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筆不精者の雑彙

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伊藤隆先生追悼と思い出 辻田真佐憲氏によるインタビュー記事をめぐって

 碌にブログを更新できないまま年末になってしまいました。
 今年は谷川俊太郎氏、鳥山明氏、小澤征爾氏、須田寛氏、ナベツネなど各界の大御所の訃報がありましたが、歴史学の業界ではやはりなんといっても伊藤隆先生の亡くなられたことが大きなニュースでした。 

 伊藤先生の日本近代政治史への貢献はたいへん大きなものがあります。私は一応、系譜上は伊藤先生の孫弟子にあたり、伊藤先生の大きな業績である「革新派論」に基づいて論文も書けば授業もやってます。革新派論とは、「天皇制ファシズム」といわれた1930年代から戦時中の体制について、より厳密な実証的研究によってその呼称の必ずしも当てはまらないことを論証したもので、今では高校の教科書も革新派論に基づいて書かれています。
 しかし、東大を停年された頃以降の伊藤先生の行動や言動については、かなり批判があることも事実です。亡くなられた直後、伊藤先生の一番弟子というべき古川隆久先生が、新聞に伊藤先生追悼の記事を書かれていました。






 この追悼記事で、古川先生は伊藤先生が日本近現代史を開拓した功績の偉大さと、晩年の「右派論客」としての問題あるといわざるを得ない活動との二面性について、言葉を曖昧にせず切り込んでいます。「負の遺産」にも触れるので、敢えて「先生」ではなく「氏」と呼んでいます。有料記事なのですべての方にはお読みいただけないのですが、末尾を引用しておきますので、これでおおむね趣旨はお分かりいただけると思います。
 歴史から社会や国家を考えるのではなく、愛国心のために歴史を利用するという考え方に伊藤氏が立ち至った原因としては、学生時代の体験からイデオロギー優先というマルクス主義の非人間的な側面を痛感していたことと、自身の研究成果が歴史教育に十分反映されていないことへのいらだちを指摘できる。

 しかし、こうした歴史教育では偏狭な国家主義を持った人間ばかりが養成され、国家がミスをしても誰も気づかない、仮に誰かが気づいても気づいた人の方を排斥する社会、結局は伊藤氏が嫌ったような非人間的な社会が出現してしまう。それがどのような結果をもたらしたかは、80年前の日本を振り返ればわかることである。

 多くの研究成果をもたらした歴史学者として、より広い視野で歴史の見方について提言をしてもらえていたら、どんなにすばらしかったことか。伊藤氏の歴史学者としての軌跡は、歴史学と国家や政治との関係を考える上での痛ましい事例として今後研究されていくことだろう。
 「痛ましい事例」という言葉に、古川先生の――そして直接教えを受けて近代日本史研究者となった方がたに共通するでしょうが――痛切な思いを読み取ることができます。不肖の孫弟子もまた、同じ思いを抱かずにはいられません――あれだけの偉大な業績を残した方が、どうしてこうなった。

 どうしてこうなったのか、私は数年前に考察して、ツイッター上で発表したことがありました。伊藤先生逝去の追悼――というよりは追討になってしまうかもしれませんが、この機会にまとめておこうと思います。なお伊藤先生の来し方については、自叙伝というべき『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』という本がありますが、私は例によって積読です。


 さて、伊藤先生の晩節について私が考察したきっかけは、歴史著述家の辻田真佐憲氏による2021年の伊藤先生へのインタビュー記事にありました。これは今も再読する価値があると思います。



 正直、一読天を仰いでしまう内容でした。『正論』と『WiLL』を読んで産経新聞を取っている、朝日とNHKは大嫌いという、ネトウヨ老人みたい――とまず思ってしまいますが、単に老化では済まされない問題もあるように思われます。

