東京急行電鉄が改称した株式会社東急は、1922年9月2日を創立と位置付けており、2022年は百周年の記念すべき節目に当たります。
会社の誕生日をいつとするかはいろいろ考え方があり、鉄道会社なら創立の会を開いた日か、登記日か、あるいは開業して汽車や電車が走り始めた日か、会社によっても違うようです。また東急もそうですが、複数の会社が合同してできた企業の場合、どの会社を源流とするかはいろいろな場合があり、また合同した日を誕生日とすることもあります。
で、東急では、登記上の源流である目黒蒲田電鉄の創立の日を誕生日としています。同社のさらに源流は、田園調布を手がけたことで名高い田園都市会社(田園都市の子会社として目蒲は創立された)ですが、その後目蒲が田園都市を合併したので、登記上の源流は目蒲になります。目蒲がのちに兄弟会社である東京横浜電鉄と合併した時は、目蒲が存続会社となりつつも社名を東横電鉄と改称しています。その東横が、小田急と京浜を合併して東京急行電鉄になったので、書類上は確かに目蒲創立の日が東急の誕生日といえますね。
もっとも、被合併会社では、玉川電気鉄道が明治末年に開業していて歴史が一番古く、東横電鉄も免許を得たもともとの武蔵電気鉄道は目蒲より古い経緯があるのですが、これは傍流と位置付けているようです。まあ近鉄も、主流と言える大阪電気軌道より、南大阪線をつくった大阪鉄道のもととなった河陽鉄道の方が創業は古かったりしますが、
同社の百年史は大阪電気軌道基準で数えているようです。
というわけでめでたく百歳をむかえた東急は、日本の私鉄の特徴である多角経営を早くから進めて、私鉄界でも随一のグループ企業を擁する一大コングロマリットとなっています。近年では百貨店やバス、不動産など主要兼業のみならず、祖業の電車も事業子会社化、略称の東急を社名にして、持株会社となっています。これは他の大手私鉄も近年同様の形態を採っていますが、その本社の多くが百人程度の少数精鋭?の陣容なのに対し、東急は本社だけで社員千五百人を数える大企業だそうです。それだけグループが大きいということなのですね。
で、東急も一世紀の歴史を記念して、いろいろイベントをしています。ラッピング電車(中も百年記念展示だそうです)も走らせているそうですね。その記念事業の一環として、東急は100年史を編纂し、今時らしいと思うのですが、ネットで公開しています。社史は売って儲けるようなものではないし、ネットで無料公開して一人でも多くの人に読んでもらう方が、意味があるとも言えますね。以下のリンクからご覧ください。
東急の百年史は、全篇を同時にではなく、古い方から順次公開されています。戦前の第1章はゴールデンウィークに公開され、現在は第4章(1970年代まで)が公開されています。全体としては相当のボリュームになりそうです。
この社史は、近年の阪神や近鉄や京阪や西鉄のように、外部の経済史・経営史家に委託して作るのではなく、主にライターの建野友保さんが東急本社と協力して執筆されています。ほとんど一人であれだけの分量のものを書かれるとは頭が下がる思いで、さぞかし大変な作業だったろうと思います。改めて建野さんのご尽力には深く敬意を表する次第です。数年はこのお仕事にかかりきりだったのではないでしょうか。
なんですが、前半とりわけ戦前部については、さすがに50年史準拠では現在の歴史研究からすると古い部分もあるということで、外部の専門家が助言することになりました。それでお呼びがかかったのが、青山学院大学の高嶋修一先生と、なんと私でありました。高嶋先生は鉄道史・都市史などの研究をされて、東急が開発した玉川村(現在の世田谷区)における地域の耕地整理について研究書をものされています。また都市鉄道についての快著『都市鉄道の技術社会史』は、交通図書賞を受賞しました。
