わたしのリコネクションズ~メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など
ですが、一応小生の内的には繋がっているところもあるのだ、というのが今日のお話です。鉄道とメイドも、そして多分、「オタク」や「非モテ」も。
前口上はひとまず措いて、まずは酒井さんのサイトの「メイドさん放談2007」に関して、皆様から戴いたコメントに付いて、感謝とともに返事をつけさせていただきます。
>パイプ吸い様
こちらこそお久しぶりです。今度のコスカのご予定は如何でしょう。
人それぞれ、いろんな妄想を抱いて生きていくことは当然だと思います。むしろ、「メイド」とはこんなもんだというステロタイプが広まってしまって、それに乗っかった結果、自分なりの妄想ではなくあてがいぶちのそれで済ませてしまうようになる方が寂しいですよね。
あの鼎談での小生の発言が、なにがしかそういった突破の手がかりとなったとすれば、嬉しく思います。
>久我様
いつもお世話になっております。
鼎談ではどうもないものねだりのような発言をしてしまったかと後で思いましたが、率直なご意見が伺えて大変光栄です。小生としては、時代も場所も違う人々のことを理解するには、「学問的」なことが重要だと思っておりますが、それだけに久我様とのものの見方の違いを面白く感じました。久我様はTRPGをされる方だったと思いますが、小生はウォーゲームが好きです。案外こういうところに、ものの見方から来る好みの差があるのかな、なんて思います。
今後とも宜しくお願い致します。出来ればその「矛盾」について、いつかお伺いできれば。
ついで、トラックバックして下さった記事につきまして。
・Luv-Paradeさんのブログ「くらいマックス メイド」より「メイド関連とか」
鼎談した時点では結構グダグダ感もあって、また貴島さまに怒られるのかと戦々恐々としておりましたが、ご評価いただけてほっとしております。これは酒井さんの運営がよかったからですが、或いは「メイド」を巡る状況がグダグダなために、かえって開き直れたということかもしれません。「~してほしい」と言わなくなったので。というわけで来年、ご参加如何でしょう?
ディケンズのみならずヴィクトリア朝の文化自体、「プロット<キャラクター」的な性格があるのではないかと思います。その辺をもうちょっと、機会があれば考えて見たいと思います。
・鏡塵さまのブログ「アルクトゥルスの25度下」より
「おらといっしょにぱらいそさいくだ(せっかくだから有効活用・6)」
興味深く拝読いたしました。色々考える手がかりになって行きそうです。
おそらく小生がフェミニズムという学問が結構好きで、一方芸術鑑賞能力が低いためだったのでしょうか、『倒錯の偶像』を読んだ際には、ダイクストラの「戦闘的なフェミニスト」という立場をほとんど違和感を感じず、ごく素直な――お言葉を借りれば「作者の意図をまっとうに引き受け」るのに近いであろう――読みをしてしまったなと今にして思います。それだけに、メタレベルの読みとはどうあるのか、今後ともその他の「面白い論点」含め、ご教示いただければ幸甚です。
皆様、本当にありがとうございました。
さて、ここまでのやり取りをお読み下さった方ですと、どうも小生が『倒錯の偶像』なる書物に強いこだわりを持っていることがお察しいただけるかと思います。
で、この本は、「非モテ」というか、オタクとか「萌え」とかにも関ってくる存在と小生は思いますので、折角鏡塵さまのご意見もいただけたことですし、この本についてちょっと掘り下げて書いて見たいと思います。「革命的非モテ同盟」つながりでこの記事まで眼を通してくださった方、もうちょっとお付き合い下さい。話繋がります。
この本、ブラム・ダイクストラ(富士川義之・藤巻明・松村伸一・北沢格・鵜飼信光訳)『倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪』(パピルス 1994)については、以前サイトで簡単な書評というか感想を書いたことがあったので、どういう本かはそちらをご参照いただければありがたいのですが、19世紀末から20世紀はじめの欧米において、女性が如何なるイメージで見られていたかということを、膨大な絵画資料を渉猟して解き明かしたものです。その時代の女性像は強いミソジニー(女性嫌悪)に彩られており、人種差別と性差別を進化論をはじめとした「科学的証拠」によって合理化していたのだ、というのが、ダイクストラの指摘です。
