今日は、法的根拠がなく国会の承認も得ていないのに多額の国税を使って故・安倍晋三元首相の「国葬儀」なるものが強行された日でした。さまざまな世論調査によっても、国民の過半、三分の二くらいは反対しているにもかかわらず、「一度言い出したことは全ツッパ」という安倍政治の弊風がいまだ拭えていないことがあからさまになりました。
安倍元首相殺害事件についてはいろいろ述べたいこともありますが、それはまたの機会にしまして、そんな国葬の日のまさに国葬の時間帯に、いろいろ有難い縁から、話題となっている映画の特別上映を観て、制作陣のトークも聞けるという好機に恵まれましたので、取り急ぎ感想をまとめておきたいと思います。
その映画とイベントとは、こちらです。
ネットでは一部話題になっていたり、メディアでも報じられましたので、ご存じの方も少なくないと思いますが、足立正生監督が安倍晋三殺害事件を題材に、犯人である山上徹也容疑者を主人公に据えた映画、『REVOLUTION+1』です。
この映画は上映前から、事件を題材に制作すること自体や監督が昔の赤軍派だとかで叩かれ、さらに国葬当日に合わせて特別上映するというのでさらに叩かれて、鹿児島の映画館では抗議の声で上映中止に追い込まれたという問題作です。さすがに上映中止に追い込まれたことについては、批判的な意見もかなり多く見られてホッとしましたが、とにかく安倍晋三を悪く言うことは「不謹慎」だという、物事について考えることを厭う精神性からくるであろう攻撃には断固として異を唱える所存です。
またこの映画については、公開前から足立監督のメッセージがメディアに流れていましたが、それがさらなる非難を集めてもいました。
このインタビューで元日本赤軍の足立監督は、
「これはテロじゃない」「個人的な決起を、いつからテロと呼ぶようになったのか。元テロリストと呼ばれている僕は疑問です」と述べています。これが「テロを正当化するのか!」みたいな非難を集めたのです。
ですがこれについては、話が先走りますが、上映後の制作陣によるトークでその意味が分かりました。テロールの原義はフランス革命の恐怖政治であり、もとは権力者の行為だというのです。権力を握ったジャコバン派が反対派(に限らない)をギロチンで殺しまくって恐怖で権力を維持した、それが確かに「テロリズム」という言葉の語源です。
それをはじめとして、権力のテロといえば19世紀に軍がデモに発砲したような例は無数にあります。すると反権力側も対抗してテロをするようになり、19世紀後半にはロシアを始め王や皇帝の暗殺が相次ぐことになります。この暴力の応報は20世紀も続きますが、考えてみればスターリンの大粛清を筆頭に、権力側のテロが恐るべき規模に膨れ上がったのが20世紀でした。いっぽう反権力のテロも確かに激化し、ハイジャックという技術の進歩を利用した新たなテロは、911で頂点に達します(20世紀の特徴としては、自動車を利用した爆弾テロの増加も挙げられます)。
とりわけ911の衝撃によって、「テロとの戦い」とアメリカ政府が号したことにより、もっぱら権力側が反権力側の実力行使を非難する意味合いになったのですが、元来のテロはむしろ権力側の抑圧手段だったという面は大事な指摘です。
私がこの話を聞いて思ったのは、権力か反権力かを問わず、テロは「恐怖で人を動かす」ことなのだということです。権力が逆らうものを虐殺したりするのが典型ですが、そういう社会では「自分も殺されるかもしれない」という恐怖で、人を支配しコントロールするわけです。同時多発テロも、アメリカ人に「いつ自分もイスラム原理主義者の攻撃によって殺されるかもしれない」という恐怖を与えることで、アフガン侵攻やイラク戦争を引き起こしました。こうまとめることで、「テロ」とは何かということを見通しよく理解できます。
そう考えると、なるほど安倍元首相殺害事件については、別に日本人は誰も「自分も山上のようなカルト2世に殺されるかもしれない」とは思っていません。それは安倍元首相の熱烈な支持者にしたってそうでしょう。統一協会との悪縁がことに深いと報じられた、萩生田某や山際某といった連中ですら、「第二の山上によって自分も安倍元首相のように暗殺されるかもしれない」と思っているとは考えにくいです。
だから安倍元首相殺害事件は、恐怖で社会を動かしてはいない以上、テロとは言いがたいとも思われます。「テロ」概念の濫用には気を付けたいです。事件が生んだ空気は、殺される恐怖というより、カルトが政治に浸透している不気味さというべきでしょう。その不気味さへの恐れというのはありますが、それは山上が事件を起こす前から存在していたものです。山上の行為により恐怖が搔き立てられたわけではありません。
