偏向した山川出版社の歴史参考書に抗議する
今日、日経新聞の朝刊を読んでいたら、社会面に「大陸の鉄路今も“故郷”」と題して、南満洲鉄道(満鉄)が昨日で創設百年だったこと、それを記念して満鉄職員のOBや家族で作る財団法人満鉄会(戦後、引き上げてきた社員に退職金や未払い給与を支払ったりするために発足し、現在はOBや家族の親睦団体となっている)が百周年大会を開いたことが述べられていました。
先週は京阪電気鉄道創設百周年でしたが、今週は満鉄百周年だったのですね。気がつきませんでした。
日経新聞のサイトには、この社会面の記事が紹介されておりませんので、やや古いものですが、類似の話題を扱ったニュースへのリンクを張っておきます。
社員40万人「満鉄」創業100年 運営悩むOB会
さて、このリンク先の記事にも名前と写真が出てくるのが、満鉄の看板列車として有名だった特急「あじあ」です。上掲日経の記事でも、「十一月半ば。当時最速の特急「あじあ」の写真が飾られた満鉄会事務所(東京・中央)では、幹部らが大会準備作業に追われた」と、かなり強引な形ですが登場しています。そしてどうも、高校の日本誌教科書の中でもこれに触れたものがあるようです。教科書に登場する重要語句を集めて解説を付した、受験生にはお馴染みの必携アイテム、山川出版社の『日本史B用語集』をめくってみましょう。
僅か3行足らずの記述にも拘らず、鉄道趣味者からするとツッコミどころが複数見つかるというとんでもない記述です。
まず、「あじあ」(「号」をつけないのが正式の愛称)は列車につけられた愛称であって、機関車の名前ではありません。「あじあ」を牽引したのは、そのために設計された流線形のデザインで有名な「パシナ」形機関車です。
しかし何よりも問題なのは、「時速110kmは鉄道の世界最速」という記述。どこの世界ですか?
実際のところ、パシナの性能は時速110キロ以上出たようです。齋藤晃『蒸気機関車の挑戦』から引用すると、
パシナの運転最高速度は時速110キロと教示されているが、当時キャブに同乗した方々の話を総合すると、水平区間の走行は常時時速100キロを超え110キロにたっすることもしばしばあり、通常運行でも時速120キロまで出すこともあった。試運転の最高は短時間であったが時速135キロを出したとのことである。アメリカの常識1インチ1マイルよりもやや控え目に感じる。(同書p.192)だそうです。「1インチ1マイル」というのは、蒸気機関車の動輪の直径インチ数と、実用最高速度のマイル数が大体一致するという、アメリカの機関車の通例です。パシナの動輪は直径2メートルなので、インチに換算すると約78.7インチ、これをマイルに読み替えると時速約126.7キロになります。それと比べると、最高110キロだったパシナの引く「あじあ」の速度は、「やや控え目」というものですね。
特急「あじあ」は大連~新京(長春)間701.4キロを8時間半で走ったので、平均は時速82.5キロとなります。これは当時(1930年代)の世界ではどの程度のものだったのでしょうか。齋藤氏の前著『蒸気機関車の興亡』から拾ってみると、
・1929年、イギリスのグレートウェスタン・・・平均時速106.5キロ
・1931年、カナダのカナディアンパシフィック・・・平均時速110.8キロ
・1932年、イギリスのグレートウェスタン・・・平均時速114.9キロ
ここら辺が蒸気機関車界の俊足連中です。これは平均速度なので、最高はこれよりも更に速かったわけですが、平均が既に「あじあ」の最高速度を上回っています。
ちなみに戦前世界最高速だったのはドイツのディーゼル特急「フリーゲンダー・ハンブルガー」で、1933年の登場時最高速度時速160キロでベルリン~ハンブルクを結び、その平均速度は時速124.6キロだったそうです。
※追記:フリーゲンダー・ハンブルガーに開通3日目に乗った日本人の話はこちら
「あじあ」については、その流線形のデザイン(機関車パシナと客車のどちらも)は高く評価されており、いつぞやネタにしたデザイナーのレイモンド・ローウィーも褒めたといいます。確かにパシナの流線形は、ボイラーと足回りをうまく一つに纏めており、ローウィーデザインの流線形機関車がボイラーと足回りがはっきり分かれてしまっているのより綺麗に見えると思います。
ですが、速さの点では、そんなに速かったわけでもありません。しかし「あじあ 満鉄 世界最速」でぐぐると、結構な方が「あじあ」=世界最速、と信じておられるようです。参考書も間違えているくらいですし。
このところしつこく追っかけている東急デハ5001号の話に強引にくっつけると、結局日本における技術史への関心なんて所詮この程度だ、ということになるのでしょうか。
というわけで今日のお題の「偏向」とは、「歴史教科書」とこの言葉がくっつけられた時に普通出てくる文脈である「自虐史観」批判ではなく、逆に「自賛史観」とでも言うべき逆パターンを、産業技術指摘方面への関心の薄さと共に批判する、というものでした。
鉄道趣味は国粋主義的になりやすいといわれることがありますが、それは主に日本の鉄道史を国鉄関係者やそれに近い人が書いてきたため、どうしても自画自賛になる傾向があったのでした。小生もそんなわけで、子供の頃から日本の鉄道技術は昔から偉大であったと刷り込まれてきておりましたが、この齋藤氏の著作や、髙木宏之氏の見解などを知って、自分でも色々読んで考えるにつけ、このような「自賛史観」は適切ではないのではないかと思うに至りました。
皮肉にも「自虐史観」を声高に叫ぶ連中はその頃から台頭してきて、どうも心地良いのかそれに転ぶ人もまた少なくなかったわけですが、同じ頃に逆方向のパラダイムシフトを経験した小生は、そもそもそういった人々に対し冷ややかな眼差しを向けるだけの理由があったわけなのでした。