来たる7月10日は参議院議員通常選挙ですが、この選挙に出馬してネット上で話題になっている候補といえば、自由民主党から「表現の自由」を標榜して出馬している、漫画家の赤松健氏でしょう。ネット上で数的に多い「オタク」を称する層に、山田太郎議員ともども強くアピールしており、おそらく当選するものと思われます。
しかし私は、赤松氏や同氏を持て囃すような自称「オタク」が唱える「表現の自由」とは、本来の精神から遠く隔たったものであり、むしろその本質を破壊しかねないものであると考えます。そこで選挙を前に、表現の自由と「オタク」との関係について、いままで度々ツイートしてきたことをまとめ、志ある方へ今後の政局に関する参考にできればと思います。
1. 表現の自由と規制について
このブログではかつて、東京で起こった「非実在青少年」をめぐる表現規制について批判的に何度も取り上げ、
タグ「表現をめぐる自由や規制のことども」を作成しました。いくつものイベントのレポをし、この表現規制をめぐる反対論の高まりに、微力ながら若干は貢献できなくもなかっただろうと思っています。そして私は、権力によるあらゆる表現規制に断固反対するという姿勢は、いまなお全く変わっていません。
ところが昨今では、ツイッターでの私の発言を曲解し、私をして「表現規制派」だの「オタクヘイター」だのとレッテルを貼る徒輩が少なからずおり、いささか憮然とさせられます。気づいてもいちいち訂正はしませんが、そう難しくもない論理を読み取れない読解力の人の多さにはうんざりせざるを得ません。
何度でも繰り返しますが、私は権力による表現規制には断固として反対しますし、性的な表現についての刑法175条は廃止すべきと考えています。ゾーニングをしっかりした上で、AVでも成年コミックでも、性器描写は当然なされるべきで、無意味なモザイクやトーン・ベタ・ホワイトは廃止されるべきでしょう。
もう一つ、私は近代日本史を専門とする歴史屋として、昨今の歴史修正主義――南京事件はなかった、慰安婦はただの売春婦だ、関東大震災で朝鮮人は暴動を起こした、占領軍のWGIPで日本人は洗脳された、etc、etc……に対し、強い怒りと懸念を感じています。しかし、例えば現在のドイツでナチス賛美の表現が規制されているように、こういった歴史修正主義の表現も法的に規制すべきかというと、それは表現の自由を制約し、また学問の自由に権力が介入することにもつながりかねないので、賛成できません。その表現の自由を認める代わりに、自分もまた表現の自由を行使して、そういった誤った言説を周縁化するしかないと考えています。
私は、権力からの表現の自由についてはそこまで慎重に考えており、表現規制派などとされることには到底承服できません。にもかかわらずそういう手合いが絶えないのは、「表現の自由戦士」(とネット上で揶揄されるような、一部の「オタク」を称する連中)の主張する「表現の自由」に対して、私が「間違っている」と指摘し続けているからに他なりません。この点については、以前に旧知の儀狄氏と往復メールをした記事がありますので、そちらをご参照ください。
この発端の件は、公共の場所へ無思慮に性的な含意のある「萌え」表象を持ち込んだら、そりゃあ苦情も出るでしょうというだけの話なのに、その苦情=表現の自由の行使を、「表現への弾圧だ!自由の侵害だ!」と騒ぎ立て、批判を「表現規制だ!」とこじつけることで他者の表現を抑圧するものでした。表現に対し批判することも表現の自由のはずなのですが、批判すること自体を攻撃するのです。それは表現の自由をないがしろにすることだと私は考えます。苦情を発すること自体を「『フェミ』が『萌え』を抑圧する陰謀」と、ありもしない被害妄想を振り回すのは、まったく誤っています。
私が考えるに、まず前提として表現規制とは権力が行うもので、表現の自由という重要な人権が他の人権とバッティングする場合のみ、やむを得ず認められるものではないでしょうか。具体例でいえば、プライバシーに関する情報の公開を制限するとか(私は、刑事事件の被害者や加害者の名前を公開する必要は、公人の場合を除き、基本的にないと思います)、事実無根の誹謗中傷で名誉を傷つけた場合に罰則を科すとか、そういった場合ですね。
思うに私人の間で「この表現はダメではないか」「いやこれはいいのだ」という議論がなされる状況は、まさしく表現の自由が行使されている局面であって、これを「表現規制」とするのは、表現について考え議論することから逃げ、表現への意見を「規制」のレッテル貼りで抑圧する、はなはだ怪しからん行為であると考えます。
法律に反していないなら何を言ってもいい、それへの批判は自由の侵害だ、という主張は、自分は行動を律する規範を持たない(罰せられるからやらない、というだけ)と白状しているに過ぎません。まあ、稼げさえすればいいという新自由主義との相性は良さそうですが、それが社会をいかに破壊するかは自明です。
表現の自由とは、お上が決めてくださったガイドラインを墨守するような静態的なものではないでしょう。この表現はいいか、よくないかをめぐって、議論という表現をさらに重ねる時、そこに表現の自由の場が作られるのです。表現の自由は参加することによって動態的に表れるもの、社会の一員である自分たちで常に作り続けていくものだと、私は考えています。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