同様に、このように考えれば、私の専門に近い話ですが、昭和初期の政治家や財界人の暗殺と本件を並べるのも妥当とは言いがたいことになります。5.15や2.26、血盟団などの事件は政治家や財界人に「自分も殺されるかも」という恐怖を与え、彼らは軍事予算を右から左に認めたり、財閥の「転向」を図ります。そのように「偉い人」が右往左往するのに、殺されるのは自分ではないと思っている一般市民が溜飲を下げた、それがテロリストを調子づかせた、という歴史は確かにあります。しかしこれは、山上の事件とは全く異なる構図です。政治家は別に殺される恐怖に怯えておらず、市民は明らかになったカルトの浸透ぶりにカタルシスどころではなく戸惑っています。「こんな映画を作って、民主主義の破壊につながる!」などというのは、見当違いも甚だしいでしょう。
この点について釘を刺したのは、慶應大学の国際政治学者である細谷雄一先生が、戦前を引き合いにまるで山上を非難しないと民主主義が壊れるみたいなことをツイートしていたからで、私は呆れてこれを批判しました。詳しくは以下のツイートからのツリーをご参照ください。
映画に話になる前に余談が長すぎました。このように非難や攻撃が少なくない本作ですが、やはり批判するなら見てからというのが望ましいことです。そこで以下に私が映画を観た感想を述べますが、ただし私は滅多に映画を見ない人間で、映画についての知識も貧弱です。ですので映画史上の流れに本作を位置づけるようなことはできませんし、映像の作り方や演技のについても素人です。そのような者の管見に過ぎないということはご諒承ください。
また今日の上映は特別上映の50分版で、完全版は後日80分になるそうです。そのような未完成作品を見ての感想だということも、お含みおきください。とはいえ、見た限りでは作品として相応のまとまりには達しているように思いました。事件が起こってから2か月半でとにもかくにも形を作るというだけで単純にすごいなと思ってしまいます。かつてのプログラム・ピクチャーの時代ならそんなの当たり前だったかもしれませんが、それは映画を即応態勢で作るインフラがあるからですよね。
素人がこんなことを言うのはお笑い種かもしれませんが、まず私が特筆すべきと思ったのは、主演のタモト清嵐さんの力演です。特に終盤、狙撃を決意した主人公が一人部屋で狂ったように踊りだすシーン(文字で書くと馬鹿げているように見えるので、これは観てもらうしかありません)は鬼気迫るものがありました。言葉にできない思いを全身で表現されていて、まるで小学生の感想みたいですが、すごいというほか言葉がありません。
この映画はまず安倍元首相殺害事件の映像に始まり、独房に閉じ込められた主人公(一応「川上」と仮名になっている)が過去を回送する形で進みます。その過去は必ずしも時系列に沿ってはおらず、あくまでも主人公の主観的心象風景であって、リアルな情景とは限りません。
これは門外漢の勝手な思い付きですが、突貫作業(8日で撮ったそうな)なのでしっかりしたセットなどを作れなかったであろうことをうまく逆用して、リアル観が薄い描写にすることで、他のキャラクターと主人公が対話しているような情景でいながら、実は脳内の世界なのではないか、と思わせるような演出になっているように感じられ、不思議な感覚に捉われます。
そんな「脳内の世界」を描いているというリアル感の薄さが、山上容疑者が陥っていたであろう、宗教二世として追い詰められた環境にあって、他者とのつながることで自分の人生を思うように切り開くこともできず、自殺を図ったりしてしまう閉塞感を、よく表しているように思います。私が考えるに、この閉塞感というのが、この作品の一つのキーワードではないかと。
その閉塞のもとはもちろん、統一協会に入信した母親にあります。もっとも近い他者と話が通じない閉塞感が、主人公を蝕んでいきます。
主人公は同じく宗教2世だという若い女性と語らいます。しかしこれは、現実ではなく脳内の対話ではないのか。他者とつながっているようで、いっそう閉塞してしまって行ってるのではないか。そんな風に感じられます。
大事なことは、この閉塞感自体がおそらく社会全体の問題でもあるということです。複雑化して他者とのつながりが難しい時代。だからこそ安倍元首相はイコンとして担がれ、閉塞感を忘れさせてくれる存在として崇められたのでしょうか? ですがそれもまた、他者とつながっているようで、脳内に閉塞している一形態に過ぎないのではないでしょうか。主人公が陥ったような要素は社会に遍在しているのかもしれないのです。
