家族規範にまつわる指摘でした。自営業や自作農のような旧中間層に対し、公務員やホワイトカラー層を新中間層といい、現代の「普通」の働き方や生き方とされているのですが、その新中間層を担い手として広まった家族像が近代家族でした。近代以前の家とは家業を担う生産共同体という面が第一だったのに対し、新中間層では職住が分離されて、男性が外部へ働きに行き、女性が専業主婦として家事と育児に専念するという性別分業が明確化します(前近代の家では、家長の配偶者も家業を第一として、家事は使用人などに任される場合が少なくありませんでした)。こうして生まれた、職住が分離し、生産から切り離されて、血縁による情緒と消費活動で結びついた(だから「記念日」に消費を共にする意義は大きい)家族を、近代家族と呼びます。
 近代家族について学びたいなら、まずは本書でも引用されていた落合恵美子『21世紀家族へ 家族の戦後体制の見かた・超えかた』(有斐閣)でしょう。私も今検索して知ったのですが、2019年に改訂されているとのことで、新版も是非読みたいと思います。

 で、この近代家族が日本では1920年代に登場し、それがあこがれのモデルとなることによって、戦後の高度成長期に一般化していきます。すると、旧中間層で職住が分離していなかった自営業層でも、家族は近代家族的でありたい、という観念が浸透してくるのです。その結果として、酒屋などがコンビニに転業したり、自営業を従業員などに譲る観念がなくなるいっぽうで子供が自営を継ぎたがらず、自営業――ひいては商店街の衰退を招いているというのです。私自身、近代家族観念はいまや家業を持つ層にも浸透しているだろうと考えていましたが、その経緯を明確にしてくれた本書は、大いに勉強になりました。
 こうした近代家族規範の浸透が、職住一体の自営業への忌避感を生み、自営業の存続を困難にしているという指摘はうなずけますが、すると先のタンザニア人の例ともまた比べたくなります。小なりと言えど一国一城の主であるより、大資本に身を委ねてブルシット・ジョブに堪えることが「安定」である、それによって近代家族を再生産することが人としてなすべきことである、という強力な規範が、今の日本人を縛りすぎて(もちろんそれは、20世紀においては解放の思想という面があったのですが)、時代の閉塞感を生んでいるのではないかと思わされるのです。

 ところで『商店街はなぜ滅びるのか』では、戦前に自営業になった人びとを単に「離農者」としていて、世界恐慌期にも農業不況から離農して都市で自営業を始めた人の存在を強調しています。しかしこの時期は、不況で失職した工場労働者が、農村に帰る例も多かったので、ちょっとそこは引っかかります。経済史の一般的な認識では、当時の不十分だった失業者対策の中で、失業者を吸収したのは農村だったというものなので。
 で、これは本書の弱点だと思うのですが、自営業者を商店街に集う小売業ともっぱら捉えていて、他の自営業となるルートをあまり検討していないことです(あと、商店街でも小売業ばかり取り上げて、飲食業が等閑視されていますが、これは一層研究の少ない分野です)。というのも自営業には、離農して小売業になるばかりではなく、工場労働者が経験を積み資金を貯めて町工場を設立し、一国一城の主となる、という例もかなりあったのです。小なりといえど一国一城の主になるのが、戦前の(戦後もしばらくは)労働者たちの夢でした。
 しかし、都市の労働者で首尾よく一国一城の主となれるのは、やはり少数です。とりわけ第一次大戦後の大経営の成長や労働者の増加は、それを一層難しくしました。そうして夢を失い鬱屈を抱えた労働者は、何かのきっかけで暴動を起こすことがありました。明治末から大正の日本は、都市暴動の時代でした。

 といういささか強引なつながりで紹介するのが、藤野裕子さんの著作『都市と暴動の民衆史 東京・1905-1923年』(有志舎)と、今年の新刊『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)です。前著は2015年に出ていたのを買って積んでいたのですが、昨年やっと読んで面白さに感心し、さっそく今年の新刊『民衆暴力』も買ったのですが、これもまた素晴らしい本でした(まあ、一部使いまわしというところもありますが)。

