JITTERIN'JINNの歌を聴いて思ったこと
昨日の記事は少々ふざけ過ぎていた(いつものことですが)ので、今日はもうちょっと真面目に。
で、もう一つ初詣の研究から連想したことを書きたいと思います。
初詣(その前身である恵方参りについても言えそうですが)という行事は、どこにおまいりしても構わないものであって、自分がその神社の氏子であるとか、寺が自分の家の檀家であるとか、そういった宗教的或いは地縁的関係とは別に初詣に行く人が、特に都市部では圧倒的に多いのではないかと思います。そしてそのような形での初詣、という行事は、信者同士が寺社の場で相互に関係を持って行事を作ってゆくという性格はあまりなく、初詣にやってくる人間はほぼ「お客」という性格にとどまるわけです。それだけ初詣という行事が、ごくごく私的な行動であって、宗教として性格、ことに信者同士の連携を深めるような面は乏しい性格を持っているのではないかと思います。
で、これと同じ様な、寺社を舞台とした行事の形態があるのではないかということを思いついたのです――って以前にもちょこっと書いたことがありましたが。
それは「夏祭り」です。
昨日に引き続き季節外れなネタでありますが、そういうわけでかかる表題にして見ました。ちなみに「夏祭り」の歌詞はこっち。
というわけで、この歌に典型的に描かれるような「夏祭り」のイメージってどこからどのように来たんだろうなあ、と思うわけです。これは「夏祭り」に主体的に参加するというよりは、結局お客として来ているだけであり、初詣以上に宗教的色彩は稀薄なものとなっています。神田祭やだんじり祭りに地元の人々がかける情熱とは、この参加形態は全く異なるものであり、祭りの中心となるべき寺社やそれに関る人々との関係が深まるようなものではありません。宗教色や地域的な関係性は漂白されていますね。そして実際の行動は「縁日の屋台」での消費活動に向けられるわけで。
小生が斯様なことを考えたのは、自分自身にそういった経験が皆無だからというのが一つの原因です。そのくせメディアには頻々と登場しているように思われたので。その例として、小生の至極偏った知識の中からジッタリン・ジンの歌を取り上げてみましたが、それ以外にも実例はゴマンとあろうかと思います。昨日の記事を書いたため、今日はついつい youtube で『せんせいのお時間』なぞ見てしまいましたが、この作品にも典型的にこういった「夏祭り」の情景が描かれていますね。
で、この「夏祭り」も、初詣同様の近代に形成されたある種の慣習なのであろうと思いますが、その歴史については小生はよく知りません。そもそもテキ屋という業界が、資料を残すようなものでもなく行政による統計があるでもなく、歴史的研究をする上で資料的制約が大きいため、調べるのも難しそうです。小生が思うには、「夏祭り」を構成するモノの面から追っかけていくことが一つの方法ではないか、例えば綿あめとかゴム風船とかたこ焼とか、思いつきですが。
さてそれはともかく、なぜこういった宗教的色彩を薄めた個人的経験としての「夏祭り」という形が広くメディアに登場し、とは即ち多くの人に受け入れられたのでしょうか。
小生はこういった分野に関し全く教養がないので、以下は全くの思いつきです。
で、結局は昨日の記事と同じようなオチになってしまうのですが、本来は地域共同体のイベントであったお祭りにお客のようにして参加する、というのは、郊外住宅に居住する中産階級的階層が「下町」的なものに「ノスタルジー」を感じるということなのであろうと思います。電鉄マニアである小生はかねてから、現在の日本の社会生活で最も一般的な規範である近代家族的文化の形成に、大都市近郊の電鉄会社が少なからぬ影響を及ぼしてきていたということを書いておりますが、これも同様のことではないかと。
近代家族は愛情で結ばれていることになっている家庭内に重きを置いて、その分相対的に地域社会などとの関りは低下することになります。地域的もしくは宗教的関係からなる「祭り」と、そういったものよりも家庭内の情愛を重視する近代家族と、この両者のいわば妥協点が、ここまで縷々述べたような「夏祭り」イメージではなかったか、そのように思います。
以上を強引にまとめますと、一見「日本の伝統」と見做されがちな初詣だの夏祭りだのというものも、「伝統」の皮をかぶっていても、その内実は近代家族的価値観に適合した娯楽の消費であろうということで、即ちその意味では初詣や夏祭りも、クリスマスやバレンタインデーとそれほど懸隔ある存在ではないのではないか、ということです。
実際、学園モノのアニメやゲームなんかの位置付けはそうなっているしね(笑)
※追記:初詣と鉄道についてはこちらも参照