心 かくした戦士でさえも 愛に傷つく
イベントは3月18日(日)のコスチュームカフェ18号店に参加予定です。お暇な方はどうぞ。新刊などに関しては後日告知します。
さて、bogusnewsを読むのにわざわざIEを使うのは、それだけコメント欄が面白いということです。同サイトは、本来の嘘ニュースだけで十二分に面白いのですが、コメント欄もネタを更に面白く膨らませており(まあ常連のコメンテーターが多いのでしょうが)、一層楽しませてくれます。
で、bogusnewsを枕にして何の話をするのかというと、ネタと反応、というお題なわけですので、先週書いた「恋して変っちゃうような 友情じゃない 今までそれが 自慢だった」の続きみたいなものです。古澤書記長率いる「革命的非モテ同盟」のホワイトデー粉砕デモも構想が次第に固まって、実施まで一週間を切ったことですし。
というわけでネット上の反応をまた幾つか見つけて読んでいたのですが、なんか凄いのが。
Right Hand「バレンタインを嫌うもの」
うわあ拙記事にもリンク張ってくれたありがと~、いやそうじゃなくて。
でっち上げデモをして写真を撮ったり、それをいろんなところに貼り付けたり・・ここまでする理由って何でしょうか。・・・なんかえらく恐ろしげな陰謀にされてます。
恐らくそれは世相を自分たちの都合のいいように動かしたいからです。
あちこちでこんな書き込みをたくさん見せられると、人はその方向に洗脳されていきます。
ここまで極端な反応は流石に特異な例として置くべきなのかもしれませんが、「革命的非モテ同盟」本体でも「恐怖の大王」と名乗る人物がコメント欄に降臨して、自説を延々と述べるという事態が発生し、同志書記長をして掲示板まで作らせるという状況になっています。いくらなんでも人様のサイトであれはマナー違反でしょう。現在ならブログなどを作ることは至極簡単ですから。
で、この状況をbogusnewsのコメント欄と比べるのも無茶といえば無茶ですが、つらつら思うに、「非モテ」なるお題はなかなかどうして「新左翼の恰好でデモをする」みたいなネタを遊びつつ議論も楽しむ、ような方向に行きにくいのかなあと思ったのでした。
なぜそのような事態になるのかといえば、結局のところ「余裕がない」ということになるのでしょう。それがどういうことなのか、以前この記事の末尾で書いたことを、もうちょっと補足して以下に述べてみます。
今、何かしか自分は生き辛いなあと感じているような文化的状況(飢餓とか戦争とかでなくて)があった場合、それはその文化的状況に関する社会的な規範が抑圧となっているからと考えられます。「結婚してこそ一人前」みたいなのね。で、それに対する策として、小生はかねてより規範の相対化を試みるという手法がもっとも妥当であろうと考えてきました。
で、既存の規範を相対化して自分なりの行き方を見出すことが出来ればいいのですが、ただこの際に既存の規範が誤っていて自分の規範が正しいのだという発想に陥ってしまい、自分の規範により多くの人を従わせるようになっては、抑圧されていた者が他者を抑圧し返すという、まことに感心しない構図になってしまいます。従うか従わせるかの二択に陥らずともやっていけるはずですし、長期的な効果を考えればそのような絶えず消耗戦を戦い続けるような方策は合理的とは思われません。
しかるに、では価値相対的に行きましょう、といえばいいのですが、実際まあそれである程度はうまく行くと思いますが、この解決策を取れるにはおそらくある条件が必要なのです。そこら辺が、多分このイベントへのネット上の反応などについて考える上でそれなりの意味を持っているのではないかと思います。
規範を相対化して互いの価値観を認められるということは、他者のそれを認めるだけの余裕が必要なのではないかと思うのです。他者に対して自分はこうであると主張できるだけの根拠となる、いわばリソースが必要なのだろうと。
リソースというのは何でも良いんですが、つまりお金でも顔でも頭でも技能でも家柄でも、何かそれを元に社会に自分を認めさせることが一定程度可能な諸資源、くらいのつもりです。ただ個々での問題は、それがおそらくは「主観的」に決定されるということ、端に居る人間が「あなたには〇〇があるじゃないですか」といっても、本人がそう思っていなかったらリソースとして活用されず意味を持たなくなってしまうということです。
で、リソースがない(と自分で思っている)人の場合、自分の価値観を守るために他者の価値観を攻撃することで正統性を得ようとしてしまいがちになるのではないか、そんな風に思います。こうなってしまうと、相対化もへったくれもなくなって、泥沼のがなりあいになってしまうのではないでしょうか。