お上の都合(公益及び公の秩序)で表現の自由は制約する、臣民は黙ってそれに従ってろという意図をここから読み取ることは、決して無理筋ではないでしょう。この条項に限らず、自民党改憲案なるものは国民の権利と自由をなんでもかんでも抑圧したいという、「日本人」への憎悪に満ちているものとしか、私には思われません。この草案を掲げて恥じない政党から出馬した人物が、「表現の自由」を守ると称するのは、全く矛盾したことです。
あまつさえ、出馬の10年近くも前に、赤松氏は斯様なツイートをしています。
権利とは権力者に「お願い」して「認めていただく」ものではありません。それでは利権です。自分たちで表現の自由を作っていく精神が欠如し、お上のお慈悲にすがるという姿勢は、はなはだ退嬰的です。
ここで考えられるのは、赤松氏が称し、少なからぬ「オタク」と自認する人々が唱える「表現の自由」とは、権力の抑圧なくして(他者の人権を傷つけない範囲=公共の福祉の範囲内で)万人が自らの意見を主張できるべき、というものではない、別な何物かに「表現の自由」という看板を無理やりくっつけた代物ではないか、ということです。他人の表現の自由に難癖をつけて黙らせる自由!? さてこそ彼らが、ネット上で批判派から「表現の自由戦士」という揶揄をされる理由でしょう。
前置きが長くなりましたが、以下その「別な何物か」について考察してみます。
2. SNS普及とコンテンツ受容の変容
まず私が考えていることは、「オタク」の意味が拡散し、その一角をなしている「表現の自由戦士」たちが、元来のオタクから変質してしまった存在であるということです。
「おたく」は1983年に、マンガ・アニメ・ゲームなどにはまっていて詳しいけれど、服装やコミュニケーションに難のある「気持ち悪い、暗い奴」というネガティヴな意味を持って生まれた言葉でしたが、すぐにその意味は拡散していき、コンテンツ文化を中心にサブカル的な何かについて愛好して詳しい人、という「マニア」の言い換えのようにも使われました。次第にネガティヴ色は薄れていき、何かに詳しく熱心というポジティヴな意味にも広がっていきます。このような流れを考えれば、当然コンテンツについて自分の見解を披露し、時には批判することもオタクのなすことのはずです。確かに一昔前までは、個人サイトやブログでアニメ批評などをやっているオタクは結構いました。
しかしSNSの普及が、コンテンツとの向き合い方を決定的に変えてしまったのではないかと考えられます。おそらく発端は2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の実況スレあたりからで、ニコニコ動画のコメント欄に受け継がれ、SNSが決定的にしたものです。その傾向とは、コンテンツと一人で対峙するのではなく、みんなで「ネタ」にするというコンテンツの見方です。このような変化は、古くは中原昌也・海猫沢めろん・高橋ヨシキ・更科修一郎『嫌オタク流』(太田出版、2006)あたりでも指摘されていたように思います。
これによってコンテンツは、鑑賞や批評の対象というよりも、「みんなで盛り上がる」手段と化してしまったのではないでしょうか。すると小難しい批評は嫌われ、定型フレーズをネットの「みんな」で叫ぶことで一時の快を貪る、そういう人が増えたのです。
もちろん、それ自体は必ずしも悪いことではなく、一部の変わり者や子供っぽい奴の趣味扱いされていたこの種のコンテンツ趣味が、一般化して変に扱われなくなったという良い面でもあります。ただその裏返しで、オタクの持っていたポジティヴな面、何かを深く探求して独自の境地を持つ、というのは失われる恐れがあります。まあこれは、「オタク」が一般化した結果、かつてはオタクをバカにしていた「みんなと月9ドラマの話題で盛り上がる『一般人』」(もちろんオタクも彼らをバカにしている)と、「オタク」が同じ存在になったということともいえるのです。
ここでうまくいけば、広い裾野にコンテンツを軽い楽しみとする消費者がおり、いっぽう高い頂上に連なる求道者たちもいて、しかも求道者がバカにされないで済む、という文化や産業としての成熟が見られたかもしれません。しかし実際には残念ながらそうはなっていないように思われ、その一つの表れが「表現の自由戦士」と揶揄されるような人々の存在であると考えられます。
最近の注目すべきツイートでこのようなものがありました。
『シン・ウルトラマン』にセクハラと批判される描写があった、という指摘を腐したいために、「世の大多数の人」はそんなことに気づかない、と主張してしまっています。これには当然かなりの批判がありました。
アオイ模型氏は「オタク」でありながら、コンテンツに向き合う姿勢として「考えない」一般人の見方が正当であるかのように評してまで、作品への批判を無効化しようとしているのです。これこそ「オタク」の現状をよく表しているように思われます。
そこまで批判を嫌って、深い見方を止めてまで、何をコンテンツに求めているのでしょうか? わざわざ考えるのをやめて、何をしたいんでしょうか?