 このインタビューにおける伊藤先生の発言でひどい点を挙げればきりがありませんが、まずいえるのは、誰でも何でも「左翼」認定という、病膏肓に入ったネトウヨみたいな言い草です。学術会議任命拒否問題で厄に遭った加藤陽子先生を「僕のところにいる分には、左翼を丸出しじゃ具合が悪いと思って、隠していたんでしょう」と、スパイみたいな扱いです。そして加藤先生の業績は、「左翼丸出し」などというものではまったくありません。そんな因縁をつけるのは、それこそ歴史修正主義にはまったネトウヨ(というか、「ネトウヨ」の定義の一つが日本版歴史修正主義=南京虐殺事件はなかった、従軍慰安婦はただの売春婦、太平洋戦争はアジア解放のため、でも開戦はコミンテルンの陰謀、関東大震災後の朝鮮人虐殺はなかった、などなどにはまっていること、といっていいでしょう)ぐらいなものの筈、なのですが……。
 さらには先述の追悼文を発表された古川隆久先生まで「似たようなもんですね」と「左翼」扱い。史学史的に言えば、伊藤先生が会心の一撃を加えた「天皇制ファシズム」論に対し、とどめを刺したのが古川先生という、業績的にも正統な後継者なのに、無茶苦茶です。
挙句には「薄まった左翼」という訳の分からないことまで言い出して、文藝春秋まで「左翼」に入れたげな口ぶりです。記事のタイトルは「僕は左翼の人たちに聞きたいんだよ」ですが、失礼ですがその「左翼」は伊藤先生の脳内にしかいない存在ではないでしょうか?

 その他にも論理や認識が無茶苦茶なところを挙げていけばキリがありません。南京事件では死者はほとんどなかった、などと歴史修正主義に堕しているのみならず、その論拠が秦郁彦先生というおかしさ。当時ツイッターで指摘されていた方もおられましたし、私もこれは読みましたが、秦著は万単位の虐殺があったとしています。読んだはずの本の内容すら、捻じ曲げて解釈してしまっている。これがかつて、史料を博捜して分析し、時代像を書き換えた人の言葉だと思うと、悲しくてなりません。


 さらには、最近の歴史修正業界ではやりのWGIPなるものを信じ込み、近年の研究である賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム GHQ情報教育政策の実像』によって、そんな大したもんじゃなかったと論じられていることをインタビュアーが指摘しても、影響は「ものすごくあったと思いますよ」と、碌な論拠も示さずに言い張ります。


 伊藤先生の大きな業績は、あまたの近現代史の史料を収集され、編纂して後世の研究の基盤を作ってくださったことです。しかしその文書についても無茶苦茶なことを言います。安倍内閣の公文書改竄や破棄に対し、一応それはいけないといいつつも、それが「戦後教育のせい」って……。伊藤先生ご自身が、敗戦で公文書が大量に処分された問題を指摘しながら、「戦後教育のせい」で安倍政権による公文書の改竄や破棄を招いた、というのは論理がねじれています。ああ、安倍晋三は戦後生まれですから、なるほど戦後教育のせい!? でも伊藤先生、安倍には甘い。もう何が何だか。

 おかしいところ、ひどいところを挙げていけばキリがありませんし、それはすでに他の方も指摘されています。そこで私は、別なこのインタビューの印象について、思うところを述べたいと思います。それは、行間から感じられる「寂しさ」「孤独さ」です。
 伊藤先生は「自分の弟子というか、ゼミ生に対しては、多少失望していますね」といいますが、ご自身の教育の責任は、というのを措いても、相手かまわず「左翼」などというレッテルを貼れば、人が離れていくのも当然ではないでしょうか。もちろんこの点に関し、私は伊藤先生が「失望した」というゼミ生から教員になられた方がたを、直接の師匠として教育を受けて現在に至るので、個人的なバイアスがかかっていることは否定できませんが。
 ともあれ、大学を辞められた90年代以降の伊藤先生は、「新しい歴史教科書を作る会」とかに参加されました。しかしインタビューでは、結局伊藤先生は「つくる会」関係の面子ともいろいろあって、離れてしまったということが語られています。こうして伊藤先生は、周囲に人がいなくなったのでは……。そう考えると、「僕は今、そういう人たちから本をもらったら、延々、御礼状を書いてます。しっかり頑張ってくださいと」という言葉も、寂しさゆえに献本が来たらとても喜んだ、ということなのではないかと勘繰りたくもなります。
 このインタビューで、辻田氏が巧みに伊藤先生からに多くの話を引き出しているのは、当時のツイッターでも賞賛されていました。事前準備の周到さも伺えます。しかし同時に、語る機会のあまりない伊藤先生が、水を向けたらここぞとばかりに喋ってくれた――ということもあるのではとも思います。

