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筆不精者の雑彙

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カマヤン氏(&ナヲコ先生)の作品との出会いについての思い出

 あんまり気は進まないんですけれど、先日書いた件について書きっぱなしなのもどうかと思うので、一応続きらしきものを書こうかと思います。

 で、多分長くなってしまいそうなので先に結論を書いておくと、小生が「先鋭的美少女愛マガジン」であるところの『Alice Club』から得ていたものは、直接の性的な欲求を満たすものが全く無かったなどとは口が裂けても言えないにせよ、それ以上に、サブカル的――という表現はあまり適切ではないのですが、何というか、世間一般と違ったことにとことんのめりこんでいる人々の発信する何か、であって、それに感じ入るところがあったから、ということになります。その背景には、小生自身がそれまでの「世間一般」とは違ったものに興味を抱いていたから、そして自分もそういったものに専心することで「世間一般」と違った存在になりたいという欲求があったから、という事情があります(そして今もあります)。
 つまり「先鋭的美少女愛マガジン」を読んでいた理由は、「少女」ではなく「先鋭的」にあったという次第です。そして『Alice Club』を介して知った諸々の発信者の中でも、政治的なものに強い関心を持ち、独特な世界を築いていたカマヤン氏の作品に惹かれ、その作者に関心を持ち、コミケで同人誌を買ったりブログを読んだりするようになった、まあそのような経緯です。

 具体的な話を以下に続けます。
 カマヤン(「鎌やん」名義の時代もありますが、ここでは煩瑣を避けるため統一します)氏の作品に最初に触れたのは、『Alice Club』ではなくて、その関連商品? であるところの『アリスの城』という漫画雑誌(雑誌コードがあるので)であったかと思います。本誌の存在は『Alice Club』を通じて知った筈ですが、そのあたりの記憶は曖昧です。手にしたのは1996年4月発行の奥付を持つ『アリスの城』Volume4 でした。ちょうど十年ほど前ですね。
 本誌は今でも手元にあるので(表紙が写真のACより買い易かったし、値段も安かった)、内容まで含めてちょっと紹介しておきたいと思います。カマヤン氏(&ナヲコ先生)の作品との出会いについての思い出_f0030574_0102798.jpg
 目次を以下に紹介しますと、

みほとこうじ「不思議の国のアリス」
ナヲコ「悩んで学んで」
のぞみ侑海「悩める桜子ちゃんの憂鬱な日々」
回輪鬼畜「さよならさん こんにちは」
カマヤン「少女調教(きょういく)講座」
るりあ046「1997 AMEZING MARS! #4」
江戸川童画「Yesterday's Child」
北川たけし「お医者さんごっこしよっ」
知恵袋一番「SOUTHRN WIND」

以上が漫画作品です。
 他に「アリス解体新書」というイラストコーナーがあり、五人の漫画家が作品を寄せていますが、その名前は表紙画像から読み取れる通りです。しかし、実は漫画に関しては表紙に嘘があって、表紙および巻末目次には「睦」「みむだ良雑」の名前と作品ページ数が記載されていますが、実際には前者のページはイラスト再録集とメモ用紙(笑)と読者投稿で埋められ、後者のページが北川たけし作品に差し変えられています。二人一遍に原稿を落としたんで、代原が足りなかったんですね。いやはやいい加減な雑誌だ(笑)
 他にコラムとかいろんなコーナーがあって面白いんですが、その紹介は話が逸れるので又の機会に。

 とか書いておきながらいきなり話が逸れますが、考えてみれば小生がナヲコ先生の作品を初めて見たのも本誌のことでしたね。もっともこの時点では、絵はとてもいいなあと思ったものの、現在のように追っかけるほどまでの深い印象を受けたわけではありませんでした。それはやはり単行本『DIFFERENT VIEW』を読んでからのこと。
 では何故小生は、本雑誌中カマヤン氏の作品に惹かれたのでしょうか。このほど読み直してみたところ、その理由は案外明白に分かったような気がしました。

