ずいぶん間が空きましたが、タイムリーな話題がありましたので久々に更新を。
しばらく前のことですが、JR門司港駅すぐそばに新しい区役所などの複合施設を作ろうと、もともと駅敷地の一部だったところを北九州市が買収したそうです。で、建設に先立って敷地を発掘したところ、初代門司駅の貴重な遺構が出てきたのです。さる11月に現地説明会も開かれ、かなり盛況だったようです。
この遺跡の発見を最初にネットで取り上げ、盛り上がりに一役買われたのが、産業遺産がご専門の熊本学園大学の市原猛志先生のフェイスブックでした。こちらをご覧ください。
で、幸いにも、この遺構を見学できる機会に恵まれましたので、さる11月24日の午後に、同じく鉄道史に関心ある研究者の方がたと一緒に、この遺構を見学してきました。その概要を以下にお伝えしようと思います。
門司港駅といえば、1914年に建てられた駅舎や周辺の歴史的建造物が「門司港レトロ」として観光名所になっていますが、あの駅は実は2代目なのでした。門司港駅は1891年に門司駅として開業しましたが、その際の駅の位置は今よりやや陸側に寄っていました。いま「0哩票」が建てられているあたりが、初代の駅舎の位置と考えられています。その「0哩票」と現用の留置線の間の空間が、発掘調査が行われた場所でした。
図中赤丸で記したあたりが発掘現場
発掘現場はだいたい長方形で、そこから機関庫の基礎と思われる遺構を中心に、いくつかの建物の基礎や水道管などが出土しています。模式図で表すと以下のようになります。
図中の丸数字と矢印は、以下に掲げる写真を撮影しただいたいの場所と方向です。焦茶色の線がレンガ構築物の基礎で、石積みの垣や基礎の跡が灰色と緑・薄茶の線です。黒い囲いは石炭殻の積み重なっていた場所です(だいたいです)。注目すべきは真ん中を斜めに横切っている水色の線で、この線より図の右側は江戸時代まで海だった場所を埋め立てたところで、左側は地山が門司の裏山から続いている、昔から陸地だった場所です。そういう複雑な地盤のところを整地して、初代門司駅と機関庫が設けられたのですね。
では写真を見ながら、遺構の見どころを説明していきましょう。
①発掘現場の全景
この写真は実は最後に撮ったので、ちょっと暗くなっていますが、発掘現場の全景です。中央部が機関庫の基礎で、奥手に向かって機関庫が細長く延びていました。手前に初代駅が移転した後に設けられた石垣が見えており、目立つ杭のようなものは最近まで現用だった電柱です。電柱の中からは21世紀の空缶か何かが出土(?)したそうで、最近まで現役だったことが伺えます。
では、細部に分け入っていきましょう。
②機関庫基礎のコンクリート部分(1)
③機関庫基礎のコンクリート部分(2)
開業当初の門司駅の機関庫は、時代柄当然ながらレンガ造りでした。それ自体は不思議でも何でもありません。ところが興味深いのは、基礎の部分です。レンガの壁の基礎が、コンクリート造りなのです。1890年代で、セメントをレンガの接合のモルタルだけでなく、土台の基礎のコンクリートとしてふんだんに使っているのは、かなり早い例ではないかと思われます。
そして注目すべきは、②の赤丸のところが分かりやすいと思うのですが、基礎のコンクリートがU字型というか逆カマボコ型というか、そんな形をしているのですが、それが直接地山に載っかっています。つまりこれは、地山が堅いのを生かして、地面に溝を掘ってそこに直接コンクリートを流し込み、土台にしていたと考えられます。型枠とか使っていないんですね。ごく初期のコンクリートの利用法として、そのような工法があったそうなのですが、現存している遺構はそうそうないのではないかと思われます。コンクリートの歴史を知ることのできる、貴重な遺構といえるでしょう。
また短手の方の壁は、②③の写真の赤丸のところを見てわかるように、基礎のコンクリの高さが長手方向の壁と食い違っています。つまり後付けの壁なのですね。おそらくは、最初は機関庫の奥の方まで線路を敷いて機関車を引き込んでいたのを、途中に壁を作って機関車は途中までしか入れないようにし、奥を広い作業スペースか何かにしたのではないかと推測されます。
短手の壁の基礎のコンクリは、普通に型枠を作って流し込まれています。③の写真で青丸をしたところに、筒状にコンクリの抜けたところがありますが、ここにはもともと型枠を固定するための杭があったようです。杭は木製なので、長年経って消滅し、杭の穴だけが残っているのですね。
④廃材が投棄された穴
これはその作業スペースだったところですが、なにやら瓦礫のが大量に埋まっています。これは、レンガ造りの最初の機関庫を撤去する際、破壊したレンガの壁を埋めたもののようです。その際に、いろんな機関庫のガラクタ類も埋めたらしく、発掘したら当時の湯呑などの遺物も出土したそうです。もしかすると、この瓦礫をジグソーパズルのように組み立てれば、機関庫の壁が復活……!?
