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筆不精者の雑彙

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続・歴史修正主義と植民地の鉄道建設 インド篇



 先日インドで大規模な鉄道事故があったそうで、300人に近い死者が出たとのことです(もっと増えるかも)。米中に次ぐ鉄道大国のインドは、人口増や経済発展に鉄道インフラの整備が追い付いていないようで、大事故の報道を聞いた覚えは今回にとどまりません。犠牲者の冥福を祈るとともに、インドの鉄道の改良が望まれるところですが、人口密度の高いところで高密度な運転をする技術は日本の鉄道の得意とするところなので、技術協力ができれば……いやでもインドは貨物も多いから、イギリスから移植されたという点で日印の鉄道は同じ起源を持つとはいえ、今は相違点の方が多そうではあります。

 その事故と直接関係あるわけではないのですが、事故の直後にたまたまネット上でインドの鉄道に関するトンデモなツイートを見つけてしまい、うんざりさせられました。
 それは以下のようなツイートです。
 いったいどこから、こんな屁理屈が捻り出されたのやら。



 当ブログでは以前、日本の植民地支配を正当化する歴史修正主義的な屁理屈として、「日本は植民地に投資して鉄道を引いてやったのだ!」というのがよく見られることについて、批判記事を書きました。しかしこの手の歴史修正主義的言説は後を絶たず、さらなる亜流が登場したのです。
 前回はインドネシアでしたが、今度はインドです。歴史修正主義的な「植民地に鉄道を引いてやった」論ではもっぱら朝鮮がこと挙げされますが、それに対して当然の批判として出てくるのが、「植民地に鉄道を建設するのは宗主国の利益のためであり、例えばイギリスだってインドに鉄道を整備した」というものです。しかし、屁理屈に屁理屈を重ねて、滅茶苦茶なことになっています。
 なるほど、インドの鉄道網に複数の軌間(「軌道幅」とはふつう言わない)があるのは事実で、それを知っている点だけは評価に値するのかもしれませんが、事実の解釈がまったく誤っています。「インド人が国内をスムーズに移動できなくするため」に軌間を変えてしまったら、イギリス人だってスムーズに移動できなくなってしまうではないですか。事実を知っていても、解釈ができなければ、知らないことと同じです。それだけ、歴史修正主義的なものの見方をしたために、世界の見方が狂っているのです。

 まずインド最初の本格的な鉄道ができたのは1853年で、日本より20年近く早いことでした。アジア最初の鉄道でもあります。19世紀中盤の段階では、まだ各地の鉄道の軌間を統一するという発想は十分に育っておらず、イギリス国内でもスティーブンソンによる4フィート8インチ半(1435ミリ)ののちの国際標準軌に統一されていませんで、ブルーネルによる7フィート四分の一(2140ミリ)のグレート・ウェスタン鉄道が存在していました。アメリカでは事情はもっと滅茶苦茶で、4フィート8インチ半がいちばん多くはあるのですが、南部は5フィート(ロシアと同じ軌間。ロシアも5フィートなのは招いた技術者がアメリカ南部出身だったから)だし、エリー鉄道は6フィートだし、オハイオ州には4フィート10インチがあったりと、とりどりでした。
 で、イギリス本国より広いインドの鉄道は、まさかヨーロッパまで直通することはないだろうし、広い国土に合わせた5フィート6インチ(1676ミリ)という軌間が採用されました。しかし鉄道建設が進んでいくにつれて、さすがにこれは金がかかるという問題が生じます。そこで登場したのが、軌間の狭いナローゲージの方が費用の節約になる、という意見でした。

 これは確か、先年亡くなられた鉄道史の大家・青木栄一先生のご指摘だったと思いますが、当時の輸送量や車両技術では、4フィート8インチ半でも広すぎる面があったと考えられ、ナローゲージで十分な地域が少なくなかったといえるのです。もちろん20世紀になれば、標準軌をフルに生かした規格へ鉄道車両も大型化し、ナローは鉄道の得意分野である大量輸送に力不足で、やがて自動車に負けて廃止されるか、標準軌に統一されていきます。
 というわけで、19世紀後半にはナローゲージのブームが起こります。多いのは、軌間1000ミリのメーターゲージ(ヨーロッパで多い)や3フィート(914ミリ、アメリカに多い)で、中にはデンヴァー&リオグランデ・ウェスタンのようにナローでロッキー山脈を越えるという長大路線も現れます。
 この流れに乗って、インドでもローカル線にはメーターゲージが採用されます(一部にはもっと狭い2フィート6インチ=762ミリもあります)。ナロー売り込みはなかなか巧みに行われ、「狭いゲージが経済的といっても、軌間が違うと貨物の積替が大変では?」という当然の指摘に、インドは人件費が安いから、積替コストはそんなに問題ではなく、総合的に安くなると説得したのだそうです。つまり、異なった軌間が併存しているのは単に予算の問題であり、また世界的なナローのブームがそれを後押ししたということで、わざわざインド人の妨害をするためではありません。そもそも鉄道移動を不便にしたら、植民地から産物を吸い上げたいイギリスにとっても不経済ですし、また反乱鎮圧のために軍隊を素早く送ることも難しくなります。
 このあたりの話は、齋藤晃『蒸気機関車の興亡』をご参照ください。


