サラエボ事件110年周年記念・小野塚知二編『第一次世界大戦開戦原因の再検討』雑感
さて、第一次世界大戦の起源については、それこそ一世紀あまり、たいへんに多くの議論が積み重ねられてきました。それにより開戦経緯はかなり明確になりましたが、細部が分かるいっぽうで全体の見通しがかえって見えづらくなっている状況に、決してこのテーマが専門ではない研究者が、あえて問い直した一冊です。確かに第一次大戦の起源を論じた本は、これまた買い込んで積んでいるジョル『第一次世界大戦の起源』やクラーク『夢遊病者たち』はじめ、日本語でもいくつも思いつきます(ジョルの本、積んでるうちに新版が出ていたのか…)。蓄積が多すぎて、専門家以外分からないくらいだと本書でも書かれています。
またよく言われる、ドイツ軍の考えていたフランスとロシアを同時に倒す作戦・シュリーフェンプランがあまりに精緻であり、変更できなかったため、始まったら最後止められなかったという説も、「軍事も鉄道も分からぬ者がシュリーフェンプランを神話化しただけのこと」(p.25)と一刀両断です。
むしろ第一次大戦前は、「第一のグローバル経済」と呼ばれるように、各国間の貿易は極めて盛んで、金本位制のもと考えようによっては今より容易に国際間の投資がなされていました。だから経済的に各国が密接に結びついているので、戦争は互いに打撃になるから、もう戦争は起こらないという平和論も唱えられていました。
それでは、各国間での国際分業が進展し、グローバル経済が繫栄していたのに、なぜ第一次世界大戦は起こったのでしょうか。そこで同書が唱えるのが「繁栄の中の困難」という概念です。国際分業により各国は優位な産業を持つ一方、どうしても不利を被る分野があり、それが国内問題となっていたのです。
しかしこの問題はいわば、資本主義経済がもたらした結果ともいえます。そこで19世紀末から20世紀初めには、欧州では社会主義運動が活発になり、かなりの支持を集めました。これに懸念を感じた上・中層階級が、対抗するためにナショナリズムを煽ったのが、直接の原因だとします。
ここでいうナショナリズムは、愛国より排外の色彩が強いもので、国内の困難は他国のせいだと責任をなすりつけるものでした。これがいざ国際的緊張が発生した時、国民の戦争熱を燃え上がらせてしまい、国家の指導者たちは自分たちが焚きつけた戦争熱に押され、戦争への道を選んでしまったというのです。
この指摘は大変説得的であると同時に、いままさに同じことが起こりつつあるのではないかと、一読して肌に粟の生じる思いでした。今の日本はグローバル化のもと経済的な停滞にありますが、国内では中国などにその責任を擦り付ける排外的な言辞が大手を振ってまかり通り、政治家もそれを利用しています。
国際的にもナショナリズムを煽るポピュリズム政治の横行が見られますが、日本の現状は他国を論っている場合ではありません。今こそ再び、名著であるタックマン『八月の砲声』が描いた破滅の八月へと突き進んでいかないように、歯止めとなる行動をしなければ取り返しがつかないのではないかと、懸念せざるを得ません。
以上、第一次世界大戦にまつわる小野塚説を紹介してきましたが、ここで蛇足ながら私見を付け加えておきます。なぜ戦争熱に人びとは呑まれたのか、国際的連帯を唱えていたはずの社会主義者もあっさりナショナリズムに転んだのか(皇帝と対立的だったドイツ社会民主党も、開戦後の議会では戦争にあっさり賛成しました)、そこにはもう一つ要因があるのではないかと思うのです。
それは「男らしさの呪縛」です。近代の生産力至上主義がおそらく背景となって、男らしさの価値が増し、女性差別が激化した19世紀近代の価値観が背景にあり、「男らしさ」の極致とされた戦争に反対することが「男らしくない」ために忌避されてしまったのではないか、そんなことを私は考えています。
19世紀の思想は、産業革命による劇的な生産の拡大を背景に、世界は良い方に向かっているという進歩史観だと言えます。その進歩史観は、ダーウィンの進化論とも結びついて、世界を「進んだもの」と「遅れたもの」とに二分し、進んだものが遅れたものを支配することを当然視しました。これが白人による有色人種の支配を正当化する人種差別的なものであったことは自明ですが、「男」と「女」もまたこの二分法によって、男は進んだ理性的な存在で、女は遅れた感情的なものという差別的な区分がされます。そのような状況下では、「男らしくない」とされることは単なるジェンダー規範の逸脱にとどまらず、退化した存在とみなされるという恐怖があって、よりいっそう「男らしい」ことを強調する行動に走ったのではないかと思われるのです。