私は、五十年史では手薄だった電灯電力兼業に詳しいということで、電気事業や被合併会社の話などをそれなりの分量加筆するというお仕事をする機会に恵まれました。正直なところ、これはとても嬉しいことでした。私は電車とりわけ私鉄の電車が好きな鉄道マニアで、幼時から鉄道の知識を蓄えては喜び、挙句の果てには大学院で鉄道史(電力業史でもありますが)の博士論文を書いて学位を取りました。小さい頃は京急沿線民でしたが、小学生以降は一貫して大学院まで東急沿線に住み、東急にも相応の思い入れがあります。研究者以前に一鉄道マニアという自意識がありまして、そういう人間にとって大手私鉄を代表する、自分も沿線民の東急の百周年記念事業の一端に、小なりとはいえ名を連ねることができたというのは、まことに光栄なことと嬉しく思っています。40年もマニアやってると、時にはいいこともあるものですね。
というわけで、上掲リンクからぜひ「東急100年史」をご覧ください。私が書いたのは第1章の一部だけですが、その続きももちろん読みごたえがあります。50年史以降の五島昇の積極的な経営について、また昇没後の経営再建に奔走するグループの苦闘など、読みどころは多いと思います。もちろん沿線民にとっては、身近な街がどうできてきたか、開発の詳細を知ることができ、「なるほどあの施設はこういう経緯でできたのか」と、自分の住む地域を深く知る楽しみがあります。また沿線以外の方にも、日本型私鉄の典型というべき東急の経営史は、一つの日本的近代モデルとして学ぶところがあると思います。
という告知だけでは芸がないので、以下原稿に載り切らなかった、あるいは本筋と外れたりちょっと怪しいので載せなかった小ネタを列挙して、マニア諸兄のご一興に供する次第です。まあだいたいはツイッターでつぶやいたトピックですが。主なネタ本は資料調査で読んだ、沿線の郷土史の発行物です。
1. 田園調布史上もっとも贅沢なお見送りサービス
これは、開発されて間もない頃の田園調布の、長閑なお話です。
今でも目黒線は田園調布の一つ手前の駅である奥沢に留置線があり、奥沢止まりの電車があります。この車庫は昔からあり、その関係で昔も目蒲線の下り終電車は奥沢止まりでした。その終電車に親子連れで乗った田園調布の住民が奥沢に着くと、駅員に「どこまで行かれますか?」と聞かれました。そこで隣の駅である「田園調布まで」と言ったら、「じゃあ送りましょう」となって、なんとその終電車で田園調布まで送ってくれたとか。にわかには信じがたく、信号とかはどうしたのかと思いますが、この話は郷土史の発行物に送ってもらった当人の回想として記されているので、本当なのでしょう。その郷土史とは、大田区史編さん委員会編『大田の史話その2』大田区(1988年)です。
2. 獄入り意味多い!?
東急の50年史でも100年史でも、1933年10月に東京市長選挙に絡んでの贈賄疑惑で五島慶太が逮捕され、半年の拘置所生活を送った話が載っています。これはのちに無罪となりましたが、獄中で諸書を読んで精神修養に励んだ五島は、これをきっかけに教育事業にも乗り出し、東横商業女学校(のち東横学園女子短期大学、現在の東京都市大学に合流)を創設したと、両方の社史にあります。
ですがこれ以外にも、五島は獄入りしたことがあります。それも奇縁にも学校がらみの話でした。五島は阪急の小林一三に多角化経営のノウハウを学んで真似をしたと公言していますが、しかし一つだけ自分は小林にないオリジナルの経営をしている、それが沿線への学校誘致だ、とも書いています。沿線への学校誘致は阪急もしていますが、時期的には五島の方がちょっと先のようで、確かにこれは五島の方が小林の先輩かもしれません。
誘致した一つが今も駅名になっている学芸大学の前身、東京府立師範学校です。学芸大学はいくつかの師範学校を統合して新制大学にしたので、最初はキャンパスがバラバラでしたが、のちに現在の小金井に集約されて、東急の学芸大学駅前に学芸大学はないまま、今も駅名だけが存続しています。この駅名も当初は、青山師範駅でした(師範学校は青山から下馬に移転した)。この青山師範郊外移転に際して、東横ひいては五島が贈賄疑惑をかけられたのです。