 この雑誌に載っている漫画の内容を考えるに、代原であるためか山も落ちも意味も無い北川作品をひとまず措くと、カマヤン氏の作品以外は、先に挙げたナヲコ先生の作品をはじめとして、登場するキャラクターが何がしかの心情を抱いて行動する様子を描いています。まあそれが創作とされる分野では、エロだろうがそうでなかろうが、おおむね普通のことではあるわけですが。そして、こういった作品は、登場するキャラクターに感情移入したりして鑑賞するのが通例であろうかと思います。
 然るに、本雑誌に掲載されていたカマヤン氏の作品、「少女調教(きょういく)講座」(のち単行本『小さな玩具(いきもの)』に収録)はそうではありませんでした。カマヤン氏のセルフポートレートとしてよく使われる擬人化されたゴリラが、少女と営みをするための方法を延々と説明している(全4回の連作で、この雑誌に載っていたのが最終回)という内容で、そもそも感情移入して読むような作品ではありません。そのような物語より情報というか思想というか、そういったものの占めるウエイトの大きいところが、小生の好みに合ったのではないかと自己分析します。どうも小生は小説を読むというのが苦手で、蔵書も9割以上が小説でない書物であり、仕舞には「全ての小説は同時代の史料である」等と妄言を発するに至ったりしておるもので・・・。
 で、考えてみればカマヤン氏の作品は、もう一冊の『世紀末鳥獣戯画 アニマルファーム』収録作品を見ても、普通の漫画の創作のような、キャラクターに感情移入するような読みに向かないような作品が多いのではないかと思います。『アニマルファーム』の場合、表題どおり登場するキャラクターは動物を擬人化したものが多いです。それは「猫耳」みたいな「萌え」趣味では全くなく、むしろ安易な感情移入的読みを排除する装置ではないでしょうか。ですので、多くの漫画読みの人にとっては、理屈っぽくて違和感が感じられたりするのかもしれません。しかしそれこそが、小生にとっては魅力となっているわけです。

 こうして見ると、甚だ勝手な私見ではありますが、カマヤン氏が漫画から現在のような表現形式に移行されたのは、それなりに合理的なものであったといえるのかもしれません。どちらかといえば物語を描くのが中心の漫画という形式より、ブログという情報発信形態の方が。
 実際、『小さな玩具』には多くのエッセイが収められ、成年コミック単行本としては他にあまり例がないと思われるほど文字で書かれた「読む」部分が多くなっており、巻末には対談もついています。『アニマル・ファーム』もまた、巻末に宮台真司との対談が掲載されています。
 さて、1997年発行の『小さな玩具』収録の巻末対談のメンバーはといいますと、カマヤン氏はもちろんとして、ゲストに迎えられたのは、何と米沢嘉博氏と永山薫氏・・・。こんな日にこの本の話題を取り上げることになるとは、これも何かの縁でしょうか。
 昨日亡くなられた米沢氏(本名は「米澤」だそうですが、筆名は「米沢」だったようです)が、このカマヤン氏・永山氏との対談中で語っておられることを幾つか引用し、この長々しい記事の締めくくりとしましょう。米沢氏の語ったことを語り伝えることこそ、何にもまさる物書きであった故人への手向けでしょうし。
鎌やん 本当は、「漫画家は理論武装しちゃいけない」ってのが、自分の持論の一つなんですけどねぇ(笑)
米 沢 うん、漫画家がそれやっちゃうと、面白くなくなるんだよね。
鎌やん 間違いなくそうなんですよ。
永 山 その理論が漫画の中で絵解きになってるとつまんないんですけど。
米 沢 話にどこかで絵解きをなにげなく隠し味として混ぜとくのはいいんだけど、それが全面に出てきちゃうと、読む方は辛い。ただ、初期のロリコンブームのときは、結構、理論武装しないと楽しめなかった。入ってこれなかったっていうのはあったんだけど、一回受難の時代を潜り抜けてきてるから、更なる理論武装が必要なことは必要なんですよね。
鎌やん まあ、エンターテイメントは他の人に頑張って頂いて、っていう感じで、僕は理論武装を担当しようかなぁ、みたいなところはあります。
米 沢 ロリコンを本当のエンターテイメントと言えるかというと、非常に難しいとは思いますね。やっぱり、非常に趣味的な世界になっちゃう。
永 山 鎌やんさんの作品を読んでて、ずっと考えてたんですけど、普通の意味での“教育”とか“躾”とかの薄められた形でのチャイルドアビューズ。そういうのがちゃんと分かるように描いているんで。
鎌やん “調教”と書いて、“教育”というルビをふってあります。
永 山 そのことを、もっと読む側は気づいたほうがいいなと思います。
米 沢 一つ間違うと、人形趣味みたいなものと混同されちゃうから。つまり、自分の好きにできる人形の手をもいだり、足をもいだりっていう、そういう目で片方は見ちゃうから。調教・教育っていうのと人形遊びは、重なるようで違う。そのへんの意識はどうでしょう?
鎌やん 深いところではつながってるはずですが、現象としては違うはずです。ロリコンってのは、“後ろ向きで居たい!”っていう欲求だと思うんで、これはすごく気持ちいいけど、あまりこの気持ちよさに溺れちゃいかんだろうな、というのがあって、うまくそのへんが描けるようになれるといいんですけどね。なかなか難しくって・・・。
米 沢 ロリコン的なムードの醸成っていうのは、子供時代の自分に戻って、少女とのロマンスへの憧れから入っていく人たちもいるんですよね。あと、全くの性欲の対象としての少女。これは人形愛ってのと少し重なるけど。でも、ベクトルが皆少しずつ違う。結構、フェティシズムと同じで個的なものだと思うから、あまり一般的できるものでは無いんですよね。少女に対してトラウマみたいなのがあるとか、どういう想いで見ているかとか、そこから自分を追い込んでいくんですよね。
米 沢 調教っていうのはまさしく、親が子供に対してやるのは調教だから。
鎌やん “躾”っていう英語と“調教”っていう英語は同じだし。
米 沢 “お仕置き”と“折檻”もおなじですよね。ですから、ちょこっとづつは皆、病気をかかえたほうが良いと思ってるんですよ僕は。100%になっちゃうと駄目だけど、1割づつぐらいでいいんですよね。SもMも、ロリコンも。
永 山 そのへん、僕も前から言ってるんですけど、あんまり自分を決め付けない方がいいよと。もうちょっと楽に見たほうがいいんじゃないかと。自分を追い込んじゃうと、すごくそれが危険だし、不毛だと思うし。
米 沢 ただ、アイデンティティを確立するために、自分は“こう”であると、決めたり、あるいは決めてもらわないと駄目な人達が居るってことも事実なんですよね。そうなってくると、自分が“こう”であるというスタンスに立つことで初めて自分が成立する。つまり、あやふやな透明な存在であったものが、そこで初めて場所ができて、人格ができていく。結局、自分をどう形成していくかでしょう。
永 山 あやふやでいいじゃないですか。そのほうが面白いですけどね。
米 沢 うん。僕もそう思う。だから、“病気は色々持ってたほうがいいよ”って。
鎌やん 危ないのは、視野が狭くなるってことですよね。視野さえ広くなっていれば、どんな病気を持っていても、たぶん現実に対応できますよね。
米 沢 自分を分かるために、自分はどういうモノが好きだ、とか、そこから考えはじめるから。それはコレクションであってもいいし、何であってもいいんだけども、そういうモノっていうのを極めることによって、自分を確立していこうという方向に動いちゃうんですよね。
永 山 結局、第一次ロリコンブームがもたらしたものって、そういうふうに多角的にある自分っていうものを見つめ直すきっかけを、何人かの人には確実に与えたな、と。
米 沢 と想います。漫画にももっと色々できるはずだってことで、色々なことをやっていって、その一つとして、ロリコンもあって、ロリコンはあれで良かったと思ってる。少女漫画も青年漫画も色々変っちゃったし。
 出典は全て『小さな玩具』所収「つきつめよ、そしてそれに縛られず生きよ」です(一部表記を修正しています)。
 ま、「ちょいオタ」がモテるなどと言われるこのご時世ですから、こういったものを読んで考えてみるのも多少の意味がなくもないのではないかと思います。
 また、そのうちに、『Alice Club』関連で思いついたことなどを少し書くかもしれません。

