ナヲコ作品の評をネット検索して思ったこと
先週のイベントの折に同好の士に会えたりしたから、ということばかりがすべての理由ではないのですが、ふと思いついて「ナヲコ」と検索エンジンに入力して出てきたサイトを巡ったりしてみました。で、以前の記事に対したんび氏から「ひとの記事の引用ばかりしないで自分でナヲコ作品の魅力を分析しろ」と苦情が入っていたのですが、部分的にそれに応えられそうなことを思いついたので、一筆しようかと思います。
で、一般論から言えば、こういう言い方もなんですが、いわゆるメジャーなものではないナヲコ作品をわざわざネット上で書こうという人の大部分は、要するにナヲコ先生のファンである場合が多いということです。ですから基本的な立場に異存はあまりないので、読んでもちろん新たな見方に面白く感じることはあっても、そう衝撃を受けるようなことは余りありません。
ただ、時にはそうではない場合もあって。
例えばこちらの記事。
問題は次の箇所に集約されています。
小雪:検索ぐらいしろー! と小生が噛み付きたくなったのは、この記事を書いた飯野由里子さんの経歴に感じるところがあったからかもしれません。ちなみに小生はまだ博論の提出資格はありませんが。
(中略)・・・でも『百合姫』に連載しているナヲコさん好きだな。『voiceful』っていうミュージシャンの女の子と、ちょっと暗い引きこもりっぽい女の子の話を描いている人なんだけど。あれも設定は学生なんだけど、「うまいなー」とわたしは思う。
モア:
ナヲコさんて、最近新しく出てきた人だよね。
とはいえこの話は枕で、本題はこれから。
サイトに書評コーナーを設けておられる方は大勢おられまして、そういったところに『DIFFERENT VIEW』や『voiceful』の評と並んで様々な漫画の評を書いておられる方もまた、少なからずおられます。で、ナヲコ作品の愛好者は他にどんな漫画を読むのかな~と見て回るのも一興なのですが、小生はあるサイトで「?」と感じざるを得ない組み合わせを発見したのです。
そこで、同じページに挙げられていた漫画とは。
『嫌韓流』&『嫌韓流2』
奇妙に感じた理由の少なからぬ部分はむしろ政治的理由だったのかもしれませんが、それを除外しても(しえるのかという問題はとりあえず措くとして)、やはり違和感を感じさせたものはあるのでして、小生はこれらの2冊を部分的立ち読みでしか知らないのですが、その際の微かな(あまりとどめる気にもなれなかった)記憶をせっせと掘り出してしばし考えた結果、小生がナヲコ作品のどこに魅力を感じているのかということの一つの理由が分かったような気がして、それで嬉しくなったのでこのような記事を書くに至りました。
その点に関しては、『嫌韓流』に感謝したいと思います。
先日のイベントで入手した『ナキムシのうた』は過去十年分のナヲコ先生の作品の総集編で、いかな漫画に関しては素人に毛が生えた程度の審美眼しか持たぬ小生ではあっても、仔細に見てみれば絵も多少は変わっているんだなあという感も受けたのでした(目の雰囲気とか)。しかしそれでもやはりこの作品は同じ人が書いたのだろうと納得させるものもあるわけでして、それは何だろうと考えてみるに、或いはそれは「余白」なのではないかと思ったのです。この「余白」は物理的な意味と比喩的な意味とを論者も碌に区別せずに使っているのが曲者なのですが(苦笑)
これに関連して、先日たんび氏がナヲコ作品について述べられた際、「体温の希求」というワードを使っていたことも思い起こされるのですが、「体温」のような直接描けないものを示す上で余白の示す意味は大きいのだろうと思います。
とまあ、以上のようなことを、ナヲコ先生の作品評と『嫌韓流』を並べて書いていたページを見て思ったのですが、何故そんなことを思ったかといえば、『嫌韓流』のような漫画は概して「余白」が少ないものだからです。もっとも分かりやすい例としては、よしりんの『ゴーマニズム宣言』を挙げておけばいいでしょう。
「余白」が少ないとはどういうことでしょうか。
それは、読者に与える解釈の余地をなるべく少なくしようということなのではないだろうかと思います。言い換えれば、著者が自著の内容を自分の思った通りに読者に解釈させることに専心するということです。それは畢竟、著者の支配欲が作品発表の強い原動力となっているものでしょう(薬害エイズ事件や教科書運動をめぐるよしりんの動きを振り返れば、彼が自著の読まれ方について、上記のような傾向を持っていることは明らかといっていいでしょう)。
