私の世界 夢と恋と不安で出来てる
ここまで小生が述べてきたことは、「恋愛」に関して抑圧を感じている人の問題というのは、「恋愛」そのものの性格というよりも、「恋愛」が「幸福」と密接に結びついた規範となって人々を縛っているからであるということです。幸せの基準は主体的に築かれるべきもので、他者が外部から規定してよいものではない、ということですね。
さらに、「恋愛」がそこまで強い規範足りえた理由として、加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』を参考に、「恋愛」「結婚」「子供」などが一体となって規範を形成しており、しかもそれが近代国民国家形成の論理とも相性が良かったためではないかと書きました。
今宵はその続きとして、「恋愛」と「幸福」が密接に結びついてきた歴史的経緯について、資本主義との関連を中心に概観することで、抑圧規範としての「恋愛」を相対化して、より生き易くなる方向性について個人的な思いを述べたいと思います。
というわけで、前回の記事でも書いたようにこれから資本主義と「恋愛」との関係について一筆物してみたいと思いますが、これまでいわゆる「非モテ」などについて語る中で「恋愛資本主義」という言葉が良く使われて来ています。検索してみると「はてなダイアリー」のキーワードとして「恋愛資本主義」があり、これが現在のところこの言葉に関する最大公約数的な定義なのであろうかと思います。
さて、この言葉の製造者らしい本田透氏をはじめとする、「恋愛資本主義」に関する諸言説を読んで小生が思ったことは、大きく二つありました。
一つは、論じられる方々の関心は大部分「恋愛」の方に集中しており、「資本主義」の方はあまり注目されていないのではないかということでした。このキーワードの解説文でも、「恋愛が」どのように資本主義によって「汚染されている」かといった語りばかりで、では資本は一体どのような動きをしてきたかということは等閑に付されています。
もう一つは、「恋愛」を家族、より厳密に言えば「近代家族」と切り離して議論してしまっていいのかということです。このことは以前に書いたことの繰り返しになりますが、19世紀以降主流になっていった近代家族というのは、「愛情」によって結ばれた「夫と妻(父と母)と子どもというトリアーデ(三者の関係)」であります。夫婦間の愛と親子の情愛とが一体となって近代家族を形成しているのであって、バラバラに論じられるものではないと小生は考えます。近代家族形成と資本主義発展、という大きな流れの中で、その一つの段階というか様相として「恋愛」と資本主義が結びついたのであり、「近代家族的資本主義(これは小生の造語ですが)」とでもいうべきものの下位概念として「恋愛資本主義」を位置づけるのが適当ではないかと小生は思うのです。
ですので、以上の状況に鑑み、小生は昨日の記事で書いたように、規範となった「恋愛」を相対化するためにも「恋愛資本主義」、ひいては近代家族と資本主義の関連性についてよく知って、いわば賢い消費者となることが、少なくとも個人レベルでは「恋愛」の抑圧から脱却するのに一定程度有効な方策ではないかと思っております。勿論小生が「資本主義」に着目するのは個人的な関心が大きな理由ではありますし、さらにいえば、正直なところ小生は頭脳の構造にどこか限界があるようで思想的・哲学的な高度な議論を行おうとすると脳味噌がパンクするため、「非モテ」を巡って展開されている議論の多くがピンとこず着いていけないであろう、ということが理由でもあります。資本主義ならばカネやモノが動くので、「愛という形無いもの」も形に表して理解することが可能になり、さてこそ鈍い小生の頭でもいくらかは意味のある話が出来ようかと思うのです。
というわけで、先月に資本主義と家族との関係について記事を書きました。そちらであらましは書いてしまったので、今宵はそこから話を敷衍して、規範として「恋愛」が強力に作用している構造について卑見を述べようと思います。
繰り返せば、「恋愛」を巡る今日の状況の問題点は、「恋愛」が極めて強固に「幸福」の概念と結びついてしまっているため、「恋愛」をしない人間は不幸であるとか、さらには劣った人間であるとまで思われることもありうる、抑圧の規範となってしまっていることにあります。
さて、では「幸福」であるとはどのような状況のことなのでしょうか。それはひとさまざまだよ、と言っておれれば良いのですが、それではそもそも問題が発生しませんね。ややこしいのが、幸福であろうというのは自分一人のものではなく、周囲との関係によっても変ってくるということです。
ここで小生の愛読書である高山宏氏の著作の中でも、『世紀末異貌』など紐解きますと(一般的には鹿島茂『デパートを作った夫婦』あたりの方が読みやすいかと思いますが)、「幸福」とは何なのだろうと戸惑っていたのは、別に今に始まったことではなく、19世紀においても同様の問題が既に生じていたらしいということが分かります。市民革命と産業革命を経て、旧来の価値観が大きく転換しつつあった時代、「幸福」のあり方も変化を余儀なくされていったでしょう。