師範学校の移転先は、当初は豊多摩郡の高井戸方面が有力だったのですが、これを下馬にして欲しいと地元が運動、学校の方も下馬の方が東横線があって便利だとそちらに変更します。ここで運動したのが、朝倉虎治郎という東京府会のドンといわれた大物地方議員でした。朝倉は渋谷(当時は町だった)の出身で、早くから渋谷の開発には東横電鉄の力が必要と、五島の事業を後援していました。五島と朝倉は、やはり渋谷町会議員だった中西清一の仲介で、東横や目蒲の創業以前から知り合いだったといいます。中西は満鉄の副社長も務めた元高級官僚で、鉄道院にいたころの五島の直属の上司(監督局長)でした。
で、五島は1929年以降、朝倉に選挙資金を支援していました。朝倉も東横系のバス会社・代々木自動車の取締役を務め、同社が東横自動車に吸収されたら監査役になっています。それ以上に、朝倉は東横による渋谷の用地買収やバスの免許のほか、東横百貨店を建設するのに五島が繰り出した妙手・渋谷川に蓋をして用地にする作戦にも側面支援をしていました。そんな朝倉が、五島から賄賂をもらって師範学校移転を下馬に変えさせたのではないかと、1933年末ごろから疑惑が持ち上がり、朝倉や五島が逮捕されたほか、世田谷で用地買収に協力していた地元の地主まで、あおりを食らって拘留されてしまいます。学校誘致には用地の取得が大事で、そのためには地主との協力関係が不可欠なのです。
この件は結局、府会には直接師範学校の移転先を決める権限がない(決めるのは府参事会)ということで無罪になりましたが、朝倉は五島とは無関係の別件で有罪となり、東京府会のドンも終わりを全うできませんでした。学校誘致というのもいろいろややこしい話があるというわけです。
この話は、『目黒の近代史を古老にきく』という郷土史の本で岡田衛という元地主が語っていた話のほか、『朝倉虎治郎翁奇禍顛末』という無慮千ページはある資料集をめくって分かったことですが、まったく社史には反映できなかったので、ここで供養しておきます。
3. 書類の上の学園都市
学校誘致の話を続けますと、東横電鉄の学校誘致で有名なのが、今でもある日吉の慶應大学です。古くからの名門校の移転は、沿線価値の向上にも意味があったといわれています。
で、東横電鉄は慶應を誘致するため、必要な土地を寄付したと50年史などでは書いています。寄付したなら土地は会社の資産ではなくなり、慶應のものとなるはずです。ところが営業報告書を見ていると、不思議なことに慶應の日吉移転に伴って財産目録に「学園都市勘定」なるものが登場し、会社の資産のままの扱いなのです。慶應が分割払いで土地を買ったので売却予定の資産にした? でもそれじゃ「寄付」じゃないですよね。おまけにこの学園都市勘定、地価上昇に応じて評価額を上げており、ますます怪しい資産です。
この話にはオチがないので、もう一つ慶應がらみ小ネタ。沿線への学校誘致は通学客を増やすのが第一ですが、それをきっかけに農地から開発されたばかりの地域の発展を刺激する狙いもありました。学生相手の店や住宅ができて街が賑わうわけですね。というわけで、これまた交換で入手した用地に疑惑のある、大岡山への高等工業専門学校(現・東京工業大)移転を実現しました。ところが、これは今でもそうかもしれないのですが、理系の学生は実験などで忙しく、真面目に勉強する人が多いので、目蒲電鉄の期待に反して駅前に商店街ができませんでした。その点、慶應が来た日吉には、それはそれは賑やかな商店街が形成されたそうな……。
4. 高飛びにあらず豪遊なり
前節で大岡山への高等工業移転に際して疑惑がある、と述べましたが、これは関東大震災からの復興に際しての疑獄事件です。蔵前にあった高工が焼けてしまい、そこで田園都市会社がそれよりだいぶ広い大岡山の土地を移転用として提供する代わりに、蔵前の土地を交換でもらいました。その土地は復興事業の資材置場として復興局に買い上げられ、この一連の土地ころがしで田園都市は90万円ともいわれる巨額の利益を得ました。この土地を復興局が高く買い取る代わりに、担当者が裏金を作るため賄賂を取ったという疑惑で、復興局側の担当者と田園都市側の当事者・支配人の河野通が捕まっています。
河野通についてはもう10年以上前ですが、当ブログで京成電鉄100周年に際して記事にしましたので、ご参照ください。