そのような書物(含漫画)は、いわば読者に対する信用が低いというか、読者を自分の思う通りに誘導するという目的(欲望)がかなり多く含まれているのではないかと思います。もっとも、そういった傾向、いわば他者の解釈をノイズとして排除するような傾向は、先日も雑駁ながら書いたように、割と広汎に存在することのようにも思われますが。
誤解を避けるために書いておく必要を感じますが、「意味内容を明快に伝える」ことと、「余白」が少ないこととは、同じことではありません。正確に意味内容を伝達しつつ、なおかつ豊富な「余白」を持つことは可能です。優れた研究書などは、意味内容を伝えた上で読む者が様々に自分なりの考えを紡ぎ出すきっかけを与えてくれます。
これは「何を」伝えるのかという内容の如何に関らず、「いかに」伝えるのかという手段の問題ですから、意味内容自体が難解であろうと、あるいは意味内容そのものに重きを置かない場合であろうと、上手い下手は存在する話です。
話を戻せば、以前もちょっと書いたことがありましたが、ナヲコ先生の作品に関し「『百合』度が低いから」といって評価を落としたりするという例があったりします(2ちゃんの百合スレでも、『DIFFERENT VIEW』に話が及んだ際「ペドがたくさん入ってるのがネック」「つーか思ったより百合話なかった気がしたが…」といった類似の例が見られる)。成る程、ナヲコ先生の作品は、そういった枠にはめたがる人には捉えどころがないように見られる可能性もあるとはいえ、ただ単にあてがいぶちの枠に当てはめるような(キャラクターに「ツンデレ」などと「萌え」属性のレッテルを貼るような)解釈よりも多少なりとも柔軟性を持って「余白」を見ることが出来れば、その「余白」に何か自分にとって大切なものを見つけ出す公算は決して低いものではないでしょう。
正直、今回の検索で『voiceful』の感想について言えば、『DIFFERENT VIEW』のそれよりも小生にとって面白いものは相対的に少なかったという感があります。もしかすると、エロマンガでは「エロ」という描くべきお題がはっきりしているだけ、「余白」も際立ったのでしょうか? それもあるのかもしれませんが、思うにやはり「百合」のテンプレートに引きずられてしまって、女の子同士の関係ということに読者の着目点が集中してしまったことも一因ではないかと思ったりもします。
あの物語の魅力の一つは、歌という絵に描けないものを漫画の主要な構成要因にしているところにあるのではないかと思います。具体的に描かれていない(描けない)けれど、いや描けないからこそ、歌声を感じさせる「余白」の持つ力が大きいのではないか、などとも思うのです。
うだうだ書いてみたけどあまりまとまりませんね。第一「ショタ」の説明という点では一歩も進展しておらんがな。
まだまだ修行が必要ですね。
>S竹君
読者に解釈の余地を残すプロパガンダが想像しにくいなんてとんでもない。プロパガンダにおいては、明示的には書いていないが筆者が読み取ってほしい内容を、あたかも読者が自力で発見したかのごとくに読み取らせるものこそ最高のもの。
もし本当にそんなことを思っているのだとしたら、今まで君がどれほどの「本当の」プロパガンダに引っかかって来たのかが思いやられる。そしてどれほど多くの「単なる主張」をプロパガンダとして退けて来たのかも。
「芸術性」という言葉で何を指しておられるのかが、小生には察しかねることを何卒ご容赦いただきたいと存じます。
プロパガンダは基本的に読者に解釈の余地を少なくする(そのより高度な手法として、ラーゲリ緒方氏のご指摘になったような手法もあると思いますが)ものでしょうが、本稿は別段「プロパガンダ」というものの枠組みを論じ、かつ何にそれがあてはまるかを検討するというものではなく、むしろ枠組みに当てはめたがることの問題点を考えてみるものの積もりでした。
しかし、それとは全く異なる読みをご指摘いただけたことは、まさに他者の他者たる所以を堪能できたと感じております。
で、一応付言しておけば、貴殿の仰る「プロパガンダ」的なものと、「余白」との違いは、コンテンツの発し手が受容者に対してどのような立ち位置をとろうとしているのかによるのではないかと思います。
プロパガンダに関し含蓄あるご指摘ありがとうございます。宗教とも通じるように感じられますが、それは門外漢の戯言とご海容下さり度。
『百合姫』においてナヲコ作品が『百合姫的』がないとしても、それがナヲコ作品が「百合的」であることを逆説的に示すというより、やはりただ「ナヲコ的」であるということを示しているだけではないか、そのように思います。