[資料メモ]大軌に就職した鉄道マニア
そんな状況なので、資金的な状況もあるし、新規書物の受け入れは極力控えねばと思っているのですが、しかし今月は前々から待ち望んでいた鉄道本が二点(これとこれ)出ることもあるし・・・どうしよう。
とにかく、今積んでいる本を最優先で片付けねばなりますまい。
片付けるといえば史資料類も暫定整理のまま積み重ねっている(文字通りの意味で)ものが大量にあるので、何とか年内には整理せねばならぬところです。しかしそんな折、神戸大附属図書館が所蔵している膨大な新聞記事コレクションをデジタル化して、画像とテキストと両方でネット上で見られるという事業を進めていることを知って最近使っているのですが、これが危険で、何が危険かというと直接関係がなくても面白そうな記事があるとついつい読みふけってしまうからです(笑)。まあ昔の新聞とか見ているときにありがちなことですけど。
今日はそんな作業中に発見した、歴史資料としての使い道はあまりなさそうだけど、読んでいてそれ自体面白かったものをご紹介します。
出典は『大阪時事新報』1936(昭和11)年9月11日より。「郊外電鉄の巻」という続き物記事の最終回です。デジタル化したものに拠っていますが、明らかな原文の誤字は直しておきました。
日給三十銭で掘出した社員 “女房よりも電車”のA君 大軌が誇る最新型大阪電気軌道、略して大軌とは、現在の近鉄の元になった会社です。上本町と奈良、大阪線桜井以西、橿原線などを建設し、傍系の参宮急行が伊勢に至る路線を建設しました。
いろいろと電鉄会社のことを書き並べて来たが、どうも、社長サマや重役サマ等あまりお偉ら方達ばかりでは話は面白くないから一寸くだけて当代大学出の青年電鉄社員の新型を一つ御披露しよう
その青年社員は大軌の人である、本名をハッキリ書いたところで別に差支えはないが、先生未だに独身、親類縁者の人がもう年ごろだからそろそろと良縁あればと女房を世話しようといっているが、若し、これから書く話が良縁の“きき合せ”にでも差支えては気の毒千万だから、とにかく本名を差し控えてA君と呼ぼう
このA君どうした因果かは知らぬが生れ落ちて五、六歳のころより“電車”というものが好きで好きで、寝ても覚めても電車々々で年がら年中暮していた、勿論A君の家は相当以上の家だし、学費は勿論のこと、書物や玩具等何一つことを欠く訳では無い、小学を卒えて中学に入った、さてA君の電車好きはいよいよ露骨になった、酒や悪所通いは勿論のこと、出来得る限りの節約をして好きな電車のモデル参考書とかをウンと買込んで独り研究を重ね、中学を出るころには一ツパシの電車通になり切ってしまった
あまりに“電車遊び”に凝りすぎるので両親もすこしは心配になり出したが“まあ悪いことでは無いから”となすがままに放任して置いた、A君はそれかといって学業を放棄するまでにはたち至らずに無事に高校の試験もパッスし、姫路高校に入学した、いよいよ学校の寄宿舎生活が始まったが、早くも、寄宿舎に居る間から今後下宿すべき先きを探し歩いた、綺麗な娘さんの居そうな家を求めて、無理にても下宿を頼み込□年頃だのに、A君は女よりも、酒よりも電車-その時分は汽車にまで進んで居た-交通機関に縁のあるところ許りをたのみ歩いて、丁度良い塩梅に姫路駅に勤めて居る鉄道員の居宅に下宿することが出来た、セッセと相変らず交通機関のことを研究していた、三箇年の姫路生活もいよいよ終りを告げていよいよ京大経済学部へ入学することになった、その時には電車汽車汽船等凡そ交通機関に関する限りにおいては全くの玄人の域にたち到った
さて大学へ入ったが、一向に教わるものは面白くもなく、交通政策だ何んだといった風のものに関しては専任の小島昌太郎博士も跣足という有様で、書斎や研究室での“交通病”はどうも収まりそうもなく、終には、街頭にまで進出した、夏は夏、春は春と、学校の休み休みには必ず大阪駅の案内所に手弁当で出張温泉行きのスケデュールから海水浴、日満鮮は勿論のこと、欧亜の連絡にまで乗出した三年の京大生活にもいよいよ名残りを惜まねばならなくなった昭和三年の春、この電車病者を迎えてくれたのは鉄道省でも電車会社でもなくパニック後の不況-就職難-という冬の凍結したレールよりも冷やかなものであった
しかしA君には不況も就職難も何んの糞、電車々々で我世の春を謳っていた、両親も折角中以上の好成績で学校を畢え乍らも内でいつまでも“電車遊び” でもなかろうといろいろあちこちへ就職を依頼した、ところがA君のいうには“電車会社なればロハでも結構ですから”との話、いよいよ在阪の大銀行の支店長某氏からのお口添えで大軌に世話して貰うことになった、大軌にとっては有力な後援銀行、そう、ムゲにも不況整理時代とは言え、断り兼たお偉ら方“そんなに電鉄が希望なら入れて上げよう、併し、今の本社の状態では大学出とて六十円の七十円のという訳には行かぬ、日給三十銭ならきなさい”と申越した、A君にして見ればタダでも良い位のところへ日給三十銭とは全く望んでも得られぬ好条件、両親は余り喜びもしなかったが本人の喜びと来たらそれこそ天にも昇った位の喜びで、毎日々々改札口に出て何かとサービスをするし困難なダイアを瞬時にして作るやら、他線との賃銀の算定やら、とに角、入社当時既に運輸課長以上の腕があったこれがなんと日給三十銭月給にしても九円弱というのだから大軌にしても全くの掘り出しもの、それが今ヤット七十円位の月給に昇り満足してせっせと勉強しているのであるから、とに角変っているといえばいうものの、また大軌も良い社員をもたれて目出度し目出度しと言わねばならぬ、もうかれこれA君も三十を一つ、二つ出たろう。“どうだ、もう、いつまでも独身じゃ困るだろう、嫁でも貰っては”と勧める人があると“いや僕の女房は電車です、この電車という女房がある以上は他に女房は要らぬ”というので、だれもかれも縁談を持ちかけた方が唖然としている有様
どうだろう、これ位の電鉄社員が他所にあろう乎。これも腕くらべの一つになろうがな-(電鉄の項終り)
で、こんな鉄道マニア社員がいたというのですが、曲がりなりにも京大を出ている以上、早死にしたり転職したりしていなければ、近鉄でそれなりの地位に上った可能性はかなり高いのですが・・・。戦後の近鉄の大物社長・会長として知られた佐伯勇の入社が1927年で、この頃はまだ帝大卒で大軌に入る人は割りと珍しかったみたいですし。学歴がはっきりしているので特定することは不可能じゃないと思います。どなたか手がかりをご存じないでしょうか。
それともやっぱマニアは出世できなかったのかな。それはそれでありそうな。
こういうのが長老にいたら、近鉄も2200形(戦前の日本電車界きっての名車)を全部潰すなんてことはしなかったような気もするし。