一つにはSNS時代の「論破」至上主義みたいな弊風が影響しているでしょう。他人の意見を「それはあなたの感想でしょう?」で無効化してマウンティングできるという浅墓な思い込みが広く共有されてしまい、これが作品に分け入った批評を衰退させて、「売れている」という「客観的」指標でしか作品を評価できなくなったのです。
そしてもう一つ、「ネットで騒ぐことによって反響を得、『仲間』を得る」ということ――つまり承認欲求が目的なのであって、表現の自由どころかコンテンツもどうでもいいんじゃないかということです。
そして「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の自称「オタク」が、やたらとフェミニズムを攻撃し、被害妄想をこじらせるのは、「仲間」うちの盛り上がりと連帯感を安易に高めるのに「敵」を作るのが安直な方法だからでしょう。しばしばこの手の自称「オタク」は、「フェミは『萌え』を攻撃してくる!」と称しますが、むしろこの手の「表現の自由戦士」こそ自分たちへの「攻撃」を希求しているのです。「攻撃」の存在によって、「仲間」うちでいっそう盛り上がれるからです。
さる5月頃でしたか、「表現の自由戦士」界隈の大物として知られた青識亜論氏の twitterアカウントが凍結され、そこで氏が代わりに使いだしたアカウントが、以前は「オタクを攻撃する『フェミ』」的発言をしていたアカウントの後身だったため、氏がフェミニストの「なりすまし」をしていたことが発覚、当人もそれを認めるという騒動がありました。
これには青識氏と意見の近い人からも批判が寄せられましたが、まさしくこれが「表現の自由戦士」が「フェミ」などの「攻撃」を希求している、分かりやすい実例といえます。
他にも類似の事態には事欠きません。北守氏のツイートを参考に挙げておきます。
「パーリアになりたい欲望」こそ、アイデンティティを安直に都合よく得たいという欲望に他ならないでしょう。
こうして形成された「仲間」意識というのは、互いの個性を認めた上での共通項による連帯ではなく、「敵」を叩くというネガによって作られたものです。だから味方同士は、だらしなく同じ考えであるかのように融け合ってしまうのではないでしょうか。
私自身何度も経験してきたことですが、「オタクの中に困った人(表現の自由戦士)がいる」といっただけで、「オタクを差別するな!」と嚙みついてくる人がしばしばいるのです。その区別もつかないのに、コンテンツをちゃんと鑑賞できるのか、率直に言って不思議です。
私は鉄道マニアですが、「撮り鉄は迷惑だ」と言われれば、「確かに迷惑な人がいるのは遺憾ながら事実である。注意できればするようにしたい」と答えはしても、別に「俺の悪口を言ったな!」とキレるようなことはありません。「敵」か「仲間」かという二分法による、単純化された人間観が、そのような粗雑な言動を生むのでしょう。
私が考える「表現の自由戦士」とは、オタクの本分であるコンテンツへの耽溺を忘れ(下手すれば最初っからそんな面倒をせず)、コンテンツを鑑賞するより「敵」を叩いてネットの「仲間」と盛り上がる方が楽しいという、残念な人々なのです。コンテンツとの対峙を忘れて稀薄化した自己のアイデンティティを、外部に「敵」を設定することで維持しようとしているのですね。
叩くための「敵」の設定なので、その「敵」は実際のフェミニストなどとは必ずしも一致しない、自分たちが叩くのに適した存在へと勝手に虚像が作られていくことになります。「表現の自由」もまた、「敵」を叩くための武器として、本来の意味から捻じ曲げられた虚像と化していきます。いくら反論しても、虚像を虚像で叩くことがアイデンティティと直結しているのですから、虚像が修正されることはありません。かくして私も「表現規制派」にされてしまうのでした。
3. 批評から宣伝へ
なぜ「オタク」の一部が「表現の自由戦士」となってしまったのか、最近ちょっと思っているのは、現在中年の(1979年生まれの私ぐらいの)オタクは、オタクがマイノリティな存在から公認された存在、とりわけネット上でプレゼンスの大きな存在に成りあがるプロセスと、自己の人生が重なっているため、過剰に「オタク」というアイデンティティに自己を賭けてしまうのかな、ということです。
ただそれは、アイデンティティとして危なっかしくもあると思うのです。私は多数派に属している、というのは、言い換えれば自分は多数の中の一人に過ぎないということでもあります。多数の一人である自分をどう独自なものとして位置付けるか、そこにまたハードルがあります。そこでコケて変なことをしてしまい、問題を起こす「オタク」もネット上にはよくいます。
これはもうコンテンツへの内発的な愛ではなく、ヴェブレンの表現を転用すれば、見せびらかすための顕示的消費にすぎません。
他にも例えば、「温泉むすめ」の設定を批判した人に、「温泉むすめ」の画像をひたすら送り付けた連中とかもそうでしょう。しかもこの件はその後、画像を送るのはキャラクターの使い方としてよくない、と「温泉むすめ」にコラボしていた居酒屋の経営者の方が苦言を呈したところ、今度はその居酒屋の方が「表現の自由戦士」どもに無茶苦茶に粘着され攻撃され、飲食店サイト上での店の評判が荒らされるなどして、ついには法的措置に至るという惨事に発展してしまいました。
