死刑に関する報道を見ての若干の感慨
ご参考までに、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』の編集をされた安原宏美さんのブログへのリンクを張っておきます。こちらにはこのことに関する様々な記事が挙げられておりますが、最新の記事(東京新聞の記事の紹介)がちょうど良いまとめの一つになっているかと思います。
結局のところ、小生が思うには、このような死刑判決の増加は、いわばこの社会の現今の問題を「治安の悪化」に転化してしまうようなものの見方の一つの表れのように感じられます。人柱を立てても耐震偽装がなくなるわけでもないのに。
さて、この日経新聞の記事には「識者」からのコメントが二つ載せられていました。一つは「執行慎重すぎる」ともっとせっせと執行すべきいう意見で、もう一つは「終身刑制度化を」とこの状態に疑問を呈し法廷を復讐の場とすることを戒めるものでした。後者の意見は日弁連が出しているので予想の範囲内ですからそれほど目を惹かなかったのが正直なところでしたが、前者の意見を寄せている刑法学者の名前を見て、小生はほうと関心が湧きました。
それは首都大学東京の前田雅英教授だったのです。
前田雅英(ウィキペディア・はてな)といえば、これまで小生もメディア規制に関する警察当局などの動きについて当ブログで一筆ものしたことがあり、悪い意味でお馴染みの名前となっていました。先ほど上で挙げた安原宏美さんのブログ折々名前が登場しますので、前田氏の名が登場する記事の一つにリンクを張っておきましょう。
そしてこういった話題を得意とするカマヤン氏のブログでもすっかりお馴染み常連となっています。登場記事が多すぎるので、興味のある人は氏のブログを検索してみてください(「はてな」ブログは検索機能がちゃんとしています。エキサイトはその点駄目で・・・)。
流石にこれはソースが偏っているかと小生も思ったので、法律に詳しい友人に電話をかけて前田氏について情報を聞き出しました。聞いたところでは、かつては優れた刑法学者として知られ、その著書は司法試験受験の参考書としてよく使われている(但し、「教科書としてよく使われている」からといって、その学説が優れていることにはならない、ということだそうで)が、諸々の委員会に名を連ねている最近の活動振りについてはそうではない、学説についても転向が見られ、メディア規制などの問題については到底学識があるとは言えない、ということだそうです。
で、そういう経緯でお馴染みだった前田雅英教授の名前をこういった文脈で眼にしたことにいささかの感慨を覚えました。
メディア規制と死刑推進の両者に共通する点を考えるならば、おそらくは自分が不快でケシカランと認定したものをひたすらこの世から排除していけば世の中がよくなると考えてしまう、そのような思い込みなのであろうと思います。
それはもちろん、問題解決の手法としてはお呪いを唱えるようなものであって、合理性には乏しいと思うのですが、個人の感情を鎮めるという点でのみ効果があるのでしょう。しかし社会問題の根幹を見据えていないため、このような手法ではまた同じ様な問題が延々と起こってきます。それにまた同じ様に排除排除とやっていくというサイクルの繰り返しは、社会から寛容さを失わせ、問題そのものの解決はより一層遠くなってしまいます。
それでもなおこのような事態が起きるのは、ケシカランと認定して排除するのが「個人的感情」ではなく、社会的に認められた正統性を有している価値基準であると思っているからだと小生は考えます。そして少なからぬ人々が、そのような正統的価値観を共有しているということで、自分は社会の一員として正統的な地位を得られるような存在である、と自己肯定したい欲求を満たしているのでしょう。まあ以前に書いたことの繰り返しですが。
メディア規制に関しては、槍玉に挙げられている一つの対象としていわゆる「オタク」的な漫画やアニメやゲームのような諸文化があります。で、こういったメディア規制に対しそういった文化を守るためにどのように行動するかというとき、おそらく二つの対処法があります。一つは正統的価値観を振りかざしてくる側に対し、そのような価値観の一方的な押し付けは不当な抑圧であるということを指摘し、その正統性を打破するという方法です。もう一つは、批判対象とされているもの自体も正統的価値観に含まれるべきものである、と主張する方法です。
前者こそ正攻法ですがおそらくそれは容易ではありません。後者はより容易でしょうが、しかしこれは排除の論理の矛先をかわすだけなので、また何らかの事件をきっかけに同じ様な事態に襲われることが充分ありえます。なにより、正統的でないことに喜びを見出したはずの「オタク」文化が、正統性を主張して抑圧の側に回ろうということには小生は強い忌避感を覚えます。それは自分自身の文化としての力を失わせることになるでしょう。
一部の「オタク」文化論には、そのような危うさを感じないでもありません。
さて、死刑の場合はどうでしょう。
小生が思うには、死刑の存廃についてを巡る諸議論は、結局のところ正統性を巡る主導権争いになっており、それがこの問題の議論をおそらくは行き詰まらせているのであろうと思います。もちろん問題の性格上、正統性ということが強く前面に出てくるのは当然ではありますが。
で、どちらの側も当然とはいえ自分の立ち位置を正統的な価値観の側である、としていること自体もまた死刑を巡る議論の問題であると捉えなおすことで、何か多少違った議論が出来ないかと考えたのであります。これは死刑マニアで、そういったことに極めて偏った関心を抱く(過去の当ブログの記事・サイトの記事をご参照下さい)小生が、それ故に何か見えることもあるだろうと思ったのですが、そこで「萌え萌え死刑論議」などと怪しい題名を付して一筆書こうと思ったものの、歌謡に前提の説明だけでこれほどの長文になってしまったので、続きはまた稿を改めて書くこととします。
どうもいつもながら遅筆かついい加減で申し訳ないことです。