で、ここでなぜデパートの話が出てくるかといえば、「幸福」のあり方を巡って迷っていた19世紀の市民、つまり旧来の支配階級に代わって社会の中心に出てきたけれど、それに相応しいだけの価値体系はまだ建設途上であった中産階級市民に対し、デパートが「幸福」のテンプレートを作って売りつけることに成功したためであります。「幸福」と消費のあり方が結びつき、ある種の消費を行うことが「幸福」であるという通念が出来上がってきたのでしょう。
ここで想起されるのが、19世紀末に発表されたソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』ということになりますが、小生はずっと昔に一読したきりなのであまり上手に援用して議論をすることは出来ません(苦笑)。ただ、有閑階級を手本とした(確か鹿島著に書いてあったと思いますが、デパートが提示して見せた消費生活のモデルは貴族の暮らしにあったとか)消費文化を受容することが「幸福」のあり方として周囲を納得させまた自分自身を納得させるものであったということ、そして有閑階級とまで行かない多くの市民にも、そのような消費文化に近づくように消費できるようになることが「幸福」へと近づく道だと確信させたこと、こうして形成された消費の様相が産業革命以降の大量生産・大量消費による経済の成長を支えたこと、といったことは言えるのではないかと思います。
さて、このような消費の拡大と平行して近代家族の形成が進み、消費もそれと関係しているのではないか、ということは以前書きました。近代家族というのは男女の性別分業を推し進め、生産を男の手に独占する一方、消費は女性の担当へと押しやられていきます。そして女性の消費を正当化するのは、ヴェブレンの言う「顕示的消費」という言葉が雄弁に語っているともいえるでしょうが、そのような消費をしていることが立派なことであると周囲に見せるという意味が勿論大きくあったことは言うまでもないとして、そのような顕示的意味合いは周囲だけではなく自分自身にもむけられていたのではないかと小生は思います。そして、「幸福」を演出するための消費をする上で、いわば言い訳となったのが「愛情で結びついた(近代)家族」という概念なのではないでしょうか。近代家族として必要なアイテムをそろえることが「幸福」であるという、ライフスタイルのテンプレートが形成され、それが目指すべき幸福のあり方として人々に受容されていったのです。
このような傾向が一定程度浸透すると、それが規範として拘束力を持つようになってゆくでしょう。それがいつの時代のどの階層にどれほど浸透していたのか、詳らかにすることは現在の小生の力には余りますし、これから(せめて近代日本の事例だけでも)調査検討してみるべき課題と思います。それでも、おそらく消費社会の先進地・アメリカでは、19世紀末にはある程度形をなしていたのではないかと思われます。「幸福」の証である消費をすることが規範的な力を持ってきたからといって、必ずしも経済的等の事情で誰もがそのような消費を実現できるわけではありませんし、ことに消費の主体である女性の場合は生産活動から排除されていますから、働いて自分でお金を獲得するという方法も取れません。そんな階級と性と消費の矛盾が煮詰まった時に出てくるのが、デパートにおける中産階級の女性の万引き行動であったのかもしれません。ということを、エイベルソン『淑女が盗みにはしるとき』を先日読んだ時にちらりと抱いた感想でした。
勿論、当時の(そして今でも)デパートでの比較的豊かな女性の万引き行動をこれだけで説明できるはずもないのですが、こういった様々な要因がある程度背後にあったはずです。ところが興味深いことに、当時の人々は、社会的に見て立派であるはずの中産階級の女性がデパートで万引きする理由を、女性であるがゆえの精神的な弱さに起因する病気であると片付け、それを当時の医学が後押ししました。一方で純粋に経済的要因である下層階級の女性によるかっぱらいもあったのですが、これは精神的理由であるという温情を受けることは出来ませんでした。中産階級の女性がそんな犯罪をするはずがないという階級差別を維持するために、女性は弱いからわけも分からず盗みをしてしまうのだ、という性差別が強化されたわけですね。
こういった女性差別と当時の科学が結びついていた状況については、以前紹介したダイクストラ『倒錯の偶像』が極めて面白いので、いつかもう一度しっかり書評を書いてみたいと思います。
話が逸れました。本筋に戻します。
そんなこんなで、近代家族と結びついた消費のあり方を以って「幸福」を規定するような状況が次第に社会に広く浸透していったのではないかと思います。しかもこの状況は、経済が発展して社会全般が豊かになっていくにつれ、より多くの人に受容されて行ったのでした。それは家族のあり方で近代家族が主流になっていったということと平行しています。しかもそれは当時の国家の政策や経済状況ともよく合致していたため、深く広く浸透していったのだと思います。