新聞一面広告が顰蹙を買った『月曜日のたわわ』を、わざわざ買ったと公言してみせるのも同様でしょう。コンテンツが好きなのではなく、「俺はすごい『オタク』だぞ」と見せびらかすのが目的となっているのです。コンテンツを自分の楽しみのために鑑賞するのではなく、自分がひとかどの存在だと見せびらかすために消費しているのですね。これも顕示的消費の変種といえそうです。
そうやって注目や反応を集めるうちに、コンテンツが好きという原点を遠く離れて、ネットで「オタク」として注目を集めることに依存してしまっている人が結構いるんじゃないか、私はそう思うのです。どんなコンテンツを享受するよりも、自分自身をコンテンツ化することで快楽を得るようになる倒錯です。こうなると、アニメや漫画などのコンテンツは、自己宣伝の素材に過ぎなくなってしまいます。
そう、宣伝というキーワードを得たことで、私は「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の(と思いたい)「オタク」の行動についてようやく納得のいく理解ができたと感じました。
このきっかけになったのは、最近発売された大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』です。本書で大塚氏は、オタクコンテンツの特徴であるメディアミックスという手法の原型は、戦時下の国策宣伝(精神的動員)にあるということを論じます。そして、そのメディアミックスにおける一つ一つのコンテンツ(漫画にせよ、映画にせよ、演劇にせよ)は、「作品」ではなく「広告」であったと論じ、それは戦後の子供向けアニメ作品でも、スポンサー企業の広告のメディアミックスの一環であったという形で継承されていると指摘します。
これを読んで私は膝を打ちました。「表現の自由」を掲げながら、他人の批判という表現の自由の行使をヒステリックに「表現の自由の侵害」と叫ぶ自称「オタク」のやっていることは何なのか、あれは「宣伝」「広告」だったんだと。
総動員体制下のメディアミックスは、大塚氏の前著『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』でも論じられたように、国民の内面を動員します。国策キャラクター「翼賛一家」は二次創作しやすいように作られ、手塚治虫のデビュー作はその二次創作だったともいいます。
つまり、国策の宣伝を受け取った国民が、自分もそれを二次創作して「協働」(これも戦時下の用語)することで、国策宣伝を再生産すると同時に、自分が国策に貢献しているという満足感を得るのです。そうやって国策を、自発的に国民に受け入れさせるのが、戦時下のメディアミックスでした。そして大塚氏はこう論じます。
……そもそも戦時下に設計されたそれらの文化創造や政治参加のあり方は良くも悪くも(私見ではより悪く)SNSやオンラインと整合性が高いとも考えられるのだ。
(『大東亜共栄圏のクールジャパン』p.15 原文傍点は傍線に代える)
そこで考えてみると、夙に指摘されていますが、最近の「オタク」には作品批評をするどころか、批判を病的に嫌がる者が少なくありません。そんな彼らのコンテンツについての発言は、「批評」ではなく「宣伝」「広告」だったと考えればしっくりきます。「宣伝」だから、作品の魅力を深く掘り下げることはせず、とにかく目立って、分かりやすく図式化して、キャッチフレーズをちりばめる。「公式」を忖度して、批評しないで「広告」役を勝手に買って出、それで資本に便利使いされながら、自分が文化の担い手であるかのように思い込む。そして、その宣伝がたくさんネット上に出回ることで、自分自身の存在も大きくなったかのような妄想を抱くのです。
SNSがこの自主的宣伝活動を加速させます。誰でも手軽にできて、批評のように文章の長さはいらない。そもそもSNSプラットフォーム、いやインターネット自体が、広告による無料サービスによってその相当部分を支えられているので、宣伝活動との相性がいいのは当然なのでしょう。
ついでにいえば、今の社会自体が、広告代理店的マインドに満ち満ちているようでもあります。安倍政権や維新の会がやたらと人気を博したのが、広告代理店の得意とする宣伝活動で「やっているふり」をし続けていたからだ、という指摘もまたすでに数多くなされています。ツイッターで自公政権を支持し野党を攻撃していたアルファアカウント・Dappi が広告代理店の仕業だったらしい疑惑は、その代表例といえるでしょう。
そういうわけで、コンテンツを愛すると称する「オタク」の一部分は、コンテンツそのものではなくて、その宣伝活動が好きなのです。コンテンツについて議論し、批評してより深く味わうのではありません。次から次へと情報をばらまいて、それで何かに寄与し、自分もそれに参加することで、「勢力」を拡大したつもりになっているだけなのです。
これが引き起こす問題はいろいろ考えられますが、宣伝に身をやつして反応を得ることにばかりかまけていると、コンテンツ本体より宣伝の方が重要であるという勘違い(安倍政治や維新の会のような)をしてしまいます。おまけの広告を本体と勘違いするようになるのです。
「広告屋なんていっても所詮チンドン屋ですよ」