どうも先刻挙げた掲示板への長文の書き込みをした人など、何がしかの道徳的なトピックを振りかざして、世界を敵と味方の二分法で割り切るような態度をとるように見えるところが気になります。しかしてその道徳的なトピックを一体どのような全体の文脈に位置づけるのかということになると、よく分からなくなってしまいます。畢竟、道徳的なトピックを振りかざすことは、そのトピック自体へのこだわりというよりも、それを Casus Belli (大義名分)として攻撃を正当化する必要性に駆られているから、なのでしょう。道徳的正当性は手段であって目的ではないということです。このような事態は恐らくかなり頻々と見られると思いますが、小生は心理学や精神分析の類には全く疎いので(根本的にものぐさで他人に関心が乏しいので)、隠された攻撃性を実地に見抜く能力を欠いています。
で、いわばこのような攻撃対象と戦場を求めている人々が、「革非同」とかを見つけて、これぞ我が戦場と思い込んで参入してくると、まあ活動を「楽しむ」という方向には行かないでしょうね。
さて、古澤書記長は昨年末に幾つかのブログのコメント欄で幾つかの議論をされておりましたが、その中で古澤氏に対して以下のようなコメントを述べられた方がおられます。出典は「電脳ポトラッチ」さんの「人はパンのみにて生きるにあらず」の、2006年12月11日付イカフライ氏のコメントです。
・・・furukatsuさん(引用注:古澤書記長)はご自身のミスら矛盾を言われると、非常に素直に認め、謝っています。このご指摘ははなはだもっともと小生も思うところで、畢竟、書記長閣下がいわば人の話を聞くだけの余裕がある、ひいてはそれだけのリソースを有しているということなのであろうと思います。実際、あのようなイベントを実施して話題になるという行動力があるわけで。
非もての人って、それが出来にくい人が多いように思うんですが。まあ、非もてに限らずネットの議論厨はそうですが(ネウヨなんどその典型ばかり)、なぜ、そうなるか?というと、自己承認の問題じゃないでしょうか?(中略)
自分ではきもい非もてとか書いているけれど、furukatsuさんにはそれが感じられないのですよ。彼女いない歴=年齢はうそではないのかも知れませんが(まあ、これも疑っていますが^^;)、非モテリアンではないような気がして仕方ないんですよねえ。
しかし、以前書いたことの繰り返しですが、だからこそ実は「革非同」は、リソースがない(と思い込んで)攻撃的な態度をとってしまう、そういった形の少なからざる人々の代表者には実はなりえないだろうな、と思われるのです。スピヴァクをもじれば「非モテは語ることができるか」という次第です。「革非同」にしても、そのような人たちとどのように折り合いをつけていくのか、ということが、もしかしたら今後の課題になるのかもしれません。
どうも偉そうなコメントでいけませんね。なんか自分でも書いているうちにあんまり面白くなくなってきました。
ちなみに小生の行動原理は「面白ければ面白いに越したことはない」です。或いは、自己のリソースとかかるコストとから得られる面白さをなるべく最大化したい、ということかな。
>「結婚してこそ一人前」みたいなのね。で、それに対する策として、小生はかねてより規範の相対化を試みるという手法がもっとも妥当であろうと考えてきました。
20台後半以降になってくると、結婚というのは多分bokukoui さんが思っているのよりはるかに重要な問題になっています。昇進・転職ほかもろもろ、仕事上と言う範囲に収まりきらないほどに。「規範の相対化を試みるという手法」なんてもの、いくら出来ても歯がたたないほどに。
まあ長くなるしまとまりもなくなるので今度会った時にでも。
適当なことを書くのはいつものことだけれども、特に今回はそうかもしれません。本記事はある特定の政治的メッセージを包含していたものでしたが、それを本文三行のみで書くと角が立ちそうだったので、折角だから一般論に広げてみようと書いているうちに当人がつまらなくなって適当に切り上げた、というものですから。ただ本記事の眼目は、一応は「リソースと攻撃性」にあるつもりです。
>今度会った時にでも。
宜しくお願いします。もっとも直接会った時には、こういう話はあまりしないような気もしますね・・・。
いつも(毎月)楽しく読ませていただいております。サモアより遠路はるばるありがとうございます。ネスケの件に関し直接コメントいただきまして、大変嬉しく思っております。お忙しいとは存じますが、今後ご配慮いただければ幸甚です。