 ちなみに日本の主なゲージが、狭軌の3フィート6インチになったのも、同じようにナローのブームが影響した可能性もありますが、実証はされていません。また3フィート6インチは、ナローとしては大きく、標準軌に準ずる存在として扱われています。南アフリカも3フィート6インチですが、これは最初標準軌で作ったものの、険しい地形に対応するのが大変で、カーブをきつくできる狭軌にしたといいます。日本も狭軌ながら長年改良に努め、今では標準軌の鉄道ともそれほど遜色ない車両の大きさになっています(日本の狭軌の最大車体幅は、標準軌でも歴史が古いため規格が小さめのイギリスの車体幅よりちょっと大きいです)。

 さて、こうして建設されたインドの鉄道は、もちろん宗主国イギリスのために貨物を運び出すことを第一に考えられ、現地のインド人の利用はあまり期待されていなかったようです。ところがいざ開業してみると、インド人が結構乗るのです。その大きな目的は、例えばヒンドゥー教の聖地・バラナシ(ベナレス)などへ巡礼にいくことにあったそうなのです。
 これは『鉄道と観光の近現代史』など多くの鉄道史の本を執筆されている、老川慶喜先生から伺った話だったと思うのですが、老川先生が国際学会で日本の鉄道には社寺参詣客をあてこんだものがいくつもある、という報告をされたところ、インド人研究者が、インドの鉄道にも巡礼客が多かった、と指摘されたそうです。キリスト教はカトリックなら巡礼をすることもありますが、プロテスタントはあまり「聖地」という概念がなさそうで、イギリス人がインド人の旅行需要を見誤ったのも無理からぬことかもしれません。


 インドの鉄道史は、それだけでまとまった日本語の本はたぶんないと思いますが、先日惜しくも亡くなられた小池滋先生(当ブログでも小池先生の講演をいくつか記録しています。2008年2010年のものをリンクしておきます)が編集役の一人として手掛けられた『鉄道の世界史』には、南インドの章があります。もちろん、ゲージが違う鉄道の存在がイギリス人の陰謀などとは書いてません。


 だいたい、軌間の違う鉄道が併存しているといえば、日本統治下の朝鮮にだってナローゲージはありました。今はすっかり通勤路線として立派な規格になっているらしい水仁線なんかは、80年代の鉄道雑誌では「風情あるが滅びゆく軽便鉄道」という扱いでしたね。ゲージは2フィート6インチでした。
 ちなみにもう一つの日本の植民地・台湾でも、中国大陸に面した島の西側には3フィート6インチの鉄道が作られますが、人口密度の低い東海岸の鉄道はやはり2フィート6インチの軽便でした。両路線はつながっていなかったので問題は特にありませんでしたが。1980年代から90年代にかけて台湾一周の鉄道が作られて、その時にようやく軌間が統一されました。台湾の東海岸線は、台湾が結構経済発展する時代までナローだったので、ナローなりに路線が改良され、「世界最速の軽便鉄道」という、すごいんだかすごくないんだかよく分からない路線だったそうです(笑)この話や、先のゲージ関連のトピックは、『ゲージの鉄道学』という本に拠っています。


 例によって話が逸れまくっているので戻すと、なるほど植民地の鉄道は「結果的に」植民地の人の役に立った面はあるでしょう。しかしそれは結果論です。宗主国側の建設の目的は、植民地支配をより強固かつ効率的にすることであり、本国の事業家にとっては売り込みのチャンス、資本家にとっては有利な投資先なのです。
 例えばイギリスの鉄道が一通りできてしまうと、機関車などのメーカーは売込先が減るわけですが、そこで新市場のインドを得てさらに儲けられたのです。インドも一通りできるとどうしたかって? 今度はさらに東の日本に売り込みに来ました。詳しくは、以前にも紹介した本ですが、中村尚史『海を渡る機関車』を参照してください。
 投資先としても植民地鉄道は有望株でした。シャーロック・ホームズの「ブラック・ピータ」に、殺人現場に落ちていた手帳に記されていた「C.P.R.」の文字を見て、ホームズがカナディアン・パシフィック鉄道のことだと見抜く場面があります。それだけよく取引されている有利な株だったのでしょう。