で、この記事が縁となって、河野通のご子孫の方がお持ちだった河野通の史料を拝見させていただいたことがあるのですが、その内容も社史に反映させたかったものの叶いませんでした。この史料はその後、渋沢栄一記念財団の渋沢史料館に託されたと伺っています。
その残された史料で興味深いのが、河野通の外遊日記です。これは田園都市会社から目蒲・東横の歴史を描いたノンフィクションとして有名な、猪瀬直樹『土地の神話』では、河野は復興局関係の疑獄から逃れるために海外へ高飛びした、と断じています。
しかし、この河野の外遊日記を読むと、どうも米英各地を観光して回っており、現地で在外邦人とも積極的に交流しています。さらに船で出航する際に神戸港に寄港した時には、上陸して小林一三に会いに行ったけれど不在で会えなかった、とあります。高飛びに行く前に挨拶していくとは、また高飛び中に人に会うとは、ちょっと考えにくいことです。河野はアメリカでは野球なんかも見ていて楽しそうで、ちっとも逃げている悲愴感はうかがえません。実は逃げたんじゃないのでは、と私は疑っています。逃げるいわれがないとなれば、河野の疑惑も違った評価が可能になってきそうです。
ちなみにこの外遊日記で一番注目すべきは、イギリスでの訪問先です。どこへ行ったかではありません、「行かなかった」場所が重要なのです。どういうことかって? 田園都市会社の名前のもとになった、ハワード『明日の田園都市』の構想が実地に移された、レッチワースについての記述が見当たらないのです。河野の外遊は観光のように読み取れますが、一応海外の事業を視察するみたいな面もあったようです。しかし本家本元 Garden City を訪ねないとは、田園都市会社の支配人としてどういうことかと不思議に思われます。ですがそれは、ハワードの Garden City と日本の田園都市が別物であったという都市史の研究業績(例えば鈴木勇一郎『近代日本の大都市形成』など)からすれば、むしろ当然のことであり、これら研究の筋の正しさの傍証といえるでしょう。
5. 大正時代も鉄道マニアは多かった?
これは東横電鉄、今の東横線が1926年2月に最初に丸子多摩川(現在の多摩川)~神奈川間が開業した時の営業報告書を見ていて気づいたことです。
初期の東横線は、今昔の感がありますが、沿線の開発がまだ進んでいなかったため旅客が少なく、経営は苦しいものでした。営業報告書も乗客があまり多くない言い訳をしているのですが、そこでは、開通したてで知名度が低く気候もまだ寒いので「乗客の多数は所謂線路一覧の旅客に止まり」云々とあり、ちょっと笑ってしまいました。大正時代も鉄道マニアが大勢いて、初乗りに押し掛けたのが「乗客の多数」だった!?
実際、大正時代にも百閒先生のごとく鉄道マニアはいたでしょうが、たぶんそういうことではないのでしょう。これは娯楽の少ない当時、郊外の田園にお出かけするということ自体が「行楽」という大きな娯楽だった、そして出かける手段は汽車か電車しかなかった、と解釈するべきでしょう。初期の目蒲電鉄も東横電鉄も、実は通勤通学客より行楽客に頼る面が多かった(ついでに言えば玉電もそうだった)ということは、社史本編で説明してありますのでそれをぜひ読んでください。それが1930年代ごろから変わっていくのです。
「行楽」という言葉は、本来は「楽しみを行う」ということで、別にインドアで楽しむことに使っても構わなかったのですが、明治末ぐらいから「どこかに行って楽しむ」ニュアンスに変わっていったそうです。郊外への行楽がブームになるのは、東京では1910年代以降のことだといいます。という話は『都市と娯楽』という論集に拠ります。この本は戦前の都市における様々な娯楽を論じていますが、特に数篇を競馬に割いているので、「ウマ娘」ファンにもお勧め……かどうかは分かりませんが。
6. 今じゃ副都心というけれど