 藤野先生は、明治末から大正末までの都市暴動について、その中心となった男性下層労働者たちがなぜ暴れたのかを、単に政治的・経済的要因に還元するのではなく、彼らの精神性に寄り添って解き明かしていきます。仮に社会に不満があっても、それを訴えるのに必ずしも暴動を起こして交番や路面電車に放火して回る必然性はありません。藤野先生は断片的な史料を読み込み、当時の都市の下層労働者たちが持っていた、独自の文化に迫ります。これは、当時の(今でも)主流の文化に対し、社会の下層からの脱却が難しい労働者層が対抗して築いたものでした。ではその主流の文化は、というと――ここで話が最初の『ブルシット・ジョブ』のところで出てきたワードとつながるのですが、通俗道徳というわけです。勤労に励んで節倹することを良しとする通俗道徳に対し、後先を考えずにその場での力を見せる対抗文化が、暴動という形を生み出したのでした。
 こういった労働者の心性については、昨年末に注目すべき本・西成田豊『日本の近代化と民衆意識の変容 機械工の情念と行動』(吉川弘文館)が出されていて、私も読みたいと思っています。


 で、このような暴動の系譜を近世にまでさかのぼって、より広いスパンで捉えたのが、藤野先生の昨年刊の『民衆暴力』です。先に読むならこちらの方が一般向けにはお勧めでしょう。近世の一揆から、秩父事件を経て、『都市と暴動の民衆史』の日比谷焼き打ち事件に至り、前書と同様に関東大震災の朝鮮人虐殺で締めくくられます。関東大震災についてはこちらの本の方がより力を入れていると言えますが、従来は政治的な変化をもたらした政変や米騒動での暴動とは別のものとされがちだった震災後の虐殺事件を、同じく暴力の発露として捉え、同じ人が権力に対しても弱者に対しても暴力を発動する可能性があったという二面性を鋭く描いています。

 というわけで鉄道史をやっている者としても、なぜ路面電車が暴動に際し投石・放火されるのか、という課題をこれからは検討……うーん、史料は何かあるのかな。ポイントになりそうなのは、路面電車への暴動時の攻撃というのは、電車賃値上げ反対という分かりやすい理由の時もあれば(名古屋では電車の本社まで焼き打ちされた例があったと思う)、日比谷事件の時のような「とばっちり」もあるのです。といって、公共料金値上げの時にいつもいつも暴動になるわけではない(昭和初期の電灯料値下げ運動の際には、現場で住民と電力会社関係者が喧嘩になったことはあっても、暴動にはなっていない)し、やはりこれも『都市と暴動の民衆史』の時期(歴史用語でいえば「都市民衆騒擾期」)ならではのことなのか、そして騒擾期が終わって労働者が暴れなくなったからブルシット・ジョブが増えていくのか。

 とまあいろいろ挙げてきた本ですが、扱う時代も地域もばらばらのようでいて、通俗道徳や近代家族、働くことと「自立」の意味などで、みな繋がり合っているのでした。2020年という年にたまたま読んだ本が、こうして繋がりあったからこそ、いっそう興味深く読めたのだと、天の配剤に感謝する思いです。

 こんな本のつながりということについて考える時、前にも引用してますが、私の一番好きな本の一節が思い起こされるのです。
 五万冊の一点一点が索引の一項目に納まるような究極の巨大書物として、一個の図書室をイメージできた。もはや一冊一冊の内容には興味がない。それらの相互の生成関係、エリオットが「伝統」、フライが「トポス」と呼んだものにしか関心がわかなかった。(中略) そう。「繫がり」がすべてだ。ひとつの繫がり(コネクション)ではもはや何も見えてこない時、別の繋がり方(リコネクション)がさぐられなければならない。それを「パラダイム変換」と人は呼ぶが、なんのことはない、ぼくは五万冊という膨大な本の中に寝もやらで遊びながら、それを体得していたことになるのだと思う。

 これは高山宏『ガラスのような幸福』の巻頭の、私が一番好きなエッセイ「リコネクションズ」の一節です。こんな繋がり(コネクション)に満ちた読書経験ができた2020年は、もちろん世界にとって災厄の年ではありましたが、私にとっては必ずしも悪いことばかりではなかった年でした。
 願わくは2021年はより多くの人が、幸いな繋がりを持てますように。

※本記事は、2020年12月31日および2021年1月1日にツイートした内容に、大幅に加筆修正して作成したものです。

by bokukoui | 2021-01-22 23:37 | 書物 | Comments(0)

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