スタインベック生誕105周年記念企画・自動車と恋愛資本主義
小生の母はその昔河出書房の世界文学全集など集めていて、現在それは拙宅に置かれています。小生もパール・バックやポーやスタンダールやディケンズなど、何巻かは読んだものでした。パール・バックの『大地』は母が面白いと一押ししていたものです。個人的感想としては、最初は面白いけれど段々辛くなってくる(特に第3部)のですが、それはともかく、逆にもっともつまらなくて読み通せなかったと母が述懐していたのが、ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』でありました。スタインベックはノーベル文学賞を受賞しているんですけど。
というわけで小生も読んだことがないのですが、本日はそのスタインベックの生誕105周年に当たります。
さて、小生は以前永山薫氏の『エロマンガ・スタディーズ』の索引を作ったりなんぞしたわけですが、だからといってさほどその手の漫画を読んでいたわけではありません。蔵書も精々百のオーダーに乗っかっている程度です。そんな僅かな知識しかない者が思ったことなので、どれほど通用するのか自分でもよく分からないのですが、とにかくふと思ったことがありまして。
それは以前小生が、あらきあきら『おとなになりたい』という成年コミックを買いこんで読んだ時のこと、本書に収録されている「どこ行く?」という漫画を読んで思ったことです。この漫画は、高校生カップル(?)が家族の多さゆえに、えっちの場所を求めて色々考えた末に、家で免許を持っているのはお父さんだけだー!ということに気付いて、ガレージの車の中にもぐりこんでなにをどうする、というお話でした。これは結構オチが可笑しくて、本書の中では一番気に入った一編でしたが、そこでハタと思ったのです。
エロマンガでカーセックスを描いたのって見ないなあ、と。
こういう企画はきっと『SPA!』がやってそうだと思うのですが(笑)、わが国で行われる全性行為中自動車内にて行われたものの比率、ってどの程度なのでしょう? 決して低いものではないように思います。なるほどエロマンガでは登場人物の年齢設定が低い故に自動車が登場しにくいというのは否めないとは思いますが、あと漫画として描きにくい・描いても映えないという理由もあるのかもしれませんが、それにしたって「自動車内/全行為」の比率と比べれば、おそらくはかなり低そうな気がするのです。

で、もしエロマンガ読者が自動車内での行為ということに関心を示さないような文化的傾向があるとするのならば、これは結構面白い事かもしれないなあ、なんてことに思い至りました。ここら辺を解明できれば、自動車というものの持つ特徴の一端を解明し、何がしか世間に裨益するところもあるのかもしれない、なんて。
そんな妄想をふくらましていた時、小生の頭にふっと今日のお題のスタインベックの名が浮かんだのでした。
文学にとんと疎い(「文学部」卒なんですけどねえ・・・)小生でありますが、時として文学に関連する書物を読むこともあります。そんな本の一冊に、小野清之『アメリカ鉄道物語 アメリカ文学再読の旅』(研究社出版)があります。どうもアマゾンの評価は低いですが、確かに色々集めていながら全体を通した理論付けにあまり熱心な本ではありませんでしたけど、小生は自分で鉄道について考えをめぐらせるための良い手がかりを与えてくれたと思うので、結構好きな一冊です。小池滋先生の名作『英国鉄道物語』と比べると、読み物としての完成度が低いことは否めませんけど、まあどっちかといえば『英国鉄道物語』の完成度が高すぎるというべきでしょうね(去年にまた改版されてる・・・)。
で、この『アメリカ鉄道物語』には、付録として「自動車とアメリカ文学」という一章が末尾に置かれています。この章がなかなかに興味深いのです。しかし今回はあまり寄り道している暇もないので、直接関係のある「自動車と性道徳」という節から引用しておきましょう。
・・・このような状況(注:ヴィクトリア時代の表面的お上品さに対する反発から、20世紀に入って性的な自由が広まってゆく状況)の中で自動車は普及していったのである。すでに述べたように、車は歓楽、レジャーに用いられ、さらに動く密室でもあった。若い男女はそれをペッティング、ネッキング、さらにはカー・セックスの場として利用したのである。こうして自動車は性解放に一役買うこととなった。(中略)60年前のアメリカで、スタインベックはかように世相を慨嘆しておりました。
このような風潮に対して、スタインベックは『缶詰横町』(1945)の中で、次のように解説している。
T型フォードがアメリカ国家に対して、道徳的、肉体的、美学的にもたらした影響について、誰かが博学な論文を書くべきだ。二世代にわたるアメリカ人は、クリトリスについてよりもフォード車コイルのことを、星の太陽系よりもギアーの遊星歯車連動装置のほうをよく知っていた。T型車の出現で、私有財産に対する観念の一部分がなくなってしまった。ペンチは個人の所有物とはならず、タイヤの空気入れは最後に手に入れた人のものとなった。この当時、ほとんどの赤ん坊はT型フォードの中で孕まれ、少なからぬ赤ん坊がその中で生まれた。アングロ・サクソンの家庭というものに関する理論は大層歪められてしまって、元に戻ることはなかった。(同書p.199、強調は引用者による)
これまで小生は恋愛と消費社会の結びつき(いわゆる「恋愛資本主義」)についていささか当ブログで贅言を費やして参りましたが、その中で「恋愛」をきちんと捉えるには近代家族について認識すること、「資本主義」の面に重点を置くこと、などを提唱してきました(これとかここの「恋愛資本主義三部作」とか)。で、近代家族や恋愛とともども資本主義が浸透してゆく過程を検討するには、「幸福」の象徴としてあるべきライフスタイルに不可欠なものと位置づけられることで売上を伸ばしてきた、個々の商品の様相を追っかけていくというケーススタディを積み重ねるのが正攻法ではないかと思い至りました。文学作品を手がかりとした思想的議論も結構ですが、もっとこういった社会経済的な「モノ」についても考えてみた方が、より具体的に自分自身の身辺に引きつけて考えることもできて、有効なアプローチではないかと思います。
※別に大野左紀子さんの著書のような議論に難癖をつけたいわけではないです。ただ、なぜか小生のいる日本近代史の研究室は、法学部の政治史や経済学部の経済史とは密接な交流があるのに、同じ文学部の日本文学とは絶縁状態という、小生の学問的状況がこのような考え方を惹起せしめた面はあると思います。噂ではこの絶縁は、学生運動のときのいざこざのせいだとかなんだとか・・・。
で、そのような題材の商品として、「自動車」というのはかなり面白い例じゃないかな、と小生は思いついたわけです。自動車は交通機関ですが、他の交通機関と比べても特異な性格を有しています。なんとなればライフスタイルの形成や男女の関係を演出する道具としての文化的な意味を色々と含んでおり、しかもそれは人々の立場によって幾つものパターンがあります。そして自動車産業はメディアにとって最大の広告主であり、また資本主義の中核的存在です。いろいろと検討できそう。
この問題に関する先行研究として、ヴォルフガング・ザックス『自動車への愛 二十世紀の願望の歴史』(藤原書店)が参考文献になるんじゃないかと思って、以前古本屋で買って一読したのですが、正直あんまり印象に残っておりません(苦笑)。
とまあ、ようやっと問題の入口にたどり着いたかな、と思ったのですが、ここで一つ問題が。
小生は鉄道趣味者なもので、免許こそ持っていても自動車のことはほとんど何も知りません(キャタピラ付いて装甲板張って大砲積んだ奴除く)。自分で課題を設定しておきながら情けない次第ですね。
どっちにせよすでに大長文なので今夜はここまでで一旦切り、後日ネタを思いついたら自動車の文化について思うところを書きたいと思いますが、その前に何卒読者の皆様のご意見・ご助言を乞う次第です。今回、まったくまとまりがないもんなあ(苦笑)
※後日の関連するかもしれない記事:ケン・パーディ『自動車を愛しなさい』雑感