と、自嘲する人がよくいる。大あたりい! まさにチンドン屋だ。電通のあの巨大なビルの奥には秘密の部屋がひとつあって、ドアをあけると、丹下左膳の衣装を着てタイコを抱えた男が一人、ヒッソリと何十年も座っている。彼こそは広告屋の本質である。本質というのは忘れ去られやすいので、彼はそこで誰の訪れもないままに逼塞している。
大売出しをする商品がなければ、チンドン屋は成立しない。だから彼は影のような風貌をしている。ただしこの影は実体を求めて膨張し続ける影だ。チンドン屋は転がり続ける。付加価値で途方もなく膨れ上がりながら。……チンドン屋は、影は、実態を見つけて今や立派なモンスターとなった。
これは自身広告屋だった故・中島らものデビュー作『頭の中がカユいんだ』(1986)の一節(集英社文庫版で pp.21-22)です。この作品の最初の発行から30年以上を経て、モンスターと化したチンドン屋は、商品よりも自分自身を目立たせるようになったのです。
チンドン屋があまりに目立つので、チンドン屋と相性のいいネット空間では、自分でもチンドン屋を始める連中が続出しました。多くの人がそれにかまけた結果、先鋭化した一部のネット民は、自分がチンドン屋どころか丹下左膳のつもりになっているのかもしれません。
こうして暴走したチンドン屋の宣伝は、もはや商品はどうでもよく、自分自身が注目を集めることに捉われてしまっているのではないでしょうか。一部の「オタク」では、コンテンツを宣伝するうちに、そのコンテンツと自己が融合し、宣伝している自分もまた宣伝する対象と化しているのでしょう。
ここで想起すべきは、日赤『宇崎ちゃんは遊びたい!』事件にせよ、JAなんすん『ラブライブ! サンシャイン!!』事件にせよ、日経『月曜日のたわわ』事件にせよ、多くの「萌え」表現関係のトラブルは、コンテンツそのものよりも、コンテンツを利用した宣伝が問題となったのだ、ということです。コンテンツ自体を発行停止すべしという論はなく、「この宣伝はどうかと思う」というだけなのに、それを「『萌え』表現が攻撃された!表現規制だ!」と勝手に捻じ曲げて拡大解釈する自称「オタク」が大量発生しました。どうにも不思議なことで、その程度の文脈も理解できないのに、コンテンツが鑑賞できるのかと思わずにはいられません。
このような無理くりな「萌え」擁護というか、批判への過剰な敵意に満ちた反応を、
私はかつて「萌えもえ無罪」と呼んだことがありますが、何度も同じことを繰り返しているのには呆れます。広告という、企業の営業の自由の一角に過ぎないものを、個人の表現を権力に束縛されない権利と同一視してしまうのです。
でもこの不思議さは、「広告宣伝する」ことを自己実現の手段と化してしまった人が多かったから、と考えれば納得できます。いくら「萌え」広告批判者が、宣伝が場違いなだけでコンテンツは別に構わない、といっても、一部「オタク」が猛烈に怒るのは、宣伝批判を自己否定と受け止めたからです。
これに関連して、この手の「萌え」広告自体が、コンテンツの販路を広げるというよりは、「オタク」の社会一般への自己宣伝なのではないか、という注目すべき指摘をした方がおられます。
「示威的広告」とは巧みな表現だと感心させられますが、まさにこのような、自己を見せびらかすような広告的活動こそ、「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の自称「オタク」がかまけていることなのでしょう。
これは一面では、コンテンツにしっかりと自己をもって対峙せず、だらしなく融合して、コンテンツ宣伝を自己宣伝と同一視してしまっているということであり、表面上は広告の奉仕活動に見えても、本質的にはコンテンツに対し失礼な行為だと思います。コンテンツを踏台にしているのです。作品の魅力の掘り下げにつながらないどころか、下手をすればリプトン紅茶『ごちうさ』コラボ事件のような事態を招いて、逆宣伝になるのです。
コンテンツを利用した自己宣伝の行きついた先が、赤松健氏による山田太郎議員の著書『表現の自由の闘い方』へ寄せたマンガ、「ヤマーダクエスト」(通称「レドマツ・ヤマーダ」?)でしょう。
あまりのひどい内容に呆れる声ばかりでしたが、これこそ自己宣伝化したコンテンツ周辺を象徴する事象だと私は思います。「オタク文化」コンテンツを自己宣伝の手段に堕し、有権者の「動員」を図る広告と化しているのです。それが自己宣伝が過ぎて、プロパガンダ作品としてコケているというオチがまことに皮肉ですが。
もっとも赤松氏の創作それ自体が、もともとあるテンプレートを忠実になぞることで、労力に対する売上の最大化を狙ったものといえるのでは、と私は思います。私は実はほんのひと月くらいですが、赤松作品を熱心に読んでいたことがありました。『魔法先生ネギま』?『ラブひな』? いいや、それは氏のデビュー作『A・Iが止まらない!』の連載が始まった時、1994年(!)でした。当時としてはキャッチーな、「萌え」の先祖的?絵柄に惹かれて、当時リアル厨房だった私はしばらくせっせと『少年マガジン』を読んでました。しかし二人目だったっけかの美少女キャラクターが登場したあたりでハタと思い当たったのです。
「これって『ああっ女神さまっ』と同じじゃね?」
以後、私は赤松作品を「ヤマーダクエスト」まで1ページだに読んでいないのですから、最古参の赤松アンチと言えるかもしれません!?