 ここで個人的な思い出話をすると、もう10年以上前の話になりますが、私は国会図書館の憲政資料室(日本近代史の史料を数多く集めており、伊藤先生の貢献も大きい)で、資料整理のバイトをしていました。すると、だいたい金曜日だったと思うのですが、時々伊藤先生が来られて憲政の方と談笑されるということがあったんですね。私が伊藤先生のお顔を国会図書館で拝見してから、帰りに確か半蔵門の本屋で百合マンガを買い込んだために、革新派のマトリクスを百合マンガに当てはめてネタにしたのは、もう12年も前のことでした。

 で、これはコミュ障の私ゆえに思い過ごしの可能性も高いのですが、伊藤先生が憲政資料室に来られた時は、何かプロジェクトが動いているわけでもないようで、憲政の方もちょっとありがた迷惑っぽい感じもしたのです。あれはもしかして、退職した会社の偉い人が、用事がなくてもまた会社に来るようなものではなかったのかと……

 そういった人的な「寂しさ」とともに、インタビューからは伊藤先生の、今の社会への疎外感のようなものも感じられます。これが私は不思議でならなかったのですが、伊藤先生ほど功成り名遂げて業績もありながら、なぜあんな不遇感というか、思い通りにならないような憤懣をインタビューで醸し出しているのでしょうか。
 伊藤先生の大きな業績は、昭和初期の政治史分析に、「革新派」論を打ち立てて、従来の天皇制ファシズム論を覆したことです。その流れは黒沢文貴先生の論文が手際よくまとめてくれています。そして今は、高校の日本史教科書も、「革新派」論に沿って記述されています。もっとも、伊藤先生の実証主義と史料収集路線は、精密な事実関係の検証を飛躍的に進歩させたものの、歴史の全体像をつかむ視点が弱くなったともいわれています。それは伊藤先生が「革新派」論を唱えたころから言われていたのは、黒沢論文に記されているとおりです。

 伊藤先生は「歴史学界にはマルクス主義、東京裁判史観が流布している」と主張されますが、伊藤先生がお若かった何十年も前はそうだったかもしれないけれど、それこそ伊藤先生とその系譜を継いだ、古川隆久先生のような研究者の方がたが、そんな主義や史観は蹴散らしたのではないでしょうか。
 なぜ伊藤先生は、「かつて日本史学界には『左翼』が多かったが、ワシが退治した」と胸を張って功を誇らないのでしょうか。それは決してホラではないのです。なぜ自分が倒したはずの亡霊に、いまだにこだわるのでしょうか。そのこだわりが、身辺から弟子たちを遠ざけたのではないかと思われてならないのです。

 なるほど、世界は共産主義に向かうのだ!と決めつけて歴史を解釈するのは、こじつけになる恐れが多分にあります。伊藤先生の批判はもっともで、だから学説も受け入れられました。ただそうやって、伊藤先生は「敵」を倒した後は、どんなヴィジョンがあったのかといえば、そこは弱かったのかもしれません。
 そこで私は、大変失礼と思いながらも、伊藤先生のご研究(それはとても立派なものなのですが)を支えていた原動力は、結局「敵」と戦うことにあったのではないか、と考えざるを得ないのです。ご自身がかつて共産党に属し、そこから離れた、それ故のルサンチマンというかコンプレックスというか……「敵」と見据えた「左翼」を倒そうと研究し、見事「革新派」論で「敵」を討ち取った伊藤先生は、しかし研究の原動力が「敵」を倒すことにあったために、自分で倒したはずの「敵」の亡霊を自分で作り出し、それを追いかけることで戦いを続けているのではないでしょうか。
 その伊藤先生のご研究は、「敵」である「左翼」マルクス主義史観が盛んだったときは、それへ対抗することで立派な成果を上げました。しかし具体的な「敵」が、皮肉にも伊藤先生の力と、世界情勢の変化で消えてしまうと、伊藤先生は迷走して亡霊を追いかけ、事ここに至ってしまったと私は思います。学問で「敵」を倒すのは、間違った説を正すことで、より真理に近づくための手段です。しかし伊藤先生は、おそらく手段と目的を混同されてしまったのではと思うのです。これは、「ニセ科学」批判をしていた人々の中に、正しい知識の普及よりも「ニセ」を叩くこと自体が目的化した人がいるのと同じです。