これも引き続き営業報告書ネタです。東横電鉄がやっとこさ渋谷~横浜間を開業した時期の営業報告書に興味深い表現があるのです。それは、「裏東京と横浜間の直通旅客」が増加しました、という記述です。これは面白いと思いました。当時の渋谷は、ということは現在副都心と言われてその名を冠した地下鉄路線が走る山手線西部は、「裏東京」という位置づけだったのです。軽んじた表現にも思われるのに、東横が自分で言ってしまっているところも面白いですね。
今はむしろ東京の正面は、都庁も移転して西側へ移動し、墨東など下町側の方が裏みたいになっています。あるいは海側が正面で北区や足立区が裏? 地価から言えばそうなりそうです。しかし江戸時代までさかのぼって考えれば、江戸城の「大手」は江戸城東側(大手町)で、一番繁栄していた日本橋界隈からすれば、新宿渋谷方面は「搦手」、裏ということになります。江戸→東京の「正面」「裏」をめぐる意識が大きく変わってきたわけですが、その変化には東急をはじめとする電鉄の飛躍的な発展があったことは間違いありません。東急は裏をひっくり返して表にしたのです。
裏東京という表現がいつごろまで、どれくらい使われていたのかは、今後調べることにしますが、読者の方も用例がありましたらぜひご教示ください。というわけで、もしかすると「副都心線」が80年早くできていたら「裏東京線」になった……のかな? 「小倉裏線」てのはありましたが。
7. 洗足池ボート vs. 二子読売園
今回の100年史で戦前部分の補筆の機会をいただいた折に考えたことは、50年史ではやや冷たい感のある池上電鉄(傍流の被合併会社なので仕方ないですが)をもうちょっと評価しなおせないか、幸い50年史からの半世紀で研究も進んだし、ということでした。池上も実は兼業をそれなりに頑張っていたのだ、とは100年史に書いたつもりですので、ぜひご一読ください。
50年史では、池上電鉄の兼業は洗足池の貸ボートのほかバスもやってました、くらいで、不動産や娯楽などの多角経営は本流の東横・目蒲の方が優位だったように印象付けられます。確かに娯楽の兼業で見ても、貸ボートという地味な事業に対し、綱島温泉や玉電合併後は二子読売園というそれなりのハコモノをこしらえてやっていた東横の方が盛業といえそうですよね。
ところがこれも営業報告書を仔細に読むと意外なことが分って、洗足池の貸ボートは「儲かっている」のです。それも驚くなかれ、綱島温泉や二子読売園よりも多額の利益を上げている期の方が大半なのです。投下資本は明らかに少ないのに。池上の兼業、実はスゴかった!?
まあ、当時の電鉄の娯楽兼業はそれ自体の利益より、輸送需要喚起が眼目なので、それ自体は赤字でなければいいや、くらいの感覚だったのかもしれませんが、ハコモノを作ったので運営費がかかる温泉や遊園地より、貸ボートの方が利益では上だったとは、なんだか皮肉な話ですね。
そんなイマイチ儲からない二子読売園ですが、お金は結構かけられていて、当時としては異彩を放つ絶叫マシーンの先駆けのようなものがありました。それが落下傘塔です。これは、お客をワイヤーで塔の上まで釣りあげ、パラシュート降下を疑似体験(ワイヤーでつながっているので安全)するもので、戦前としてはかなり凝ったアトラクションではないでしょうか。
この塔には嘘みたいな挿話があります。日中戦争が泥沼化し、対米戦の気配も漂ってきて、「非常時」が日常になったころ、そんなヒジョージだというのに若い男が集団で二子読売園にやってきて、落下傘塔ばっかりやっているのです。こいつら何者なんだと、遊園地が憲兵隊に通報する騒ぎになったとか。ところが彼らは実は、日本軍が対米戦を睨んで急遽編成した空挺部隊の隊員だったのです。で、まず最初の練習に落下傘塔を使ってやっていたんだとか。どうやって訓練したらいいのか、初めてのことで軍も手探りだったようです。秘密部隊なので、遊園地に事情を話して貸切にするなど協力してもらうこともできなかったのでしょうね。
しかしいくら手探りとはいえ、遊園地の遊具で訓練になったのかと思うのですが、彼らは実戦で見事パレンバン油田を占領したのですから、絶叫マシーンもバカにしたものではなさそうです。とはいえ遊園地のアトラクションが侵略戦争のお役に立ってしまうというところ、総力戦の恐ろしさを感じさせられる話でもあります。