4. 「表現の無責任」について
話を戻して、こうして考えていくと、「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の「オタク」が求める「表現の自由」とは、所かまわず自己宣伝して、なおかつそれに異論を挟まれない(自己を受け入れさせる)権利という、まことに以て自分勝手な要求の面が否定できないのではと思うのです。私はこれを仮に「表現の無責任」と呼んでいます。
このような一部の「オタク」は「売れている」コンテンツを宣伝します。表面的には好きなコンテンツを推しているように見えても、それは売れているから選ばれたのであって、批評眼はありません。自分が感銘を受け、素敵だと思ったコンテンツを宣伝するのは、何のどこを推すかで自分の批評が反映されます。しかし「覇権アニメ」(下品な言葉ですね)に乗っかって、断片化された決めフレーズをネットで叫ぶのには、批評精神はいりません。むしろ批評という個性のない、売れているという「客観的」な数値の方が、万人向けの宣伝になります。
「売れているから」自分も乗っかって宣伝するというのは、宣伝の成功率が高そうだからでもあります。売れていないものを売るのがチンドン屋の腕だとすれば、これはチンドン屋にしても本末顛倒でしょう。しかしこうやって自分の宣伝が「成功」したつもりになることで、自分が社会に認められた妄想を抱くのです。
こうして、コンテンツをダシに、売れているものに乗っかって、自分もマジョリティだと誇るのは、「オタク」の原義からすればまったく別物と言わざるを得ません。「くだらない」と言われがちなアニメやゲームに耽溺することで、マジョリティの価値観を相対化したオタクの影はそこにはありません。しかもややこしいことに、マジョリティというだけでは多数の中の一人に過ぎないので、「特別な自分」を獲得するためさらなる宣伝活動に勤しみ、居酒屋に粘着するなどの迷惑行為にすら及ぶ者も出るのです。
「表現の無責任」というのは、コンテンツの宣伝を通じて、自己もまたコンテンツと化して宣伝の対象とし、その自己宣伝を無批判に受け入れてほしいという、たいへん虫のいい、傍迷惑なことだと私は考えます。自分の領分と思い込んだ表現(宣伝)を批判されたくない、というのは、言い換えれば「ありのままの自分」を受け入れてほしいという欲求なのです。当然、社会的責任などは埒外となります。
なお日本のコンテンツ文化を、「『ポリコレ』まみれの海外と違った個性がある!」と主張して、表現における差別への配慮を排撃したがる連中が巷間みられます。赤松氏も同様の主張をしていたかと思いますが、国際的水準への配慮を拒むくせに「『自由』にやれば『個性』が発揮されて世界から評価される!」と世界の目を集めたがる自分勝手さもまた、「ありのままの自分」を高評価で受け入てほしい、という欲求の反映と考えられそうですが、これは別の機会に論じることにしましょう。
もちろん、自分のことを受け入れてほしい、という欲求自体は当然あっていいことですし、それなくしては安定した精神的生活は営めません。ただそのやり方が間違っている、受け入れてもらう他者への配慮がない、といった問題が「表現の無責任」には付きまとっているわけなのです。
ここで私は、鳥肌実の自己紹介演説ネタを思い出さずにはいられません。そこにはこんな一節があります。
鳥肌実42歳厄年。
訴えたいことがないんです。
メッセージのない演説家でございます。
自己紹介は得意でございます。
好感度を上げたいんです。
ネットの「表現の自由戦士」とは、コンテンツの話をしているようでいて、コンテンツについて「訴えたいこと(批評)がない」、「メッセージのない」広告屋であって、その真意は自己もコンテンツ化して宣伝(「自己紹介」)することで、他者からの承認=「好感度」を得たいというものではないでしょうか。
鳥肌実の黙示録的表現を敢えて深読みすれば、「42歳厄年」も意味ありげに思えてきます。「オタク」がすでにマジョリティだった若年層は、「オタク」に過剰なアイデンティティを抱く場合はそう多くはないのではないでしょうか。むしろ現在厄年あたりの、「オタク」の勢力拡大にアイデンティティを重ねすぎた層の中に、ネットにかまけたためか、コンテンツを鑑賞するだけの価値観と教養を自己の中に積み重ねられなかった一群があるのではないでしょうか。加齢により若者のノリでのバカ騒ぎも辛くなってきて、そこで勝手に「敵」をでっち上げて、その「敵」に対する虚構の対抗宣伝活動に勤しむことで、アイデンティティ・クライシスの対策としているのではと、私は疑っています。
