誰も予想しなかったトラブルと不祥事と不手際の果てに、今日はオリンピックの開会式ですが、これほど盛り上がらない状況になろうとは、かねてからオリンピック反対派――東京の招致や開催だけでなく、近代オリンピック自体への反対――であった私にも意外なほどです。最大の戦犯は「一年延期」を決めた前首相でしょうが、組織委や知事や首相や元首相など、結局誰がどうことを進めるのか、責任をもって決定するのかが不明確で、どうも「お仲間」でテキトーにやってきてたらしいツケが、一挙に噴き出している感があります。むしろコロナ禍に見舞われたことはこのオリンピックにとって不幸中の幸いかもしれない、なぜなら問題をコロナのせいにできるから、とも思います。しかし主として日本の主催者に見られる、無責任と思い付きのもたらしたゴタゴタを、疫病でうやむやにしてはならないと強く感じます。
さて、以下に述べることは私が十数年来ずっと考えてきていて、
時折ツイッターでも述べ、授業のネタにもしていたことですが、開会式を前に昨日まとまった形でツイッターに放流したので、これを機会にまとめておこうと思います。
さて、東京オリンピックがここに及んで「差別の祭典」と化しつつあります。森喜朗の女性差別発言、開会式の統括者も女性の容姿をバカにする発言で降ろされ、そこへきて音楽担当者のいじめ自慢、開会式ディレクターの過去の不謹慎ネタと連打。にもかかわらずオリンピックを強行する政府は、日本選手がメダルさえ取れれば喜ぶと人をバカにしています(まあこれは、バカにされても仕方ない面が……)。それ以外にも、国立競技場建替えにかこつけて都営住宅から住民を追い出したり、亡命を希望したウガンダ人選手を不当としか考えられない取り扱いをしたり、「おもてなし」とやらはどこへ行った、という大小の問題が報じられない日はありません。
で、かように差別問題がオリンピックをめぐって続けざまに起こっているのは、これはある種のオリンピックの「原点回帰」なのではないか、ということを私はずっと考えているのです。
近代オリンピックの誕生は1896年、19世紀の終わりのことでした。19世紀とは(ここでの19世紀とは、フランス革命から第一次大戦までの「長い19世紀」、狭義の近代のことです)欧米中心に政治的な革命や産業革命が起こり世の中が変わった「進歩」の時代でした。そのため欧米では、人類は良い方向に進歩しているのだと、楽天的に信じられていた時代といえます。そんな時代だからこそ、ダーウィンの進化論も受け入れられたのですが、これが捻じれた発想を生んでしまうのです。
すなわち、「進歩」の時代である19世紀には、世界を「進んだもの」と「遅れたもの」とに分類し序列付けすることが、「当然」であり「可能」であると信じられ、それが「科学的」なものの見方とさえ考えられていたのです。
こうして、現在の目からすればまるっきり差別である考え方が大手を振ってまかり通ります。白人はもっとも「進化」した人種であり、黄色人種はそれより劣り、黒人はさらに劣る、というような発想が当然視されたのです。これは19世紀に進展した、欧米による植民地支配(19世紀初めに世界の約三分の一を支配していた欧米は、世紀末には8割以上を支配するに至ります)の正当化に直結します。「進化」した欧米勢力は「遅れた」アジアやアフリカを支配するのは当然で、文明をもたらす(押し付ける)義務があるのだと。
これはまた、障碍者差別にもつながっているのです。ダウン症はイギリスのダウンという医者が発見したのでその名がありますが、ダウンはこの症状を「「進んだ」白人に生まれるはずが、間違って「遅れた」黄色人種の性質を持って生まれた」のだと考え、Mongolism(蒙古人症)だの mongolian idiocy(蒙古痴呆症)だのという、とんでもなく差別的な名前を付けたのです。さすがに20世紀にこれは欧米でも批判が起こり、今のように「ダウン症」と呼ばれるようにはなりましたが、19世紀では障碍もまた「進化」「退化」の枠組みで捉えられていたのでした。