このように、「幸福」と消費とが近代家族を介してくっついて、「幸福」の規範が形成されていきました。これが「恋愛資本主義」の段階に発展したのは、進学率が向上し学生が増えて期間も長くなったこと、女性の社会進出が進みなどして晩婚化していったこと、子供の人数が減ったことなどにより、学生・就職から結婚・子供誕生までの期間が長期化してなおかつその間の可処分所得も増大したため、新たな市場として開拓されたのであろうと思います。日本の場合時期的には高度経済成長の後期頃にでもなるのでしょうか。あいにく小生は戦後の文化史には疎いいので、どなたか詳しい方のご意見を仰ぎたいと思いますが、これも研究する価値があることではないかと思います。
こうして、「恋愛」と「幸福」の結びつきに、消費の形態が密接に関係していき、いわゆる「恋愛資本主義」が形成されたのでしょう、。これは「愛という形無いもの」を消費を介することで形あるものへと可視化することが出来るという点で、それなりに社会的メリットがあったのではないかと思います。「恋愛資本主義」等を論じる際に、資本側が陰謀をめぐらして消費者を騙したというような理解は危険です。消費する側も利点があったために、そういった状況が浸透したはずですから。
以上延々と述べてまいりましたが、まとめると「恋愛」を巡る抑圧的な状況は、それが消費形態と結びついた規範として作用しているため、その規範に馴染めない・従わない者を劣ったものと規定してしまうから、ということになります。
となれば、当面考えられる対策は、この規範を相対化することで、個々人の生き方をこの規範から解放することではないかと思います。この規範に代わる規範を拵えて強制することは抑圧に対し抑圧で応報するわけで、全然解決にはなりません。価値観を相対化するとはつまり、もっと平たく言えばあてがいぶちの「幸福」をよく確認する賢い消費者になるということです。こういった相対化がある程度進むことで、規範と消費の結びつきが緩んで行くのではないかと思います。なるほどこうして相対化し続けた後に、このような行為自体が抑圧の規範となってしまう危険性もありますが――まあそれは将来の人に心配してもらえば済むことです。
で、規範の相対化に際して、ただの「負け犬の遠吠え」などといわれないようにするためには、小生としてはやはり実証的な事実を積み上げる歴史研究、ということを真っ先に考えますが、そこらへんは各人の得意な・好きな手法で構わないと思います。小生は、規範という一つの論理に対しこれまた論理的な枠組みを作って応酬するよりも、事例研究をした方がより説得力があるように思いますが(以前にもこんなことを書きました)、それはまあ個人的偏見かもしれません。
以上、「全員に恋愛させるか、全員に恋愛させないかしか無い」という、不毛な(失礼!)二項対立に陥っておられるように見受けられる「革命的非モテ同盟」の古澤氏に、小生なりの修正主義的(笑)な「第3の道」を示してみました。
事例研究云々言っている割には、我ながら根拠薄弱な話でいまいち確信がもてません。この理屈を構成する個々の局面について、これから機会に応じて資料や書物を読み、見識を段々に深めてゆきたいと思います。読者の皆様から何がしかご意見を頂ければ幸いです。やはり事例を集めることが大事ですし。
※この記事の続き(補足記事)はこちら
最近、古澤氏のコメント欄(1/7)に書き込まれた「素朴な疑問」さんという方が、私のブログのコメント欄に、革非同及び非モテについての総括的で重要な意見を書き込まれました。bokukouiさんと問題意識が共通するところも感じましたので、もしよろしければ是非ご覧になって頂ければ幸いです。
Ohnoblog
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20070122
↑こちらの記事のコメント欄です(途中別のやりとりが入っておりますが)。
大野さんのブログおよびそちらのコメント欄を読ませて頂きました。何分分量も多かったので、一読しただけですぐにどうこう申し上げるのは難しいですが、今まで読んできた「非モテ」言説に対して感じた様々なもやもやをだいぶ晴らしてくれるもののように感じられました。問題意識、あるいは問題に対するアプローチ視角、といいますか、それに関してはご指摘のように共通する点を感じます。
コメント欄は長文を書くにはちょっと不便ですし、もう少し考えを詰めたいので、しばしのご猶予をいただいて記事にしたいと思います。ご紹介ありがとうございました。
大野さんの「純愛の日本史」も、連載開始は以前気が付いていたので、機を見て読もうと思っておりました。これも機会だと思って読ませていただきました。小生は社会経済方面は兎も角、文学・評論などは全く疎いので、勉強になります。
今後とも宜しくお願い致します。
「日本の純愛史」、お読み下さいまして恐縮です。私も文学畑ではないので(元は芸術系です)、精密な論にはなっておりませんし、60年代以降は映画とドラマばかりで文学はまったく出てこないのですが、またよろしくお願い致します。