⑤江戸時代の岸壁の痕跡
これは、地盤がもともと陸だったところと、江戸時代までは海だったところとの境界線の部分を発掘した箇所です。赤い線を引いたところに石が並んでいますが、これが江戸時代の岸壁の名残と考えられています。この石より奥側はもともとの陸地で、手前側は海だったのです。その海だった場所には次第に泥が堆積していき、写真右手の荷札みたいのがいっぱい張ってある灰色の場所が、その泥が積もった場所です。泥の堆積を分析するためにサンプルを採取し、札が張ってあるんですね。
江戸の岸壁の名残はここにしか残っていないそうで、貴重な遺跡です。そして明治に機関庫ができる場所が、もともと半分海だったことがよく分かる、幾重にも重なった歴史が読み取れる場所なのです。
⑥基礎の台座の胴木
さて、このように地盤がもともとの陸地と海を埋めたところとでは堅さが異なりますので、基礎工事の手法も変わります。さっきの②③では、地盤が良かったので溝を掘ってコンクリートを流し込むという乱暴というか単純な工法でしたが、ここ⑥はもと海の埋立地で、灰色に堆積した泥の上です。軟弱な地盤といっていいでしょう。そこにレンガの機関庫を建てるために、土台の工事も工夫が凝らされています。レンガの基礎はコンクリを型枠に組んで(型枠の板材がそのまま残っています)作っているのですが、その基礎のさらに下には、枕木のように胴木と呼ばれる木材を敷いています(写真の赤丸のところ)。その隙間には小石などを詰め込んで、コンクリ基礎のさらに土台としています。この胴木を使う手法は江戸時代から見られるもので、近世的な工法が近代的なレンガ建造物を見えない縁の下の力持ちとなって支えているという、ここもまた重層的な歴史の積み重ねを感じることのできる遺構でした。それにしても、百年以上埋もれていた木材がほぼ原形を保ったまま出てきたのには驚きましたが、適度な水分が良かったのでしょうか。これはぜひこの姿で保存展示してほしいものです。
このように、二種類のコンクリ基礎工事が併用されている、というのがこの遺構の大きな見所です。私の勝手な妄想では、建設担当者は全部の土台を胴木でやる予算をもらい、地山の堅いところは溝堀簡易工法で済ませて、浮いた差額をみんなで飲んだにちがいない、と思っています(笑)
⑦レンガ壁を貫通する水道管
初代門司駅の機関庫があった場所は、門司駅(現門司港駅)が現在地へ移転したあとは、貨物施設として生まれ変わったようです。そして鉄道貨物が衰退するまで、長らく貨物施設だったようですが、それが国鉄末期?ごろに撤去されて、それから駐車場などとして使われていたようです。そんなわけで、基本は明治の遺構の中に、昭和の物件が突っ込まれている箇所があります。それがこの、遺構を横断する水道管とみられるパイプで、いつ頃の建設かはよく分からないのですが、昭和初期ぐらいなのでしょうか。これは建設の際に、無用となっていたレンガの遺構に穴をあけて通されています。写真では分かりにくいのですが、穴には取り外したレンガが水道管を支えるために転用されて挟まれており、これもまた遺構の重層性をうかがわせるものとなっています。
⑧機関庫の裏側の柱?の跡
これは機関庫の裏側に当たる場所の、真ん中らへんです。ここだけ他の壁より一回りレンガが厚く、柱のようになっていました。この柱?を生かして裏に扉などが設けられていた可能性は大いにありますが、現状ではこれ以上詳細が分からないのは残念なことです。
⑨石炭殻の地層とレンガの遺構
これは機関庫の奥からさらに北東側をみたもので、ここにもレンガの構築物がありますが、詳細は不詳です。レンガのあたりが真っ黒い地層になっているのが目を惹きますが、これは石炭殻の堆積したものだそうです。当然これは人為的なもので、機関庫で機関車を整備する際に廃棄された石炭の燃え殻を、機関庫周囲に捨てていたものです。同じような石炭殻層は、機関庫の南東側にも見出されます。機関庫の南東側に、アシュピット(蒸気機関車が石炭の燃え殻の灰を捨てる場所)でもあったのかもしれませんね。