さらにこの、世界を「進んだもの」と「遅れたもの」に分ける考え方は、性別にも持ち込まれます。すなわち、男は「理知的」で「冷静」な「進化」した存在であり、女は「感情的」な「劣った」存在である、と男女差別を正当化したのでした。
19世紀は、全体としては政治的な民主化は確かに進みましたが、それは女性を排除したものでもありました。伝統的な家が崩壊していったんは危機に瀕した家父長制は、父が一家の稼ぎ手となり、母は家庭を安寧の場所に保つのが仕事とされて公的空間から排除されることで、再編成され、近代家族の形成に至ります。家長である父は、たとえ社会階層が低くても、政治的な権利を次第に得ていきますが、女性は男に従属する存在とされて、政治的な権利はなかなか得られないのです。
もちろんそれに反発して参政権を求める女性もおり、彼女たち元祖フェミニズムのおかげで女性の権利は20世紀に拡大していきますが、この間、男から彼女たちに浴びせかけられた罵倒や冷笑は、現在のネットの女叩きとそっくりといってよく、「感情的」で「進化してない」のは誰のことかと嫌味の一つも言いたくなります。
このように、自分たちは「進化」した存在だと驕り高ぶっていた19世紀の白人男子は、しかし同時にその地位を守れるか恐怖を感じます。黄禍論のように、「下等」な人種は「繁殖力」が強く、進化した自分たちはやがて圧迫されるのではないか。これはまた、19世紀に曲がりなりにも進んだ民主化(既述のようにそれは女性を往々にして排除してはいましたが)に対しても、中間階級以上の危機感を高めました。下層の階級が「繁殖」して、エスタブリッシュな階級を圧倒してしまうのではないか。19世紀末には確かに、社会主義運動も活発化してきます。
てなわけで、19世紀に欧米の中産階級以上が通うパブリック・スクールや大学では、スポーツがやたらと重視されるようになります。「下等」な人種や階級の「繁殖力」に負けないよう、スポーツをやって体を鍛えようというわけですね。そういうわけで、「近代的」なスポーツのルールや制度が整えられたのは、たいがいそういった学校のスポーツを通じてでした。下層階級の娯楽であるサッカーなどは違った経緯をたどったとは思いますが(ただしそれも、娯楽としての荒々しさを次第に失い、学校的スポーツに近づきます)。
オリンピックで中心となるようなスポーツの根源には、19世紀の「進←→遅」的世界観を背景にした、人種差別・性差別・階級差別が胚胎していたのではないか、私はそう考えています。もしかするとクーベルタン男爵個人は、もっと立派な理想を持っていたのかもしれません(私は彼については不案内です)。ですが、オリンピックが当時の世界に受け入れられたのは、「ギリシャ・ローマの古典古代を受け継いだ近代欧米が、『進んだ』存在として世界に君臨する」という物語が、当時の欧米人に都合がよかったからという面は否定できないでしょう。
ちなみに19世紀の欧米では、古典古代熱が非常に強く、歴史の教科書でも自国の中世の封建制度なんかはちょっとしか説明がなくて、延々とギリシャやローマのことを教えていたそうです。直接の自分たちの基礎を無視し、遥か隔たった(イスラム教徒が保存しといてくれた)古典古代と自分たちを直結するというのは、今風に言えばやはり一種の「歴史修正主義」とも考えられましょう。
なお、ここで19世紀における黄色人種の日本人はどう対応したかというと、この「進←→遅」的世界観を日本は速やかに取り入れ、「進んだ」側になろうと急速な近代化を進めると同時に、周辺諸国への軍事的侵略を図ります。「脱亜論」を思い起こせば十分でしょう。「いやあ白人は酷いねえ」と、他人事のようにいうわけにはいかないのです。「『遅れた』中韓とは違う『進んだ』日本」というセルフイメージは、いまだに残存しているといわざるを得ません。百歩譲って、明治の日本が国家存続のためにその世界観を受け入れざるを得なかったとしても、21世紀にその発想を引きずっているのは、差別主義者と糾弾されてしかるべきことでしょう。