 もう一つ、伊藤先生は歴史研究に思想や価値判断を持ち込むなという趣旨のことをインタビューでおっしゃってますが、「思想から自分は自由である」というほど危なっかしいイデオロギーはないのではないでしょうか。「左翼」と違って自分は「客観的」なのだ、という驕りを感じます。
 結局、「思想」を批難しているうちは良かったけれど、いざその思想を倒してみたら、代わりになるものが自分の中になく、見当違いなものにも「左翼」のレッテルを貼って叩き続けている、まるでアレルギー反応のようなものが、思想を嫌った「実証主義」の成れの果てなのではないかと、私は思うのです。「思想」から自由な「実証主義」を標榜しながら、その実はとうに廃れた「左翼」という藁人形叩きをして、現状認識が歪んでネトウヨのような暴言をする――というと、私は東島誠先生の言葉を思い出します。少し長いですが、以下に引用します。

 大政奉還百五十周年、明治維新百五十周年の記念行事の一方で、いまふたたび中世史ブームだという。それも、よりによって室町幕府が熱い。呉座勇一『応仁の乱』を機として、いわゆる室町本が飛ぶように売れているとのことだが、ただ、なぜこれだけのブームを呼んでいるのかについて、説得力のある説明を目にすることは、いまだない。呉座自ら譬えるように、応仁の乱と第一次世界大戦に類似点がもし本当にあるのだとしても、大戦の引き金となるサラエヴォ事件から百年に一つ余る年に安保関連法を通過させてしまったこの国の〈空気感〉と、その翌年刊行された同書の売れ行きの間に、因果関係があるとは思えない。

 もちろん、アカデミズムの内部事情から、いくつかの伏線を語ることは比較的容易である。一つには、この十数年の間に、大学や文書館等の所蔵史料データベースの公開が進み、史料へのアクセスが容易になったことで、それまで手薄であった室町時代の研究が一気に進んだこと。いま一つには、戦後の民主化をテーマとした「戦後歴史学」の流れが完全に終焉し、歴史学、とりわけ前近代史の若手研究者が、無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)していること、等々。とはいえ、こうした伏線の上に新時代の寵児たる呉座が登場したのか、と言えば、これもどこか物足りない説明だ。
 この一節を踏まえた議論は、2021年に著名な研究者によるネット上での誹謗中傷や差別発言が発覚して問題となり、しかしそれがねじれてネットの「祭り」となって誹謗中傷の被害者をさらに傷つけることになった一件を題材に、すでに別稿で行いました。別稿はこちらです。
 ですので東島先生の議論から私が考えたことも、別稿の繰り返しになりますので、以下に引用しておきます。
 東島さんの議論を踏まえて私なりにまとめてみると――東島さんの理論の根底にはヴェーバーがあり、私はヴェーバーは遥か20年あまり前に訳本を斜め読みしただけで大して理解しているわけではないのですが――学問は事実をもとにすべきといっても、人は規範から抜け出すことはできない。戦後の日本の歴史学での規範はいわゆる戦後民主主義だった。学問における規範とは、ざっくりいえば何のために学問をするのかという目的であり、その目的に向かって学問をどう練り上げていくかが肝要である。といって、目的のために研究対象を捻じ曲げてはもちろんいけないのであって、実証もまた車の両輪である。実証とは、目前にある諸史料をいかに矛盾なく組み立てて世界像を示すか、その整合合理性である。しかし1990年代以降の戦後民主主義の衰退により、若い世代の研究者は自分が捉われている規範に無自覚になり、目前の整合合理性だけを見る「規範の自覚なき素朴実証主義者」の傾向を示している。そのようにまとめられると思います。
 そこで私は考えざるを得ないのですが、思想で研究を捻じ曲げてしまうことが問題なのであって、捻じ曲げることに注意した上で、やはり何か思想というか理想というか、そういうものを持たなければ、研究者はどこかで破綻をしてしまうのではないか、ということです。
思想やイデオロギーが問題となるのは、それが教条的なお題目と化して意味を失い、人びとを考えないで生きるようにさせるものである場合です。そのようなイデオロギーの恐ろしさは、チェコのハヴェルの名著『力なき者たちの力』が見事に描いています。いわば、一番危険で問題なイデオロギーは、「自分はイデオロギーから自由である」という、ある種傲慢な思い込みなのではないでしょうか。