 ・・・n-dprj(S竹)君にこんな長広舌垂れるとは、全くいやらしい老人になっちまったもんだ。
Commented by S竹改めn-dprj at 2006-10-04 00:09 x
何故bokukoi氏がカマヤン氏の「追っかけ」をしているのか、ようやっとわかりました。
ご迷惑をお掛けして大変申し訳ありませぬが、何とぞ寛大なご配慮をお願いいたします。
Commented by 檸檬児 at 2006-10-04 00:28 x
 カマヤンさんの言葉で記憶に残っているのは・・・
「ライオンは自分の住処のそばでは狩をしない」
でした。

 そういえば先週は仙台、今日は名古屋から戻ったばかり、来週は富山への出張です。
(時節柄、そういうギャグは控えた方が吉)
Commented by bokukoui at 2006-10-06 16:53
>S竹改めn-dprj氏
別段迷惑でもないですが、ものを読むときにもう少し行間を読んでいただければありがたく存じます。まあ、日本史に進学すれば、史料の読み方は教えてくれる(身につける方向に指導してくれる)でしょう。

>檸檬児様
カマヤン氏の作品も押さえておられたのですね。一読者として嬉しく思います。
札幌にも某喫茶店などよく行かれているご様子、主な猟場は北方なのですね(笑)。
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by bokukoui | 2006-10-02 23:55 | 漫画 | Comments(3)