既に上に述べたように、フェミニズムについて一定の関心があった小生は、このダイクストラの指摘をごく納得して、それまでに自分が知っていた知識とも整合的に受け止めたのでした。そして、本書中で示された世紀転換期の女性の描き方・女性イメージというのは、今尚強い影響力を維持しているということ、ミソジニーの末裔はいまだ蔓延っていること、このことが現在の日本の「オタク」が、ヴィクトリア朝に対して幻想を抱く理由なのではないかと考えたのでした。なんとなれば、本書に収録されている諸画像に見られる女性像の系譜は、現在のオタク文化を支える「萌え」など称される表象にも明確にその痕跡を残しているのです。
その後、消費社会史なんかもかじってみるにつけ、どうもヴィクトリア朝末期というのは百年前の地球の裏側の遠い世界というよりも、現在の我々が生きている社会の直接のご先祖様、と捉えた方がむしろ面白いんじゃないかな、と思うようになったのです。
さて、しかし、ということはこれは現在の「オタク」文化に対しなかなか挑戦的な文脈ではありますね。「オタク」文化にあまりにどっぷり浸かりすぎていると(突き放してみる眼を持っていないと)、鏡塵さまが『倒錯の偶像』について触れておられるもう一つのブログの記事「機動新学期ふらっとらいんX(ラノベ時空にひきずりこめ・3)」の末尾でいみじくも「ちなみに、この『倒錯の偶像』を手にする人のうち、作者の意図をまっとうに引き受けている読者は果たしてどれくらいいるのだろうか。著者が自説を補強するために15年かけて蒐集した図像の数々に、読者は「思わず慄然と」しなければならない筈なのだが(笑」と仰るような事態、つまりダイクストラが批判のために集めた画像の世界にむしろ耽溺してしまう、そんな読まれ方をしてしまうかもしれません。それはダイクストラが示した構図の根深さを表しているとも言えますが。
で、実際そう読まれている節があるのです。
そしてここで話が、昨日の「ホワイトデー爆砕デモ」レポの末尾に付け加えた蛇足部分と繋がるのです。
そう、なんとネット界でミソジニーの代表選手のように見做されている「覚悟」氏のブログ『喪男道』に、ダイクストラ『倒錯の偶像』の話が載っているのです。
倒錯の偶像が倒錯してネット上に漂っているのです。
正確には、鏡塵さまが指摘されたような読み方、「萌え」的「オタク」文化のフィルターを通してダイクストラの描いた世紀転換期の構図にむしろはまってしまった元記事があり、それが幾つかのブログを経て、「覚悟」氏のブログで引用されるに至ったという経緯です。ですので、「覚悟」氏のブログ(「革非同」なり昨日記事のトラックバックから行けますが、トップ画像がはなはだしくリテラシーを欠いておりますのでご承知の上どうぞ)で「倒錯の偶像」と検索しても出てきませんし、「覚悟」氏ご自身も覚えておられぬやも知れません。
しかし、ダイクストラの収集したミソジニーを読み取りうるはずの画像の世界にむしろ耽溺してしまった記事を、ミソジニーでオタク文化に造詣をお持ちの「覚悟」氏が孫引きして納得している、という状況は、まず小生をして頭を抱えせしめ、そしてこのことが「オタク」と「メイド」の関連を解き明かす上で決定的なラインではないか、と考えるに至ったのでした。
この辺の事情に関しては、また本書はじめ関連書籍を読み直してしっかり論を立てたいと思っておりますので、現状では大雑把な記述にとどめさせていただきます。お暇な方(ヲチャ)は『喪男道』のどの記事が『倒錯の偶像』のことなのか、探してみてもいいかもしれません。あまりお勧めはしませんが。
以上が、昨日の記事で書いた、「『覚悟』氏のことに関心があった」理由です。
追記(2016.7.13.):この件について、以下の記事で触れました。
「『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える」
かくて、小生は「末期ヴィクトリア朝ってのはある意味オタクの天下」と、新春メイドさん放談2007にて放言するに至ったわけです。