さらに問題なのは、このようなアイデンティティ形成を安易な藁人形叩きに頼ってしまう人々を、自己のために利用する徒輩も現れているのです。赤松健・山田太郎、ひいては自民党自体がそうだと言えるでしょう。自民党の体質がジェンダーの平等はじめマイノリティの権利を尊重するという人権擁護と真逆なことは自明ですが、ジェンダー平等を唱える「フェミ」を仮想敵とすることで、「オタク」と保守層はミソジニーによる「神聖な同盟」を結べるのです。
この「神聖な同盟」は、大塚氏の指摘を思い起こせば、いともたやすく現在の権力者に都合のいい院外団的存在として、「オタク」が動員されかねない可能性をもたらします。「表現の自由」を叫びながら、その実自己宣伝の押し付けにばかり狂奔する連中が、権力からの表現の自由という基本的人権を制約する憲法改悪の手先となるのは、悪い冗談を通り越しています。
赤松氏の野望は、もしかすると政治家としてこの院外団的存在を率いることで、党内でもプレゼンスを獲得することなのではないでしょうか。私は、これは「大日本オタク報国会」を作ろうとしているのではないか、と疑っています。しかもこれに「自発的に動員」されることで、「オタク」は自分が国策に適っていると満足するのです。
この政治的な危機のほかにも、「表現の自由戦士」の攻撃性を利用して、自己の利益にしようとしている「ネット論客」は、何人も数え上げることができます。憎悪と偏見を煽るだけの、とても簡単なお仕事です。それを金銭的利益にまでつなげるのはいささかハードルが高そうですが、「表現の自由戦士」たちを領導するという精神的利益は小さくないのでしょう。
そういった宣伝の宣伝(!)に励む連中によって、ネット上で「フェミ」叩きの「界隈」が形成されてしまうと、ほんらい「表現の自由」を捻じ曲げて自己宣伝しなくてもアイデンティティを満たせていたようなオタクまで、その蟻地獄に転落してしまいかねません。コンテンツにちゃんと向き合えていたはずの人が、ネットでの「盛り上がり」に同調して、目が腐ってしまうのです。これはオタク文化にとっても悲しむべき損失なのです。
5. ギャラクシー!
さてそれでは、この状況にあって人はどうすべきなのでしょうか。
まず一つ断っておくべきことは、自己宣伝をしたいという欲求自体はむしろ自然なものであり、承認欲求を正当に満たされることは、精神の安定に不可欠です。どんな表現、意見の表明にだって、いくらかは自己宣伝の要素が含まれていることでしょう。自己宣伝そのものが常に悪いわけではないのです。
問題はおそらく、宣伝すること自体が最大の目的になってしまい、影が本体を乗っ取ってしまっていることにあります。
昨今の就活シーンにしばしばみられることですが、コミュニケーション能力を磨けば万事解決と思い込んでしまい、コミュニケーションする材料となるだけの教養を身に着けることを忘れてしまっている人がいます。とりわけ大学生というのは、コミュニケーションする際の材料を集めるモラトリアムなのですから、優先順位が顛倒していると私には思えます。端的に言えば、話が詰まらんのをコミュニケーション能力のせいにしてはいけないし、ましてそのような倒錯した考えを学生に吹き込んではいけない、ということです。
結局、他者に特別な承認をして欲しいなら、特別な何かを自分の中に作らないといけないのではないでしょうか。
そのためにはまず一人でしっかり何かに耽溺して、受け入れてもらえるだけの蓄積を自分の中に作ることが大事なのではないでしょうか。自分そのものをコンテンツ化してしまうのではなく、自分がしっかりコンテンツを編んでいく意識が必要なのではと思うのです。
何かに耽溺するといっても、具体的にはなかなか難しいかもしれません。私は鉄道趣味をこじらせた結果、近代日本史の研究者になったという極端な例なので、人間というものは何か好きなものがあってそれを掘り下げたいと誰でも思っていると、長らく能天気に信じていました。もちろん病苦にあえいでいるとか、貧困に苦しんでいるとかであれば思うようにはできないでしょうが、それは福祉など社会の問題です。しかし近年になって、実はそこが一番難しいことなのかもしれないと思うようになりました。
自分自身の外部に「好き」なものを持ち、それを追求したいと思うのは、自己宣伝大好きな人の多さを思うに、意外と少数派なのかもしれません。かつてオタクが色目でみられたのは、もしかするとそこで、楽しそうなものを持っているマイノリティとして嫉まれたからなのでしょうか?
