索引製作顛末記
で、『エロマンガ・スタディーズ』にて永山氏の述べるところでは、エロマンガは「およそ考えうる限りの欲望に対応する作品=商品を生み出して来た(p.102)」というわけですので、そのエロマンガを扱った本書の索引を作ることを通じて、小生もまた自らの欲望と向き合うという経験をしたのでした。
では、小生が気が付いた自らの欲望とは、それは、「表」の快楽であります。
今回索引作成時にはExcelで表を作成したのですが、どうも小生はこういった表を作るのが好きなようです(笑)。思えば卒論を書いた時、小生が作った表はA4の紙を60枚貼り合せたもので、広げるには「6畳間必須、8畳間推奨」という阿呆な大きさでした。
面倒といえば面倒な作業ですが、しかしやっていると段々楽しくなっていきます。一つの表の中にある秩序を持って様々な情報が集積されていき、何がしかの形を成してゆく過程は、とても楽しいものなのです。延々と続く単純作業も、調子に乗ってくると一種の陶酔感をもたらすように思います(新興宗教などが類似の手法をマインドコントロールに使ったりすることはあるように思いますが・・・)。で、本来は表を作って何かを表現するなり論証するなりが目的のはずなのに、それ自体が目的化してしまったりもするのです。
つまり、『エロマンガ・スタディーズ』は、愛と性に関する実に様々な欲望に対し、エロマンガというメディアがどのように応えていったかを活写していますが、愛と性以外の欲求をもまた喚起しうるだけの力を持った本だった、ということですね。
ちなみに、「表」は英語で言えば table ですが、この言葉は元々「板」という意味から様々に広がって、いわゆる「テーブル」のような台の類、板に刻んだもの=木版・石版・法典類だとか、表・目録・地図、或いは平面といった意味を持つそうです。
で、以上の話は小生の愛読書である高山宏『ガラスのような幸福 即物近代史序説』(五柳書院)から引用しただけですが、この本では二章に渡って近代における「テーブル」の意味について語っています。台の上にモノを集め、そのモノを表を作って整理分類する。それこそが近代の営みであるというのです。
集め、秩序化する制度、人間中心の絶対主義的ヒエラルキー――それが<近代>というテーブルである。われわれはその構造化する呪縛力から逃れなければならない。「法(のり)」と「表」の階級制度、博物学の死物フェティシズムを、少なくともそれとして意識していなければならないのだ。(同書p.75)とすれば、昨日『エロマンガ・スタディーズ』について「エロマンガが他のジャンルに受容されなかったものを「なんでもあり」と受け入れて発展してきたということを伝えるためには、「エロマンガとはこうである」などともっともらしい理論を打ち立てるよりも、本書のような書き方が相応しいのではないかと思います。「なんでもあり」の魅力を伝えるのに、矢鱈と境界線をつけるのは矛盾していますからね」と褒めておきながら、索引を作って「集め、秩序化」したということは、余計なお世話という気もしてきましたが・・・いやきっと、「博物学の死物フェティシズム」もきっとまた、愛と性に連なる欲求なのであり、そう連なってしまうことが近代なのだろうと適当にもっともらしく結んでおきます。
索引を手がかりに、『エロマンガ・スタディーズ』の内容について一筆しようとしましたが、なんか話があさっての方向に行ってしまいました。このブログではよくあることですが。
内容についてはまたの機会ということで。索引作成にかかった時間からすれば、ブログ3回分のネタにするくらいの価値はあるでしょう。

>(新興宗教などが類似の手法をマインドコントロールに使ったりすることはあるように思いますが・・・)。
金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅も「表」なのかもしれませんね。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/mandara2.htm
描いている絵師は、それはそれは楽しかったのではないかと思います。
観る善男善女達も魅入っているうちに、マインド・シェイキングされていったのではないでしょうか。
(そういえば、密教だろうがどんな宗教だろうが出て来た当初はどれも新興宗教ですし)
なーるほど。一般人にも座禅を好む人が少なくない(日本に限らず)理由の説明になりそうな気がします。
>檸檬児
曼荼羅も信者に分かりやすく世界像を伝えるという面では何か縁があるのかもしれませんね。
あんまり関係ないですが、小生は曼荼羅の中では「南方マンダラ」に関心があります。