走る車の中でいいところのお嬢さんを不良共が代り番こにとか、原っぱに捨てられた廃バスの中で兄妹がというのもありましたが、明日から仙台出張なので探し出す時間がとれません。
・・・それ以前に、打てば響く勢いでレスする自分はいかがなものかとちょっと疑問に思いました。(ちょっとです)
あ、「大地」は中学の頃、やはり母から薦められました。
いつまでも歳を感じさせないメイドの梨花さんがとても魅力的でした。
(メイドじゃなくて王龍の妾なのですが、ほとんどメイド扱いでした。梨花さんもそんな身の上に満足しているのがいじらしくて、いじらしくて)
また続きは稿を改めて書こうと思いますが、ご指摘のような拉致監禁的な自動車の利用ならば、例えばカマヤン氏の作品にもそういった表現がありました。しかしもっとも一般的(?)な、デート→一事を為すというパターンはあまり見られないわけで、これは自動車に対するイメージが文化的なハビトゥスの相違(それは恋愛についてのその人の状況や価値観の違いときっと関係があるでしょう)を表しているのかもしれないと思ったりも致します。
『大地』の小生が読んだ版では、「梨華」だった気がします。小生は志願して王龍の従兄弟(軍人になって乗り込んできた)の夜伽に行ったメイド(確か「奴隷」と表記していました)が印象に残っています。

機銃になぎ倒されないという要請から考えると車輛というのは「内」が大切なわけですが、戦闘機材一般の中ではむしろ移動できるということを含めた衝撃力として位置付けられるわけですから、上記の例の根底にあるのは自動車の現代的(ポストWW1)解釈と言って差し支えないでしょうか。いや、関係無いな。
なぜ戦車が舞台とならないのかから逆に考えてみると、
・馴染みが無い
・狭い
・内装が複雑で描き辛い
辺りですか。漫画家にとって自動車は生活必需品でないだけだったりするのかどうか。
なるほど、「家や学校の外」という文脈もありかもですね。もっともお抱え運転手の類が登場する類作もそれなりにあるような気がします。
戦車と聞いてミリオタなエロマンガ家・ひぽぽたますを思い出し、早速『さいごんてぃ』を調べてみましたが、戦車兵のつなぎは着たまま事に及べるというネタだけで一本描いているくせに、戦車そのものは登場していないということが判明しました。やはり難しいようで(何が?)