オタクというのは、耽溺する対象はすでに見えているので、「酒・女・ギャンブル」しか話題がないおっさんより進むべき道が見えていて、アドバンテージがあるはずなのです。ただ元来、オタクというかマニア的な趣味は、まず自分一人でしっかり趣味をすることが根底にあるんじゃないでしょうか。それが、他人に受け入れてもらうことが先に来て、自分自身をコンテンツ化し、批判を逆恨みする無責任さになってしまっては、肝腎の承認欲求も得られないのではないでしょうか。質の悪い承認欲求の獲得をしてしまうと、長い目では自分にも周囲にもためにならない(サステナブルではない)のではないでしょうか。
赤松健氏に代表されるような「表現の自由戦士」の主張は、敢えて言えばコンテンツ文化に寄生する癌細胞のようなものではないでしょうか。一時的に大増殖して盛んに見えても、やがて本体を衰弱させてしまうのです。コンテンツそれ自体にがっぷり四つに取り組まず、それを利用して自己宣伝する手段にすり替えてしまっているのですから。
そういった欺瞞的手段に身をやつしていると、いわば依存症になってしまうのではないでしょうか。蓄積がないので「敵」を叩いてしか自己を表現できず、次から次へと叩いて回っているうちに、肥大した自己宣伝と実際の貧弱な自己との懸隔が、身辺を砂漠化させてしまうのです。そうして無為に年を重ねてしまうと、それこそ唐沢なをき先生の名作『まんが極道』『まんが家総進撃』に出てくる老醜「オタク」・干野ギミノリが将来の姿となってしまうのではないかと懸念するのです。
『まんが極道』6巻 第52話「老後」p.58より 干野ギミノリと仲間たち
長々と書いてきましたが、まとめたいと思います。「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の自称「オタク」は、総動員体制由来のメディアミックスに乗っかって、コンテンツの広告をすることで自分も注目された気になり、コンテンツ広告=自己宣伝を他人に押し付けることで、自分が特別な存在と承認された気でいるのです。
これによる弊害は、自己宣伝のために他人を道具としてしか見ない、他者への想像力を欠いて人権を抑圧しかねない、ということになります。「表現の自由」という人権を掲げて人権抑圧しかねないのは、タチが悪いにも程があるでしょう。
そのような広告代理的マインドの悪いところを煮詰めたような弊から逃れるには、まず何よりコンテンツをしっかり鑑賞し、批判すべきは批判する、そして何より自分が何が好きかをしっかり受け止めることといえるでしょう。その「好き」を掘り下げることで、他者との対話も開けます。
私がかねてから主張していることですが、「好き」をどんどん掘り下げていけば、おのずと同好の士は見つかり、承認欲求も満たせるでしょう。攻撃的な負の形ではない、良い形での充足です。本当に「好き」なら、掘り下げるのは楽しく自然にできるはずです。
今時のオタクならすぐ思い浮かぶ例があるでしょう。『ラブライブ!スーパースター!!』の平安名すみれは自己宣伝に必死でしたが、ちっともうまくいきませんでした。しかし澁谷かのんと唐可可の「好き」に触発されることで、ショウビジネスへの純粋な心を再燃させ、グソクムシからスクールアイドルへと飛翔できたのです。
だから私は、「オタク」で「表現の自由」をネットで叫ぶことにかまけている諸君にこう呼びかけます。スマホを捨てろ、現実に戻る――んじゃなくて、アニメのDVDを1クールぶっ通しで見るとか、徹夜でゲーム(ソシャゲ以外)をするとか、コンテンツに耽溺しようと。ネットの「仲間」よりコンテンツを愛せと。
最後はもう一度、中島らもの引用で締めくくります。
結局、人間はどっかにポッカリとばかでかい穴があいているのだ。何かで埋めなくてはいけない。埋められれば何でもいい。その結果、腐った猫の死体をいっぱいに詰め込んだ連中が意気揚々とカフェバーにたむろすることになるわけだ。(『頭の中がカユいんだ』p.79)
30年前にカフェバーにたむろしていた連中は、今はネット上で暴れています。願わくは、一人でも多くの人が、「腐った猫の死体」よりもマシなもので、穴を埋められますように。
※本記事は2021年9月12日・2022年4月23日・同5月5日にツイートした内容を中心に、大幅に加筆修正して作成しました。