この逸話は飯尾憲士『自決 森近衛師団長斬殺事件』で読んだように記憶しています。終戦時の宮城事件に巻き込まれ、森師団長を斬殺してしまい自決した上原重太郎大尉は、空挺部隊にいた人なのでした。
8. 下ネタで恐縮です
ちょっと重い話になったので、次はごく軽いものを。
今の目黒区五本木あたり(東横線の祐天寺駅附近)には、昭和初期のことですが、路面電車の乗務員が多く居住したため「ちんちん部落」と呼ばれた地域があったそうな。語源が分かれば納得ですが、その語感はいくら昔でもどうかと思います。
東京市電の乗務員が郊外電車沿線に住むというのは何だか意外ですが、やはり住居費が安かったのでしょう。またのち都電に編入される玉電の中目黒線は、その名の通り中目黒まで延びていたので(中目黒の電停は東横線の駅とは離れていたそうですが)、祐天寺はそれほど遠くはないといえそうです。
9. 長軸台車をめぐる仮説
最後は事実の発掘ではなく、私が思いついた仮説を。前項とは祐天寺つながり?です。
戦前の東横・目蒲の電車は「大東急」時代に3000番台の番号を与えられ、「3000系」と総称されることも多いのですが、その中で1939年製造のデハ3500とクハ3650は、長軸台車というものを履いていました。これは車軸が長くなっていて、車輪の取付位置を変えれば、1067ミリの狭軌から1435ミリの国際標準軌に簡単に対応させることができます。日本では明治末から大正初期、国鉄の広軌(標準軌)改築計画が盛り上がった際に、その準備工事として一時採用されていました。名目は「重いので安定がいい」とか適当につけてたらしいですが……大正後半から昭和初期の客車や電車、貨車に見られるものです。
で、それを履いた1939年製造の電車、これもやはり標準軌化改造をにらんだものと考えられます。1939年ごろは、地下鉄をめぐる早川徳次との有名な争奪戦があって、それに関連して地下鉄直通を構想していた京浜電鉄とその系列の湘南電鉄(ともに現在の京浜急行電鉄)の支配権も五島は握っていました。そこで従来通説的に言われているのは、東横線を標準軌に改軌して、京浜・湘南電鉄と直通させる構想だったのではないか、ということです。時期的には頷けます。
なんですが、1939年ごろの東横電鉄には、別の標準軌間の路線との直通計画がありました。それが東京高速鉄道(現在の地下鉄銀座線)です。渋谷で終点になっている銀座線ですが、実は郊外延長構想が当時ありました。それは東横線を改軌して(三線軌条化?)祐天寺まで乗り入れ、そこから駒沢を経て成城学園前まで延ばそうというもので、1936年に出願されています(改軌構想は当時の『東洋経済新報』誌に記載があります)。たださすがに東横線改軌は難しいと考えたのか、はたまた渋谷で東横線と地下鉄をくっつけるのが難しいと思ったのか、渋谷~祐天寺間の別線が追加で出願されています。
とすると、もしかするとデハ3500とクハ3650の長軸台車は、この地下鉄直通路線に転用することを視野に入れていたのではないかということが、突如思いつきました。状況証拠しかないですが、京浜・湘南直通よりは構想が具体化していたとは言えるのではないでしょうか。これは識者の皆さまのご意見を伺いたいと思っています。
ちなみに成城学園前への出願は、戦争が激しくなってそれどころではなくなり、1944年に差し戻されています。もし歴史の歯車がなんかの拍子にちょっとずれていたら、地下鉄の新橋で、成城学園前から来たデハ3500と、京浜電鉄から来たデハ230とが顔を合わせる、なんてこともあったかもしれない、なんて思うとちょっと楽しいです。
少しばかり余談を書くつもりでしたが、思いのほか長くなりました。それだけ東急の一世紀の歴史は豊かだということです。その豊かさの一端なりとも社史を通じて皆さんに伝えることができたなら、これほど光栄なことはありません。執筆の機会を下さった関係者の方に深く感謝し、次の一世紀も東急グループそして日本の電鉄が栄えることを祈って筆を擱きます。