さて、発掘現場の南東側には、一直線の長い石垣が出土しています。これは初代門司駅の遺構というよりは、その後の貨物施設時代の遺構のようです。
⑩貨物施設と関連する?石垣
⑪枕木のような謎の石材
この石垣で囲われた地盤からは、大きさとしてはまるで枕木みたいな謎の石材が出土しています。枕木に見立てるとちょうどタイプレートを固定するあたりに、小さなくぼみが掘られているのも謎です。もちろん枕木の訳はなく(石で枕木を作ったらたちまち割れてしまうでしょう)、いったい何なのか、謎は深まるばかりです。
今回の発掘現場は、初代門司駅からはちょっと北にずれていて、ここまで見てきたように駅に併設されていた機関庫が主な発掘遺構でした。駅そのものはこの南側にあり、今の門司港駅同様頭端式駅でしたので、発掘現場の南東側の、今も駐車場になっているあたりを掘れば、きっと初代駅の本体が出土すると思われます。だから今建っている、「0哩」の標柱の位置は確かにそれにふさわしく、そのあたりがホームだったろうと考えられそうです。
で、この発掘現場の南東側が、ぎりぎり駅舎の基部にかかっていて、僅かですが初代駅舎の土台が発見されたのです。
⑫初代駅舎の基部
貨物駅時代の遺構と重なっていてわかりづらいのですが、赤い線で囲った、丸みを帯びた礎石が初代駅舎の角と考えられています。角をそのまま直角にせず丸めているあたり、ちょっと凝った造作がなされていたといえるかもしれません。ということはその周辺の地面は明治時代の門司駅のものと考えられるので、私はそこまで降りていって、「明治の人と同じ地面を踏んだのだなあ」と感慨に耽っていました。初代門司駅の姿が辛うじてうかがえる、この遺構の重要なポイントの一つといえます。
と、発掘担当者の安部さんに解説していただき、たいへん充実した見学でした。ぱっと見でもなかなかすごい遺構だな、とは分かりますが、詳しい説明を受けてみると、なお一層その価値がよく分かります。明治を主に、江戸時代や大正・昭和の変遷をうかがわせるというところも、ポイントが高いですね。初期のコンクリート打設方法や、近世の伝統が明治にはなお息づいていたことも見て取れる、たいへん価値の高い遺構と思います。
北九州市はこの場所に区役所などの複合施設を建てる計画だそうですが、地下室を作る予定はないそうです。であれば、この遺構を生かしたまま新しい施設に取り込んで、北九州市の名所を一つ増やせるのではないか、と期待したくなります。もちろん建設費は若干増えてしまいますが、「門司港レトロ」で売り出している北九州市ならば、充分回収の見込みのある投資といえるのではないか、とは外部の者の勝手な期待ですが、そう見当違いでもないと思っています。ぜひ市当局の一考をお願いしたいところで、鉄道史学会でも要望の文書を市に出すと聞いています(この見学会は学会としてのイベントというわけではなく、本記事も私の個人的な見解であることはお断りしておきます)。
発掘作業はこの11月で終わり、現状はどうするか未定だそうですが、以下のような報道もありました。
有料記事なので詳細は分からないのですが(苦笑)、市長も遺構の扱いについて専門家の声を聞くようですし、市民の皆さまからも保存への世論を盛り上げていただければ、これほどありがたいことはありません。本記事もそういった、全国的な遺構保存への声を盛り上げる一助になればと、願ってやみません。
最後に、安部さんはじめこの遺跡を発掘された方がたと、ネットで知らせてくださった市原猛志先生、見学会を発起してくださった近畿大学の高橋愛典先生に、深く御礼申し上げます。