そして、小生がヴィクトリア朝末期の中・上流階級はそれこそ「フィギュア萌え族(仮)」なんじゃないかと思うようになった理由には、『倒錯の偶像』以外にもう一冊の書物の影響があります。
それは、森薫『エマ』について論じたMaIDERiA出版局サイトの「墨耽キ譚」で散々孫引きのネタに使っていた、ピーター・コンラッド(加藤光也訳)『ヴィクトリア朝の宝部屋』(国書刊行会 1997)です。「洗練や調和より悪趣味すれすれの細部の充溢を好んだ」というところがなんともはやオタク的。
この本を手がかりに考えれば、貴島さまがご指摘の「プロットよりは人物描写の方が・・・」といった方面もより展開が広がるだろうし、或いは鏡塵さまの「何故このように意味の過剰な「偶像」が流通しえたのか、言い換えれば、かくも解釈者に過度な負担をかけるコミュニケーション様式が何故当時成立しえたのか、という点」についても有効な補助線を提供してくれるのではないかと思うのです。
もっとも、どちらの本もしっかりと読み直すには時間も手間もかかるので、いつかいつかと思いつつ、サイト開設以来手がついていないのでした(苦笑)。
さて、『倒錯の偶像』巻末の「訳者あとがき」には、「力強い推薦文を寄せてくださった高山宏氏」への謝辞が述べられています。一方、『ヴィクトリア朝の宝部屋』は「異貌の19世紀」というシリーズの一冊として刊行されたもので、このシリーズは「高山宏責任編集」と表紙に明記してあります(アマゾンで表紙の拡大画像を見れば判ります)。つまりこの2冊の本の日本語訳が出た背後には、高山宏氏という仕掛人がいたということになります。
高山宏氏とは、シチリア王国の研究者・・・は「高山博」の方で、英文学者として知っている人は知っている人であります。ちなみにリンク先のウィキペディアにあるとおり、都立大→首大の教職にある方ですが、高山氏が着任された時の都立大の英文学科には、ディケンズ研究の第一人者にして希代の鉄道趣味者・小池滋先生がおられたのでした。この栄えある英文学科をガタガタにしたという一点のみでも、メイド好きは石原都政に反対票を投じうるものと思います。
高山宏氏の本は、最初に出合った『ガラスのような幸福』ですっかりはまってしまって以来結構小生は読んでいます。デパートについて蒙を啓かれたのも高山氏の本がきっかけで、先日当ブログ(こことここ)で触れた『淑女が盗みにはしるとき―ヴィクトリア朝期アメリカのデパートと中流階級の万引犯』を知ったのも同書がきっかけでした。
その高山氏の業績について一口に説明するのはなかなか難しいので、ちょうどウィキペディアからリンクが張ってある、カリスマ編集者(?)松岡正剛氏のサイト「千夜千冊」の、高山宏『綺想の饗宴』の紹介文にまんまリンク張っておきます。この記事中に『倒錯の偶像』も出てくるし。
全く余談ですが、この『綺想の饗宴』の中で『倒錯の偶像』が登場する同じページに、「漫画、アニメ」という言葉が出てきます。どういう文脈か関心のある暇な人は読むといいかも。但し、訳者あとがきの「力強い推薦文」は『テクスト世紀末』という本に載っているもののようです。
というわけで『倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪』が投げかける問題は大変な広がりを持ちうると思うのですが、以上のようにヴィクトリア朝と現代オタク文化の相似性を考えた時、もしかすると『倒錯の偶像ver.2 20世紀末幻想としての女性悪』とでも題して、それこそ「萌え」的な画像をかき集めても同じことができるんじゃないか? なんて妄想が浮かんできます。
もしそんな本を作るとしたら、絶対に参照されるべき先行研究となる本が一冊ありますね。
永山薫『エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』です。だから小生は本書の索引を作った・・・というのは後からつけた理屈だけど。どうでもいい話ですが、上掲リンクで高山宏氏のことを賞賛している松岡正剛氏(高山・松岡は仲が良いらしい)のところに永山薫氏は弟子入りしていたことがあったそうで(こちらの記事参照)。うむむ。
なんだかこういう話を書いていくと、いくらでも話ができそうですが、もう既に読者の方の都合なんかさっぱり考えてませんね。酒席で小生の近傍に坐ってしまった不幸な方は経験済みの事態と思いますが(笑)。