 もっともカナダは植民地鉄道と言っても、原住民の少ない白人中心の植民地だったので、インドとは話が違う面もありますが。カナダの植民地時代は、ひとまとまりというより州の連合体でした。そして18世紀以来、アメリカがいわば「革命の輸出」をしてカナダを合併してしまおうという動きもありました。このアメリカに対抗して、植民地をひとまとまりの「カナダ」にするため、植民地側が本国に要求してカナディアン・パシフィック鉄道を建設させます。本国はそんな未開発の広野に鉄道を敷いても儲からないと難色を示しますが、バラバラのカナダ諸州が個別にアメリカの経済的従属下に置かれるのも困るので、やむなく資金も一部提供して鉄道を作りました。もっと開業してみたらそれなりに儲かったようですが。この辺の話は『鉄路17万マイルの興亡―鉄道からみた帝国主義』をご参照ください。
 余談ですが、初期のカナダの鉄道、例えばグランド・トランク鉄道などは、アメリカの鉄道の支配下に置かれることを恐れて、インドと同じ5フィート6インチで建設されましたが、結局直通できない不便が先に立って、アメリカに合わせ標準軌に改軌しています。

  

 そういうわけで、植民地の鉄道とは、本国が利益を得、植民地支配を強固にする(反乱が起こっても軍隊を迅速に送れる)ためにできたもので、結果的にその土地の役に立ったといっても、それを旧宗主国の人間が恩義を与えたように偉そうに振る舞うのは、頓珍漢な思い上がりということです。

 さらに言えば、こういった歴史修正主義者はしばしば台湾で活躍した八田與一を引き合いに出しますが、八田與一が偉かったからといって、それは今のお前が偉いわけでは全くない、ということも重要です。他人の褌で相撲を取るものではありません。国家と自己をだらしなく融合させるのは、事大主義に至るものであり、民主主義国家の市民にふさわしい態度ではありません。

 最近の日本の鉄道史の研究では、植民地鉄道の研究が本土以上に活発な感じがしますが、その成果を踏まえて、「日本は植民地にいいことをした!鉄道敷いた!」という言説がいつどこで登場したかも研究すべきではないかと、私は思っています。まあこれも前回の記事で書いたことですが。
 という前回と同じ締めでは芸がないので、前回の記事作成時点ではまだ読んでいなかった、最近の植民地鉄道史研究の本をご紹介します。


 竹内祐介『帝国日本と鉄道輸送 変容する帝国内分業と朝鮮経済』吉川弘文館(2020年)です。朝鮮鉄道の貨物発着の膨大なデータを丹念に分析した力作です。
 米騒動のトラウマで米の供給安定化をめざした日本政府は、朝鮮での米生産を振興する政策をとります。これを以て歴史修正主義者は「日本は朝鮮の米生産を増やした!」と主張しますが、取れた米は大部分が日本向けに移出され、朝鮮人の一人当たり米消費量は植民地化前より減ってしまっています。それでは米を作ってもあまり食えない朝鮮の農民は何を食べていたのかというと、「満州」産の高粱だったといいます。このように、日本の米需要のために朝鮮人が高粱を食う羽目になるというのが、大日本帝国の支配の実態でした。
 という話は日本近代史では通説になっていますが、そこに一石を投じたのが竹内先生の本です。確かに最初は高粱の輸入が多いのですが、時代が下ると朝鮮半島南部で米と麦の二毛作が広く行われるようになり、麦が高粱の需要を代替したのでした。そういった朝鮮の産業構造の変遷などを、多くのデータから解析しているのです。

 しかしまあ、こういった堅実な研究を、歴史修正主義者はまず読みませんし、読んだとしても理解することはできないでしょう。日本を、ひいては自分を正当化するという先入観に捕らわれていますから。そうして、思い付きの屁理屈をでっち上げ、それを仲間内で広めあって、まるで「客観的事実」のように思い込むのです。そのような肥大した自己愛の前では、いくら研究を並べても通じるとは思われず、うんざりするばかりなのですが、しかしそれで諦めるわけにもいきません。こうやって地道に、よりまっとうな情報を出していくことで、少しでも歴史修正主義を抑えられることを祈るばかりです。

※この記事は2023年6月2日のツイートをもとに、加筆修正して作成しました。

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by bokukoui | 2023-06-06 13:34 | 歴史雑談 | Comments(0)