映画では宗教2世に続いて、「革命家2世」という女性も登場します。革命家の父を持って振り回された過去を持つ女性を、ある意味宗教2世とパラレルに描いていることには、元赤軍派の足立監督もだいぶいろいろ考えたのだなあと感じました。ただ山上容疑者の父親が、赤軍派の人物と大学の同窓であったというのは事実だそうで、奇縁に驚きました。
この映画の終わりは、決してすっきりとはしません。ついに安倍元首相を射殺した主人公ですが、それで閉塞感から自由になれたというカタルシスはありません。それが食い足りないように思われる向きもあるでしょうし、また80分版になったら変わるかもしれませんが、私の考えではそれこそが大事なのではないかと思うのです。閉塞感を根本に立ち返らず暴発しても、それは解決ではないのだという。だからやはりこの作品は、事件を正当化しているとは言えないのだと私は感じます。
山上容疑者が投げかけた問題は重要であり、皆が考えるべきだけれど、もちろん同じ事をしろというのではない。しかしじゃあ何をするのかははっきり分からない。それをどうするかを考えることこそ、不幸にして命を奪われた被害者や、悲惨な人生の末に事件を起こした加害者を前に、第三者(大部分の国民)がなすべきことなのでしょう。
上映後のトークショーでは、最初はもっと派手にカタストロフなエンディングを考えていたとの話が制作陣からありましたが、それがむしろ閉塞感を残した幕切れとなったことで、私はよい作品になったと考えます。これは私の勝手な想像ですが、足立監督はじめ制作陣の方がたは、事件で受けた衝撃を自分なりのストーリーに落とし込んで理解しようと制作を始められたのではないでしょうか。それがやっていくうちに、そういった物語に落とし込めないところにこそ事件の核心があると方針が変わったのではないかと。
まあこれは、安倍元首相殺害事件について、
先に挙げたツイートの続きですでに述べたように、この事件はすっきり割り切れる図式ではない、カタルシスのないカオスが広がっていることが特徴だと、私が考えていることに引き摺られすぎた感想かもしれませんが。
しかしこの事件は、「テロリストが民主主義を破壊しようとした」とか「義士が悪政を撃った」といった、分かりやすい物語に落とし込めない混沌が、被害者に周りにも加害者の周りにも広がっているのは、まぎれもない事実でしょう。それを強引に分かりやすい物語に落とし込んで安心して、これ以上考えないというのが「国葬儀」の役目だったといえるでしょうし、だからこそ今日、未完成でも敢えて本作が上映された意義なのだと思います。
「考えない」というのは、安倍的なものを理解する上でキーになる概念だと私は思っていますが、その詳細はまたの機会に。
以上をまとめて、殺人という不幸で不穏当な形でしか表現できなかった山上容疑者の閉塞感をそれなりに描き得たという点で、私はこの映画は意義があるのではと思います。私は山上のやっていたとされるツイッターを思い出します。彼の閉塞感を表現しながら、誰にも(事件前は)受け取られなかった言葉。
ただそれは、決して受け取られないことにこそ本質があったものを、受け取れる表現にしてしまったという点では、ある種「裏切り」のようなものかもしれません。表現手段を暗殺以外持たなかった山上に対し、豊富な表現手段を持つ制作陣は、それを受け止めて自分の表現をしてしまっているのです。それは事実に基づいた作品作りには常に付きまとう問題なのでしょうが。
一、二、気になった点を述べれば、終盤の「敢えて」カメラ目線で妹役が語る言葉は、言葉の表面的な意味に頼りすぎで、ちょっとくどく感じました。そこは言葉に頼りすぎずに表現できなかったのか、言葉にしてももうちょっと整理できなかったのかと思います。
また同じく宗教2世だという若い女性と THE BLUE HEARTS を歌うシーンがありますが、これもベタ過ぎる演出ではないかという気もしました(もし山上容疑者が本当にブルーハーツが好きだという事実があったのなら、これは空を撃つ批判ですが)。年代的にもちょっと微妙に思われます。もっとも一説には、ブルーハーツ解散の原因はメンバーの一人が「幸福の科学」にはまったせいだともいうので、それを踏まえた演出なのかもしれませんが(そう考えるとますますやるせない閉塞感が……)
長々と書いてきましたが、あくまでもこれは特別上映の50分版を観ての感想です。
完全版が完成したら、何はともあれ観に行こうと思います。批判するにしても、観てからするだけの価値は、きっとあるだろうと思います。
※本記事は2022年9月27日にツイートした内容をもとに、加筆修正して作成しました。