ただ、本を読む楽しみとか、勉強することの意義というのは、こうやっていろんなことが「繋がる」ことの快感にあるんじゃないかと思っています。一つのトリビアは所詮一つのトリビアに過ぎませんが、集めて並べて繋げてみると、何倍も楽しむことができるのではないかと。
そのことを述べている、高山宏氏の著作の一節を引用して、この雑文の締めくくりとさせていただきます。小生が一番最初に読んだ高山氏の作品『ガラスのような幸福』の巻頭に収められている「リコネクションズ」(初出時の題名は「耽溺、五万冊の宝庫から」)です。つまり最初に読んだ高山作品がこれでした。そして以後の人生微妙に曲がることに。
五万冊の一点一点が索引の一項目に納まるような究極の巨大書物として、一個の図書室をイメージできた。もはや一冊一冊の内容には興味がない。それらの相互の生成関係、エリオットが「伝統」、フライが「トポス」と呼んだものにしか関心がわかなかった。(中略)ところでなぜ『ガラスのような幸福』を古本屋で買ったかというと・・・もうやめておきます。
そう。「繫がり」がすべてだ。ひとつの繫がり(コネクション)ではもはや何も見えてこない時、別の繋がり方(リコネクション)がさぐられなければならない。それを「パラダイム変換」と人は呼ぶが、なんのことはない、ぼくは五万冊という膨大な本の中に寝もやらで遊びながら、それを体得していたことになるのだと思う。
私事ですがたまたまこの間、西欧絵画に描かれた女性像というテーマで一般向けの講座をしまして、その中でミソジニー視点について述べたばかりだったので、このエントリは特に面白かったです。『倒錯の偶像』も読みましたが、あそこまで調べ上げる情熱の中に、「倒錯の偶像」への筆者自身の傾倒があるという感じもしました。批評的観点を提出するにしても、やはり個人的な感興が湧かないと書けないものだろうなと。
キリスト教自体にミソジニーは含まれており、それが性規範の強化と共に顕在化したのがヴィクトリア朝ですね。当時の女性のファッションは、胴体を締め上げるコルセットに見られるように、「型」優先のディシプリンなものですが、本来「邪なる女」を「型」に入れることで従順化し支配するという意味で、メイド服など制服への嗜好はよくわかります。
ちなみに高山宏には『アリス狩り』でハマって、昔しばらく読んでました。荒俣宏、松岡正剛と並ぶ図書館みたいな人ですね。
将来、是非『倒錯の偶像ver.2 20世紀末幻想としての女性悪』を書いて下さいませ。絶対面白いと思います。
「エイリアン」シリーズの3がヒロインを虐め抜くストーリーになっていたのは、80年代のフェミニズムの浸透による女性の社会進出に不安と怒りを感じた男性のミソジニーの現れである、と内田樹がどこかで分析してました。
まとまりなく長々と失礼致しました。
このえらく長い記事への、懇切なコメントありがとうございます。
小生は芸術作品の鑑賞能力に欠けているので、大野さまのような方のご意見は大変勉強になります。
>男性の作り出す女性イメージはすべて、多かれ少なかれ倒錯的なものではないかという気がします。特にビジュアル表現で。
こういった点は考えたことがあまりありませんでした。また、ビジュアル方面への展開となれば、衣裳も同じ様な文脈で捉えなければならないのかもしれませんね。
フェミニズムに対するバックラッシュ的傾向、と捉えれば昨今の世相も当時と似ているところはあるとも思われますが、しかし女性の地位については大きな違いもあります。それが現代の「倒錯の偶像」の形成をどのように特徴付けたかは、考えて見たいところですね。
『エイリアン』については、最初はむしろ新たな女性像を打ち出したという面もあったような(と、確か石井達朗『男装論』にあったような)。
『倒錯の偶像ver.2』はいつか書かれるべき本だと思いますが、小生にはおそらく荷が勝ちすぎていると思います(苦笑)。
コメントありがとうございます。
久我さまのご研究の刺激となりましたら、本書を貸したものとしても冥利に尽きます。
ご感想の続きを楽しみに待っております。
こちらとしても、この記事の補足は書きたいと思っているのですが・・・
>『倒錯の偶像ver.2』
ご指名をいただきまして光栄ですが、やはり最適任者は鏡塵さまだと思います。
対象への知識と批判精神だけでなく、深い愛も兼ね備えているだけに、ダイクストラを超えるかも知れません!?