 思想やイデオロギーを必要以上に嫌い、ルサンチマンで行動している時に、「敵」の姿が具体的であれば戦うためにまだしも自分も具体的に考えるのでしょうが、その敵が妄想の中の存在になってしまうと――敵の像が具体性を失って単純化され、それに対抗する自分の思考もまた単純化してしまうのでしょう。
 そうして、ルサンチマンを背景にした思想なき実証主義が思考の単純化を招き、陰謀論に走ったり、単純化した思考でつるむ仲間同士で他者へのいわれなき敵意を募らせたり――それが今起こっていることではないか、私はそのように考えています。それが東島先生の書く「無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)していること」につながっているのではないでしょうか。
 そう考えると、確かに伊藤先生はいつも時代の最先端であった、という思いはしてきます。マルクス主義全盛だった時期に、いち早くそれに捉われない実証主義的な歴史学を打ち出して歴史学を塗り替えました。しかし実証主義が一世を風靡し、理論や思想が置き忘れられてしまうと、先陣を切って「無思想のままネトウヨ化」してしまったのもまた伊藤先生だったのです。それは現在の若手の歴史学者の悪しきモデルにもなってしまっているのかもしれません。もっとも皮肉にも近代史がその弊の相対的に少ないのは、直接的な歴史修正主義の攻撃を受けているからなのでしょうが。

 それでは偉そうに書いてるお前はどうなんだ、といわれると、もちろん私は伊藤先生や東島先生などと比べて遥かに浅学菲才であることは自覚しておりますし、何かしらの思想を研究に際し打ち出せるほどの知識も思考力もありません。しかしルサンチマンの罠にかからないで済む条件に、幸いにも恵まれています。
 それはまず、周囲に(数は多くないにしても)師と仰げる人、友として敬える人がいることです。共に面白いものについて議論できる人がいるのは幸せです。もう一つは、研究対象について調べて知識を増やしていくこと自体が楽しい、という、私が鉄道マニアであるが故の特質です(笑)。学問は好きだからできるほど単純ではないですが、どこかに強いインセンティヴがないと続かないのも事実です。調べていくうちに蘊奥に触れていけば、単純な好き嫌いを超えた何かがそこにあることを感じることができます。その何かを追いかけ続けていれば、理想へ至る道の手がかりくらいは掴めるかもしれません。

 本記事は、見事な史学史のオーラルヒストリーをされた、辻田真佐憲氏に感謝して締めくくるべきなのですが、辻田氏には上掲別稿で触れた事件がもとになって――それをきっかけに私を誹謗中傷罵倒した人に忖度したのではと私は疑っていますが――ツイッターをブロックされているのは遺憾です。
 ツイッターで書き流してもどこかへ消えてしまうので、折を見てまとまったものはブログに保存しておきたい(ツイッターもどうなるか分からないし、悪い方向にしか動いていないから)と考えているのですが、今年は2件まとめられただけで、それも本記事は完成まで三か月を要する体たらくです。来年こそはもう少し、140字より長い文章をネット上にまとめられればと思っています。
 最後に改めて、伊藤隆先生に謹んで哀悼の意を表します。

※本記事は、2021年4月18-19日のツイートをもとに、加筆修正して作成しました。

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by bokukoui | 2024-12-29 18:36 | 歴史雑談 | Comments(0)