「不健全」なものについてやくたいもないことをつらつら思う
・・・本書中で塩山氏は膨大な数の書物や映画を鑑賞して、寸鉄人を刺すが如き(←聖教新聞社のコラムとは関係ありません)評価を下していて、それがなんともカッコいいので真似ようとしましたが無理。贅言を弄するしか芸のない我が身を託つ。
というわけで開き直ってだらだら書きます(笑)。
エロマンガの初見は塩山氏の手になるものだったので、本書を読んでいたときに奇しくもその雑誌の該当する号を編集していると思しき記述があり、思わず本書を置いて天を仰ぎ見ることしばし。もっともその後は
さて、エロマンガとは「不健全」であって、反社会的な事柄を描いているという、ステロタイプな批判はよく聞かれるように思います。このような話題は以前にもちょこっと書いたことがありましたが、それはともかくとして、「不健全」と糾弾されるのはエロマンガの場合、書いている内容が性的なものという「不健全」なものであるというのか、性の扱い方が「不健全」なのか(フェミニズム的なポルノ批判とかはこっちでしょうな)、今ではどっちが多いんでしょうね。いや、「不健全」と言い募っている人々は多くの場合そのようなことを区別して考えないのでしょうけれど。
なんてことをふと思ったのは、前掲『出版業界最底辺日記』を読んでいて、塩山氏が任侠もの映画の名を折々話題の端にのぼせていたからかもしれません。ここで一緒に引き合いに出すのはかなり不適当な気もしますが、続きを楽しみに読んでいる大野左紀子氏の「日本の純愛史」にも、映画における恋愛を論ずるのに任侠ものが比較対象として出てきたというのもそんなことを思った一因なのかもしれません。そしてここんとこ相次いでいる暴力団がらみの発砲事件も。
まあ、つまり表現が「不健全」というのなら、ヤクザを美化して描いているような作品は、性的なそれほど厳しく批判されないような気がするので可笑しいなあと思った、というだけのことですが。
「子どもが真似をする」「誤った思い込みを与える」という点では、性的なそれよりも直接的な影響が大きいのではないかと思ってもみたりするわけで。
一方、こういったやくざものの世界を称揚するときに語られる形容詞の多くは、「義理と人情」的な、要するにジェンダー的に言えば男性優位の価値観を強化するようなものだったりするわけで、ここら辺性的なものの場合では、むしろそれを批判する根拠として「男性中心的」ということが時として取り上げられたりするのと比べると、これまた可笑しく感じられるのでした。
※追記:機会があればまた稿を改めて書きます。