5001保存全史(お寄せいただいた情報をまとめて再録)
以下編集再録。
◎5001保存全史どうもありがとうございました。一旦は保存をしておきながら、今回のような破壊を行った理由の説明として、説得的であると思います。しかしかかる下らない理由で、東急にとって何より大事であったはずのものを破壊するとは、そしてそれをとめることが出来なかったということは、何よりも情けないことです。近年の東急グループの混迷振りの一つの表れなのでしょうか。
私がいままで複数の方から聞いた話を、披露させていただきます。
(1)二子玉川保存案
1977年ころ、東急の電車模型を販売している、模型店の店主が、お客さまも東急の検車区員から聞いた話です。
「長野電鉄に5000系を出しているけど、5001と5201は大事なんで、二子玉川の新玉川線の高架線の下を利用して各3両連結(登場時の編成)で保存を考えている。」とのことでした。
後に高津に博物館が設置されることを考えると、当初は二子玉川に予定されていたのかもしれません。
2)長津田保存にいたるまで
東急5000は車両の特性(軽量・省電力)から、地方鉄道への譲渡が続きましたが、東急傘下の上田交通にも譲渡される事となりました。
1986年の夏のことです。(10月から使用)
その中で、5001と5201は上田交通に譲渡されることとなりました。
上田交通をまとめた学習院大学の鉄道研究会誌によれば、東急としては使用できる間は現役で使い、引退後は引き取るというプランであったようです。(関連会社に出したのはその為とか)
上田での使用は6年ほど、東急7200系に置き換えられ、5001と5201は東急に戻され長津田検車区に留置後、長津田工場にて、東急時代の姿にもどされました。
長津田検車区の一隅には、保存用の建物が設けられ6000系の台車ともども保存されたのでした。
だれもが、安住の地を見つけたと思い、安堵したものです。
東急にて車両の保存に留意されたのは、幹部社員のMさんでした。(役職等は記入いたしません)
伊豆急にてED25が廃車になるや、長津田工場の入替機としての利用をされたのも同氏でした。
しかし、同氏が関連会社に移られた後、後任になったA氏(実在人物の頭文字とはことなります。)はM氏とは犬猿の仲だそうです。 (複数の人物の証言ずみ)
(3)出長津田の記
後任のA氏は、反M氏を公言、文化大革命を行いました。
それが、長津田から東急車輛への保管場所の移転でした。
表向きの理由は長津田が手狭になったとの理由だそうです。
東急車輛での保存の実態は、野ざらしで放置に近い姿でした。
(伊豆急100系・5201も同様の姿でした。)
以上、私が聞きえた範囲での情報です。(寄稿:東急ファン様、編集:墨東公安委員会)
文中M氏は、小生もどなたか見当はついておりますが、「東急ファン」様が記事中で公開しておられないので推測でお名前を書くことは控えます。ただ、一般的に言って、日本の鉄道事業者が車輌を保存する場合は、多くはM氏のように直接の関係者が鉄道そのものに深い愛着を持っていることが殆どのようです。会社がそれを保存する、という発想が乏しく、したがってそのようなことを行う体制もないということです。もっとも東急は、「電車とバスの博物館」という自社の博物館を持っているので、比較的マシなほうだと思っていたのですが・・・その東急にしてかくの如し。
M氏については引退はされたもののまだご健在らしいので、このたびの事態をどのように考えておられるのでしょうか。(最近体調を崩されたという噂もありますが)
ともあれ、なんともありがちな、しかし情けない話なのでした。