みだれうち漫画感想 つづき
昨日カテゴリ「漫画」を増やしたので、過去の記事の再区分がてらもう一つ「歴史雑談」を作りました。歴史に関する話題は小生の現在の所属故にか、これまでにも結構多かったのですが、「学」「論」というほど立派なものでもないから、「雑談」にしておきました。
ただし、鉄道史は「鉄道」ですし、メイドとか制服にまつわる昔話も「制服・メイド」にカテゴリ分けしています。複数の分類に同時に入れられないのでやむなし。
で、昨日の続きの本題ですが、昨日評論する時間のなかった漫画2冊について一筆。
・かがみふみを『ちまちま』双葉社
成年コミック作者が一般向けに転じた作品(筆名は「加賀美ふみを」から微妙に変化)。絵はちょっと変わっているような気がします。巻末で作者ご本人も書いてますが、成年コミックの作品とある意味同じことを描いているのがなんともはや、偉大というしかありません。もっともかがみふみを氏のような作風の系譜からすれば、例外的なものというよりむしろ保守本流(?)と見るべきもののようです。先日読んでとても面白かった(近日書評記事執筆予定)『エロマンガ・スタディーズ』という本にそう書いてありました。余談ですがこの本の著者の永山薫氏は、カマヤン氏の初単行本『小さな玩具』の巻末でカマヤン氏・故米やんと鼎談していた人です。
で、昨日の記事のガンスミ・ブラックラグーン評同様、比較した方が書評を書きやすいので、もう一冊行ってみましょう。
・植芝理一『謎の彼女X 1』講談社
昨日紹介した駕籠作品は「成年コミック」マークがついているのに、なんでこの植芝作品にはついていないんだろう?
というヨタはさておき、『ディスコミュニケーション』の作者・植芝氏の新作(っても3ヶ月前に出てるけど)です。
以前小生は当ブログにて、ディスコミは愛読していたけど「精霊編」はいまいちで、『夢使い』は読む気がしなかった、と書いたことがありました。しかし本作は一読して満足、二読三読して楽しんでいます。このことと『謎の彼女X』を楽しめたこととは同じ理由だと分かったので、この機会に一筆。
ディスコミの内容をものすごく大雑把に要約すれば、ヒロインの女子高生・戸川が不思議な男の子・松笛に惹かれて、「わたしはどうして松笛くんを好きになったんだろう?」と思いながら不思議な世界や事件に出会っていく、というお話です。つまり、不思議な世界の住民=松笛に対し、普通の世界の住民=戸川という関係が物語を推し進める基軸になっていて、面白さもそこにあったと思うのです。ところがディスコミの「精霊編」になると、戸川が引っ込んで三島塔子(不思議な世界の住民)が表に出てくるため、不思議な世界の中だけで話が進んでしまうので、それまでのような面白さがなくなってしまったように感じられたのでした。
その点、『謎の彼女X』はディスコミの男女逆転形の構図を示しているので、小生のような嗜好の人間にとっては大いに満足の行くものだったのでした。
無理やり話をつなげれば、『BLACK LAGOON』におけるロックの立場をこれに比定してみてもいいのかなと思います。ガンスミのラリーの位置は、表社会(ロイ的な)と裏社会(ビーン的な)との中間、ということになるのかな?
さて、『ちまちま』には帯に「ちょっぴりひかえめなラブストーリー」とあり、『謎の彼女X』の帯には「“正体不明”の恋愛漫画」とあります。共に恋愛関係をテーマにした漫画でありながら、その作風はえらく異なっているように一見すると見えますが、小生がしばし思うに、実は結構共通していると解釈できるところもあるんじゃないかな、と思います。
それは、端的に言えば、「恋愛とはかくあるべし」的通念との齟齬に登場人物が自分の感情って「恋愛」なのかどうかと考えているところなのだろうと思います。古典的な恋愛ものって、身分とか民族だとか宗教だとかの「壁」を乗り越える(或いは阻止される)二人の愛の形を描いていたものだと思いますが、今の日本などではそういった壁はかなり低くなって自由恋愛、と言うことになっています。そういった恋愛が当たり前になった世の中で恋愛を描こうとすると、実は「恋愛」そのものが一種の社会規範として機能してしまっているということになる、ということに突き当たるのではないかと思うのです。ちょいと皮肉ではありますが。
やや話が逸れますが、以前本田透『電波男』なぞ読み、ネタ本なんだしとスルーしようと思っても、どうにもこうにも何か不快な残滓を心に感じていたのですが(そして同書を礼賛するようなネット上の恋愛――というかいわゆる「非モテ」関連の諸言説についても)、それは以下のようなことが一つの理由なのだと思います。すなわち恋愛というものが商業主義に有利な規範となってしまっており、規範に従わないものを抑圧するような構図になっている、そのことを本田氏らは「恋愛資本主義」などと批判し、それ自体はひとまずいいのですが、それに対して「純愛」などという別な規範を持ち出して、今の世相を批判し自己を正当化していることが小生には気に障るのです。規範の良し悪しではなくて、規範で他者を抑圧するということ自体の問題に目を向けていないからです。(機会があれば「恋愛資本主義」というものがどうやって日本に生まれたのか、自説を書きたいと思います)
小生は、二人で同じ規範を守ることで自分たちの社会的正当性を確認することが恋愛だとはあまり思いたくないので(実際の社会的機能は多分にそうなっていますけど。そしてそれは昔は「イエ制度」とかが果たしていた役割なんでしょうけど)、規範遵守を云々するよりも、今目の前にいる得体の知れない存在である他者とどう向き合うのかという問題として捉えたいと考えます。ここらへんについては、以前当ブログで紹介した桜井教授の言葉とそれにコメントしてくださったteさんの言葉が思い出され、またその後に書いたこちらやこちら(これは怖ろしく纏まりが悪いのですが)の内容とも繋がってくると思います。端的に言えば、テンプレートを守ることで「恋愛している」と安心するのはつまらないことではないか、それよりも他者という分からないものとの対面を、分からないということを楽しんだ方がいいのではないかということです。
早くも「クリスマス」の飾り付けをはじめた最近の街頭風景を思い起こしつつ。
一言感想を書くだけのつもりが、なんだか段々と長くなってきて、こんな大長編になってしまいました。まあそれだけどれも面白かった、ということで。