今回のオリンピックではまた、IOCやJOCのカネの問題、スポンサーへの「忖度」といった、商業主義の問題も指摘されています。資本の横暴というのも19世紀以来の問題ではありますが、ただ一面、ギリギリのところでスポンサーがCMをやめたりするなどの反応もありました。私の思うところでは、もちろん過度な商業主義は問題にしても、オリンピックの「商業化」は、一面では近代オリンピックが根源的に孕んでいる差別の構造を解毒する効果もあったのではないかと思います。差別はいわば「身内」にしか受けませんので、広い市場を求める資本からすると、必ずしも利益ではないのです。皮肉にも資本主義が、差別をやめさせる一因にはなったかもしれません。実際、スポンサーの動きはそうとも取れます。
しかし、今回の日本のオリンピック誘致は、「1964年の夢もう一度!」という、「昔は良かった」的保守志向の表れが露骨な、政治的なイベントという面が強くありました。日本はなるほど多くの課題に苦しんでいますが、今までのやり方を変えていくことでそれに対処することができるはずです。しかしそこを、「昔は良かった! 昔みたいにすればいいんだ!(今のままで変わらなくていいんだ!)」という、後ろ向きな政治志向でオリンピックに臨んでしまったのです。商業的お祭りだけならまだ良かったのに、政治性をもった主催者のおかげで資本の解毒作用もあまり効かず、オリンピックの根源的な差別構造がはしなくも露呈しやすくなったのではないか、そんな気が私にはしています。
そうなると、やはり次の北京冬季五輪のことも考えずにはいられません。現在の中国は、ウイグルの人権問題という民族・宗教差別の抑圧を行っており、いっぽうで19世紀以来の成果であるはずの民主化に反して一党独裁を続けています。北京でこそ、もっとそのオリンピックの根本にあった差別構造が噴出する可能性はあります。噴出して爆発した方が、長い目で見れば中国の人民(ウイグルでも漢民族でも)にとっていいと思いますが。
オリンピックが克服したかに見えた差別構造が、いまだ根強いことを東京は示してしまいました。そしてそれは、抑圧的な体制が自己宣伝をするという北京の場では、より先鋭的な問題となるでしょう。ある意味、いま北京ほどオリンピックにふさわしい都市はないともいえます。オリンピックは平和なスポーツのお祭りになれるのか、あるいは出自の暗さが表面化して滅びるのか、来年がその分岐点になるかもしれません。
以上のようなことを、私は十数年前から考えているのですが、その手掛かりとなった本を以下に紹介します。そして見返してみるとこれは、私が今まで読んだ中で、面白いだけでなく世界を見る見方を変えてくれた、素晴らしい歴史の本のベストスリーになっていることに気がつきました。以下の本は、歴史に関心がある(自己愛を満たす手段としてではなく、自分と世界を見直す手段として)方がたには、強くお勧めできる本です。
まず、パブリック・スクールのスポーツの持つ意味を知る手掛かりとなった(表題からは想像もつかないけど)のがジョン・エリス『機関銃の社会史』(平凡社ライブラリー)です。
私は高校生の時に偶然この本と出会い、将来は歴史学をやりたいと思ったものでした。考えてみれば人生を変えた一冊かもしれません。
19世紀における女性差別について蒙を啓かれたのが、これは当ブログでも何度も紹介している本ですが、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』(パピルス)です。女性嫌悪と近代スポーツには深い関係がありますね。
そして最後に、近代の中のスポーツの位置づけを考える際に刺激的なのが、高山宏『ガラスのような幸福』に収められた「世紀末、スポーツはたくらむ」です。この本も何度か紹介し、巻頭の「リコネクションズ」はたびたび引用もしましたが、それだけ素晴らしく面白い本で、私が一番好きな本でもあります。
これから二週間余り、メディアではまたいろいろと騒がしいことになるでしょうが、そういった騒ぎがお好みでない方がたは、ぜひこれらのよき書物を紐解かれてはいかがでしょうか。